八十六冊目『夏帆』
「府雨の読書日記」八十六冊目『夏帆』
『夏帆』
著 村上春樹
『壁』があまり面白くなかったので、この最新作には読む前に不安もありました。
でも、読み始めてすぐわかりました。
面白い。
読みながらわかる傑作感というのは、なかなかないですよね。
皆さんの評価がどうなのかわからないのですが、僕は一点「守護天使」の位置付けがいまいちわからなかったです。
僕が楽しいなと思ったのは、僕たちが自分の人生の主人公なんだと、すんなり確信させてくれる力が、本に備わっていることでした。
人生の舞台に上がるのは、人によって時期もあり方もバラバラですが、必ずそういう時期がある。
そういう過渡期みたいなものを、春樹は『ねじまき鳥』でも『多崎つくる』でも『カフカ』でも書いてきました。
純文的な手法ではなくて、つまりテーマではなくて、水路を引くような手仕事で、いつもそれをわからせてくれます。
僕はメタファーにはとても疎くて、しっかりした文学的定見を持たないので、面白くないとダメ、なのです。
そこに観念ではなく手仕事の跡がないと、読めないのです。
過渡期。
外からは見えない変化。
自分にしかわからない戸惑い。
例えば「できなさ」みたいなもの。
解決の方法は、簡単ではないけれど、解決のための手助けはそこここにあって落ちている。
手を差し伸べてくれる人もいるし、自分だってアンテナを張っている。
でも、物語には答えがあるのに、僕らの人生に答えはないように見える。
例えば本屋で最近アドルノの『否定弁証法』を買いました。
たぶんそこには「答えらしきもの」があるんじゃないかと踏んでいます。
でも、多くの人にとってそれは答えではなくて単なる「勉強」になってしまう。
答えがあるところがわかれば、迷っても歩き続けられる。人文学は答えを手前においてはくれない。
もちろん休まなきゃいけない時もあります。
不思議なことに、僕は調子が悪い時は仕事の波が緩く、調子のいい時には仕事の波がキツいことが多いです。
運がいいのかもしれません。
焦るのは、理想の自分を想像している時です。
それさえしなければ、僕は僕の持ち場で、とりあえず今ある手と足で、仕事を続けるのですから。
***
本作は本当に30ページ単位くらいでざくざく読めます。
発売日七月三日に昼休みに職場の近くの本屋に行き、購入。
読了は七月十六日。
間に父親の誕生日があって、父親がご飯を作って、家族でご飯を食べました。
本当に美味しくて、嬉しかった。
その頃ずっと僕も苦しい時期で、あがいていました。
小説が書けない時期が少し続いて、勉強にも身が入らず、できることと言えばこんこんと文字を追うだけ。
春樹の作品は弱っている時に効きますよね。
三番底ぐらいの時は、『騎士団長殺し』を聴き流しで聴いていました。
文字が読めるのだとしたら、今は二番底くらいなのかな。
上長や先輩と同じくらいシャカリキに働かなきゃいけないと思い込んで、無理して穴を開ける。
新入職員がやるべきことなんて毎日会社に行くことくらいなのに。
だから今は、本を読んだりしながら、一日一日をできる分だけやって過ごすと決めたのです。
持ち場を守り、淡々と仕事を処理していく。
デオキシス、ディフェンスフォルム的な。
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アリクイの奥さんの一見遠回りな誘導とか、守護天使の不可解な言動は、そのまま周りの助けに相当します。
でも現実の手助けはアリクイより不可解な形で現れるかもしれません。
全てが首尾一貫していなければ小説じゃないなんて誰が決めたのでしょう。
それは物語の欠陥でも、人生の欠陥でもなく、単に僕たちがインスタントな答えを求め続けているから生じる不満です。
それを裏側から打ちつけて支えて窓を作ったのが本作だと思います。
僕たちはテクストを読んでそれから「つまりこうすればいいじゃないか」と要約します。
でも要約ができるのは、要約する前のテクストがあるからということを、決して忘れてはいけません。
そして、要約ができないからといってテクストを否定してはいけない。
なぜなら要約ができないのは、要約する側の問題であることが多いからです。
でもそういう意味では本作は、春樹にしては珍しく筋書きは「要約」できてしまうかもしれませんね。
それくらい普遍的な作品だと思います。




