八十七冊目『知性は死なない 平成の鬱をこえて』
「府雨の読書日記」八十七冊目『知性は死なない』
『知性は死なない 平成の鬱をこえて』
著 與那覇 潤
大学、躁鬱、平成。
ワクワクするトライアングルですよね。
大学受験で躁鬱を患って、十八歳から何年ももがいた身としては、実に興奮する字面です。
僕は双極のⅠ型で著者はⅡ型なので、切り取り方は全然違うのですが、長い闘病と、能力の減衰に関しては、共感することも多いです。
最近わかったのですが、人というのは、何かイデオロギー的な正義があると、飛びついてしまうみたいです。
それは著者がしばしば記述している、「不正義や欺瞞」に対する告発的な心理でも、あるいはもっと簡単な「優越感」の発露にしても。
正当な理由があれば、他者に対して優越感を覚えていいと思った人の残虐さというのは、実に面白いです。
正当な理由が例えば「誰かが言っていた」程度の根拠づけで、その誰かが知っている人ならもう十分すぎるということですから。
理由を言明せずに意見を述べると、それはどうしてだろうかと聞いてくる人もいますが、理由があればいうことを聞いてくれるのでしょうか。
僕がそう思うということを、理由がない(と思える)ことで否定していいのでしょうか。
言語化できる部分だけで戦っている人は、言語化されないことを否定し、恐れますが、言語化されることで説明できることは、おおよそ中学生でも理解できます。
そういう意味で哲学者なんかがやっていることは「言語化」とは言えない。
著者は言語派と身体派と区分して、自分を言語派に分類していますが、僕はその区分の中で言語派でももう少し分けた方がいいと思います。
理論派と具体派、要約派と物語派などなどで。
理屈がつくことだけしか自分の意見にできない、説明できないものは不完全だ、と思う人は少なくないみたいです。
でも、説明や要約をしてしまえば、最初にあった具体的な情報の完全性は、極めて手際よく省略されてしまいます。
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大学という世界では、いろんな「遊び方」ができます。
僕は基本入院しているか、寝てるか、小説を書いているかだったので、極めて非効率な生き方をしていました。
読書は、残念ながらできませんでした。鬱か躁のどちらかだったので。
でも、大学がそういうことをしていても許されるというのは、ラッキーだったなと思います。
中退しましたが、たくさん遊ばせてもらえました。
人生がレースだとしたら、ずっとアイドリングしているか、逆走しているか、あるいは暴走しているかのどれかです。
でも、事故らなかった。
その自分の輪郭をなぞって空間と意味とから切り離していく行為は、とてつもなく非効率で、何の成果も出ないけれど、楽しいものではあります。負け惜しみ的に、ではありますが。
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双極性障害のⅠ型は鬱の深いⅡ型と違って上の波が高く、僕の場合統合失調症的な症状も併発していました。
その時、ずうっと、どこからが正常で、どこからが異常かを、頭で考えながら生きていました。
おかしいのはどこからで、普通なのはどこまでかと。
鬱で寝ている時は、高校まで十年無理をしたのだから、十年かけて治そうと思ったものでした。
絶望するのは割に合わない。だから絶望しないという、あまりにも非論理的なロジックで自分を慰めていました。
声が聞こえるとか、そういうのは僕にとっては今でも普通のことで、筒抜け妄想なんか僕の中ではまだほぼ真実です。
でも一方で「普通」がある。
たとえ自分にはわからない「普通」だとしても、現にあるのだという腑分けに、抵抗は感じません。
自分と異なる価値観があり、自分と異なる世界観があることは、例えば唯物論や決定論を僕は信じませんが、そういう考え方に共感しないだけで、否定するだけの理路を声高に主張しないことを意味します。
僕の価値観が育まれた教育環境は、わからないことをいかに表現するかという、とても素朴な大学的、人文学的な風土に満ちていました。
平成は、特有の個性を僕らに要求して、隣の人との答えが違うことを言祝いでくれました。
だから僕は安心して、違う世界に行けました。病気をしても単なる「違い」でしかないと信じられたのです。
誰かと同じ答えを持っていること。怒られた時言い訳できる理由があること。
そんなことよりずっと、自分が病気について考えることで得られた「悲しみ」みたいなものが、大切だったのです。
だから、僕はもしかしたらAIを恐れないかもしれません。頭の良さや正解ではなくて、「悩んだ」という言葉では軽すぎるくらい苦しんだことを自分で言祝いでいるから。
AIが病を得たら、それはもしかしたら僕の出番かもしれませんね。
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言語化については、単なるスキルであり、実在に必要なのは、どれだけの語彙を持ち、それをどれだけこらえて言わないか、ということのような気がします。
なぜなら、人は言語化することで情報を縮減し、伝達することで情報を変質させます。
僕は、誰からも理解されないことに価値があると思っています。そしてそれは自分が考えているという一点の事実において、極めて広範な普遍性を獲得するからです。
簡単なこと、感情をわかる形で表出させることに、僕はあまり意味を感じません。
語彙をためることで、内面は発酵して、複雑化します。言葉にしなかったことが僕を作り上げる。
言葉に「しなかった・できなかった」という経験が、最も重要な鬱の契機であり、メランコリーと創造性の関係性の意味で、最重要の芸術への契機だとも思うのです。
そして、例えば誰かに、自分の意見を伝えても、残念なことに共感を得られなければ、どれだけ素晴らしい意見でも、無視されてしまうか、反発されてしまいます。
その経験は互いに重要な経験になります。
わかってもらえなかったことは、深く内省されて、また新たな形をとります。
わからなかった相手は、もしかしたらただ僕を馬鹿にするだけかもしれません。
でも単に、自身の中に、該当する具体例がなかっただけなら、記憶されなかったとしても「わからなかった」という事実は残ります。
結局のところ人は自分で「発見」するしかない。
僕はだから、政治の本流である「対話による解決」よりずっと「言えなかったこと・わからなかったこと」に価値があると思います。
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だから「知性」というのは語り得ることで、語ることそのものが「能力」だとして、鬱はその「能力」の減衰だとする著者のイメージは、わかりやすくはあるけれど僕の躁鬱感とは違います。
僕は語ることは単なる「快感」で、鬱は快感が「損なわれた」状態というふうな理解をしています。
正確には、語るためには、つまり「快感」を得るためには、語らない「気まずい・鬱屈とした」時期が必要です。
双極とはエネルギー収支の歪みですから。躁・鬱の両方が現れてようやく安心できるのです。
(ちなみに僕は今でもめちゃめちゃ薬を飲んでいます)




