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八十三冊目『中国化する日本』

「府雨の読書日記」八十三冊目『中国化する日本』


『中国化する日本』

 著 與那覇潤


 高校卒業して、春日の予備校に行っていた時に買った本。


 もうなくなってしまった、春日の本屋はとても懐かしい。そこで買った漫画「ストレッチ」良かったなぁ。


 その後すぐ病気になって、読めずにどっか行っちゃって、五年前くらいに安く売ってたので、神保町の東京堂で買いなおして、本棚にさしてあった。


 体調を崩して(主にメンタル)、会社を休んで二日目に、ようやく手に取って読み始めたのがこれ。


 今日休んで三日目。もはやどうすればいいのかわからない。


 十二年越しに本書を読めたのは良かったけど、完全に五里霧中。鬱です。


 そういえば著者の与那覇先生も、躁鬱だってどこかで言っていた気がする。


 確かにそう聞くと、本書も躁っぽい雰囲気をまとっている。


 どこかで「記憶力が落ちたのがショックだった」みたいなことを書いていたような気がします。


 わかるなぁ。


***


 会社に行きたくないけど、会社が嫌いとかでは全然ないのです。


 単に元気がない。本当にマジで元気がないのです。


 友達に慰めてもらったりしながら、今日は流石に病院行かなきゃなぁと思っています。


 ただまあ反省するのは、こういう文章を書く趣味は、思いのほかmpを使うということです。


 もし手書きなら、mpの減りも少なかったかもしれないですけど、今はパソコンやらスマホやらで、僕は一時間に1500〜2000字くらい書くから、体力持っていかれます。


 頭を使わないこういうダラダラした文章なら、あんまり疲れないのですが、それとて。という話。


***


 部屋を暗くして、カーテン越しの外の光を眺める。


 シャワーを浴びる気が起きない。


 本が読みたい。


 小説が書きたい。


 好きな音楽も楽しく聴けない。


 何が嫌って、休んでいるのに好きなことひとつできない体調。本当に嫌気がさす。


 ことのほかダメージを負っているというわけでもないのに、体が動かない。気持ちが言うことを聞かない。


 それはダメージを負っていると言うことのような気もする。しますが、だからなんだという感じです。


 だからなんだなのです。


 自分のことが自分ではわからない。


 どれくらい疲れていて、どれくらい困っているのかわからない。


 回復するために何をすればいいのかも、よくわからない。です。


 一日の長さ。一週間の長さに、本当に呆れるばかり。


***


 本書の中で、結構面白いなと思ったのは、「地位の一貫性の低さ」という話です。


 頭がいい人が金を持っていて、道徳的に卓越していて、権力を掌握している、というのが「中国的・グローバル的」であるとすると、日本はその一貫性がないそうです。


 こんなに働いているのに、バカなあいつより給料が低いなんて。みたいな。


 僕はなんとなくその一貫性のなさに惹かれるところがあります。


 役割(性質=タイプ)が分かれていて、能力主義的でない評価軸は、評価軸そのものの危機に対して柔軟な対応できます。最強のポケモンはいないのです。


 勉強するのが「自分の楽しみのためだ」という感覚とちょっと似ているかもしれない。


 何か目的があって、勉強したり、スキルを伸ばすのは、目的が意味がある時にしか有効ではない。


 能力という評価軸が一つだけで、単純な時しか「一貫性」は働かない。


 複雑な時勢に対応するためには、評価軸は複数であるべきだし、一貫性は仮のものであるべきと、僕は思います。


 中国が好きなのですが、中国化には違和感があるということですね。


 人より優れているから人より多くお金をもらうべきだ。


 人より徳が高いから、多くの人を従わせる権威を持っている。


 それもいいですけど、なんかちょっとカッコ悪いですよね。


 優秀さや徳の高さは、本来測れない。


 測れても、それを基に評定をつけて人間を序列化することに血道を上げるのは「一貫性」のための「一貫性」でしかない。


 一貫性に僕が抵抗感を示すのは、能力や徳によって評価する社会は、能力や徳にアイデンティティがあることを、無条件に肯定しているからです。


 能力や徳は、長い人生においてはおまけ程度の味つけでしかないのに、それがその人だと看做されることに、僕は我慢できない。


 味つけというか、能力が高いなんて、そんなことは当たり前で、信号を無視しないくらいの評価軸でしかない。


 能力が高いこと(コミュ力とかも含めて)で、人を一貫して評価することは、それなりに合理性がありますけれど、せいぜい高校くらいまでで、以降は副システムに切り替えていいのではないかと思うのです。


 評価してほしいと思うのかもしれませんが、能力本位にして嬉しいのは、単なる一直線のレースの参加者だけです。


 重要なのは「役割」だと思うのです。


 なぜなら、能力が高い、徳が高い人が地位に一貫した世界ではきっと、年収が高い人が徳があると類推されるからです。変です。


 それは1000万円稼ぐ人より1200万円稼ぐ人が優れていると思う、とても単純な世界です。


 人より200万円優れているというのは、どういう意味なんでしょう。


 自分に役割が割り振れていれば、それがアイデンティティと思うのですが。

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