八十五冊目『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』
「府雨の読書日記」八十五冊目『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』
『増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』
著 谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉
朱さんのローティの「100分で名著」をU-NEXTで観て、なんとなく新刊に刺さっていた本書を手に取り買う。
頭の働いていない時の僕には、かなりありがたい一冊でした。
先月の風邪を押して出勤し、友達と仲違いし、仕事の圧に屈する。
でも、最初は病休取るつもりだったのですが、なんとかそれは免れ、沈潜した二週間を過ごしました。
元気になってきて、一作短い小説を書き終え「ネガティヴ・ケイパビリティって小説を書くことだよなぁ」としみじみ思いました。
とりあえず言葉にできるものから片端から言葉にしていく。
傷ついたら本を読み、言葉にならないことを課題にする。
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本自体は、かなりライトな話題を扱っていて、切り口はちょっと作られた感というか、「工業製品」的なところがありました。
共感するところも多かったですし、参考になる部分もたくさんありました。
でも僕自身は時事問題にあまり関心がないし、SNSもやらないので、そういう「感度の高さ」には少し抵抗があります。
時事問題への「見方」を提供する意味では、幅広い読者を得る。だろうことは、わかります。文庫化されてますし、僕も文庫を手に取ってますし。
こういう本を読むと逆に僕なんかは時事的なことがこんなふうに展開しているんだと、膝を打つこともしばしばです。
でも、本書には文章それ自体を楽しめる感じはなかった。
若手の研究者の書く本は、内容や意見に偏っていて、文体や語り口が少し「化学調味料」的なところがあります。
本書は座談会で、各所に文章を読みやすくする工夫がなされていましたが、正直三人を区別することができないくらい「似ている」んです。
それって怖いなと思いました。
ニュートラルな文体「ヴィークル」を使っているということですけど、意見だけが受肉している状態。
朱さんの『〈公正〉を乗りこなす』を読んだ時も、思ったことでした。
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最近友達と仲違いした理由は、その友達が僕の語り口を否定したことに端を発しています。
非論理的だと言われたのです。
友達は、その上で対話の重要性を説いていました。
言葉は、意見であり、意見を否定したことは、人格の否定ではない。
どこかで借りてきたようなフレーズで「悪いのはお前だ」と言われたのです。
二つあります。
一つは、意見は私じゃないですが、言葉は私ということです。意見を否定されたなら僕は意見を取り下げるまでですが、言葉遣いや自分の思考(考え方)自体を否定されることは、自分の根幹に関わることです。
言葉は意見を証明しているのではなく、端的に「私」です。内心を表現する術としての言葉は、ほとんど自分自身と一致しています。たとえ形がいびつでも、それが私の概形であるはずです。
もう一つは、「正しさ」や「悪くなさ」みたいなものを自己弁護として使われたことでした。
友達は「俺が悪くないわけじゃないけど」と言っていたのですが、まるで言葉遣いにいい悪いがある、定まるみたいな感覚に、正直驚きました。
正しいロジックがある。とか、悪くなければ何を言っても許されるみたいな、免罪符的な感覚を、本気で持っているのに、これも驚きました。
悪くないとか、正しい、みたいな話は、自己正当化だけに終始する、邪悪な思考です。
彼には「正しい戦争」があるみたいですし、自衛戦争は「正当防衛」を類推的に適用する、不可避的なものらしい。
そこには矛盾を包摂できない性急さがあります。
無矛盾性は、論理的にはクリアで好ましいですが、実質的には純血主義的なところがあります。
混在したコミュニティで生きるのに、人の言葉を否定し、自分は悪くないというのは、対話に開かれているとは言えません。
そして、「対話」という言葉を、その友達が、まるで正しいことのように、ニュートラルな「善」として扱っていたことに、僕は肩を落としました。
それは政治の定型文句で、人間関係を政治的なものと考えているのかと、ため息をつきました。
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相手の言葉をなぞらずに「要約する」語法は、今やどこでも展開されています。
「つまりこういうことですよね」
「あなたの言っているのはAかBだったらどっちか答えてよ」
という「知的」操作は、自分の感知できない細かいニュアンスを捨象して、二者択一に持ち込む気の利いた手法ですが、それを知性と思っている人が少し多いような気がします。
言葉は要約ではなく全文の表すニュアンスを伝えたいがために発話されます。
要約することは、そういう意味では、知性のただれた裏側なのかもしれません。
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相手の言葉を否定しないのは、マナー以上に法のようなものです。
そのためにネガティヴ・ケイパビリティがあるのだと思います。
相手の言葉に言葉を継いで、比喩や言葉の連関から、話を発展させていくのは、会話の最も楽しい部分です。
最初の言葉を契機として、言葉は思いという自分自身を乗せる船となって海原を進みます。
矛盾を抱えたままの状態は、実は最も楽しいことです。
そこには謎があり、ロジックの不可能性の表出でもあります。
でもそれは、本質的に世界が無矛盾的にできていると思っている人、あるいは矛盾がある人は知的ではないと思っている人にとっては、度し難いことなのでしょう。
決まりきった海図を手に浅瀬を遊覧することで満足する。
矛盾がないということは、単に矛盾がないというただそれだけしか価値がないのに対して、矛盾が賦活してくれる楽しさは、言語を逆に活性化させます。
複雑な哲学者の著作は、矛盾を、「解決」することではなく「説明」することに力点があるのですから。
矛盾を説明する言葉は、私たちの頭から生成される、私たちの知性の本質だと思います。
つまりどういうことかというと、内部に矛盾抱え続けられる人しか、その矛盾を説明できる「全文」を要約なしに言葉にすることはできないということです。
僕が小説を書くのは、それらを僕自身の「全部事項」として記録したいからなんだとよく思います。
言語的に無矛盾であることには、あまり惹かれないということなんでしょうか。
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本書の描写は、ライトなので、矛盾の描写を克明にするのではなく「なぞる」ものでした。
概念を使うことではなく事例を追うことで、読みやすさを獲得しています。
対話というか、この座談会は「内輪でわいわい」とはちょっと違うところもあるような気がします。
文中で「対立する人との意見交換」みたいなものの政治的なコレクトネスが逆にもたらす、実際にそれを行った時の対立の深化みたいなネガティヴな結果の話がありました。
対立する人との対話みたいのものの政治的な「正しさ」を標榜することの現実的なネガティヴ・アスペクトは、意見が人だという短絡的な帰結に端を発しています。
でも重要なのはその人が「人」あるいは「人間」だという、欠かすべからざる視点です。
意見の正しさにはそこまで意味はなくて、話すことや書いたこと、話されたものや書かれたものが、面白いかどうかが重要なのです。
難し目の文章は「わからなくて」面白い。(要約ができないから)
その人の語る「言葉が」面白い。(抽象と具体ではもはやないのです)
だから、最後に「対話が重要」と友達に言われた時、「意見は戦わせるからいい」と言われた時は、本当に悲しくなりました。
違う人の意見を聞くのは面白いなんて、僕は思ったこともないし、正直言ってあまりにも政治的なテンプレだと思って、幻滅してしまったのですよね。
僕の意見は面白いけど、話は論理的じゃないなんて腑分けを友達がしているとしたら、確かにそれはすごいことだけど。




