八十二冊目『知識人とは何か』
「府雨の読書日記」八十二冊目『知識人とは何か』
『知識人とは何か』
著 エドワード・サイード
訳 大橋洋一
平凡社ライブラリー
二つの引用から始めます。
「たしかに、ものを書いたりしゃべったりするときめざしているのは、自分がいかに正しいかをしめすことではなく、むしろ、道徳的風土になにがしかの変革を引き起こすことである。」160項
「いまでは誰もが知っているように、西洋の主流をなすメディアで、合衆国の政策やイスラエルに対して批判めいたことを語るのは、きわめてむつかしい。逆に、アラブ民族やアラブ文化あるいは宗教としてのイスラムについて批判めいたことを語るのは、お笑い種といえるほど優しい。」186-187項
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仕事が忙しい中で、なかなか読めずにいた本。
サコッシュに入れて、いつでも読めるようにしていたのに、結局今、日曜の一時間を充てて、読了しました。
苦しい中、すがる思いで買いました。
八王子のくまざわ書店で。
なんとなくサイードの立場がわからなくて、敬遠していたのですが、読むと本当に涙が出てきます。
僕は、サイードの定義する知識人を目標にしています。
そして、サイードと親交のあった大江についても、最近友達と話して、やはり目標となる存在だと確信しました。
最初の引用は、僕の言い換えでは、知識人は人への働きかけをする存在で、(自分の、あるいは言語的な)正しさを追求することにはないということです。
話しやすい空気を作り、笑顔をもたらし、現状を批判し、良い人柄を前提とする。
社会に対して働きかける時、もしかしたら政治を思い浮かべることがあるかもしれないですが、サイードの定義はむしろ「アマチュア」的であるということです。
自由であり、常に心からの意見を述べること。
職業や専門に縛られず、違うと思うことに違うと言えること。
言葉を使う時、その言葉の正しさというより、どんなふうに言葉を使うかを考え続けること。
それは、実際に何が起こっていて、それにどんな立場で臨むのかということです。
例えば「対話による解決」が、実際の力関係の中でどんなふうに天秤を一方に傾けているかを、意識すべきということです。
現に問題になっている国の人をほとんど知らないのに、正しさから(言論的)攻撃をするのは、そこで生きている人への敬意を欠いています。
私たち(我々)という言葉が、一体どこまで有効に作用しているのか、きちんと知るべきです。
多くの人は「ネイション」を一つの共同体と捉えるみたいです。
でも、サイードのような人は言わずもがなですが、僕みたいな日本人も、ネイションを相対化することができます。
知識人というのは「知識そのもの」でもあるわけです。
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人と話す時に、人の意見を要約してしまう人がいます。
例えば「売買春は合法化(非犯罪化)すべきだと思う」と友達が言った時に、僕は「セックスワークを合法化することは、売買春を反面的に推奨することにならない?」と聞きました。
友達は「法の支配は道徳の支配に優越する」として、自説を補強します。
それには同意します。法は神が作るのではなく、人が作ります。そういう意味で、神の意思にもとる売買春は、社会の周辺部に追いやられてきました。
友達の主張は、結局「個人の自由」を法で制約するなということです。
個人の自由を法で制約しないことは、つまり規制緩和ということですけど、共同体にとってプラスなのかどうかが、僕には気になるのです。
違法だと売春が地下化する。女性の泣き寝入り被害が絶えない。
そういう議論はあります。
でもそれは、個別的な対策で救うべきで、法的に整合的にするためだけに、売買春を認めることは、大きな人権への挑戦です。
個人の自由のために、実質的な異性搾取を許すのは、重みづけができていないように思うのです。
でも、個人の自由というのは、とても強力な建前です。
自分の体を自己処分することは自由という観念は、少し古いですが一定数の人に支持されています。
それは、たぶん社会や家族やお金(資産)に守られている人が、それと気づかずに自分は一人で生きていると思うからなのでしょう。
でも、例えばお金に守られている人は、お金がない人の行動理由を想像することができない。
病気になったことのない人は、あくまで病気や障害は想像にとどまる。
そういう時、そういう人は「不自由」が怖いと思うらしい。
でも、最初から「私」は不自由であったわけです。
たぶん個人主義や自由主義的な立場からは、売買春は合意されていればお互いに望んでいることだと捉えられているのでしょう。
自分が望んでいると思っても、実際は望んでいないことなんか、世の中に山ほどあります。
例えば優等生の受験勉強とかね。大学とか行かなくてもいいのに。
要約は言語上の操作です。本来なら情報は完全なまま処理されるべきです。
「論理的であるというのは知的であることだ」
僕は逆だと思います。
論理にこだわること、ロゴスに重きを置きすぎることは、とても危険です。
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文脈や説明は時にわからない。
何を言っているかわからない。
そういう時に、相手の言葉を「つまり」とか「要するに」という言葉で要約して、言葉で意味を抽出して、意味的に解釈するということをする人がいます。
さっきの売買春の例で、そういう人は例えば「尊厳」という言葉がわからない。
法が人の尊厳を守るためにあるということが、理解できない。それは「尊厳」という実際の(意味ではなく)経験を、前提としているのにも関わらずです。
要約することで、私たちが本当に言いたかった「枝葉末節」の具体的な経験が、抽象化されてしまう。
経験を伝えたいのに、意味で理解されてしまう。
そして意味がわからないと「論理的じゃない」と言ったりする。
そういう経験をしたことがないだけなのに。
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個別具体的な経験からしか、僕は答えを出せない。
ヴァージニア・ウルフも似たことを言っていました。
理性的に考えたことは結局、言葉でしかない。
論理的であることは、その人の正しさでしかなく、社会への働きかけという意味では、ただの言い訳でしかない。
無理でも無茶でも、論理的でなくとも、実際に手を動かすことにまさる行為はなかなか見つからない。
答えがわかっていることを素早くなぞるのは、知的でもなんでもないことで、答えがわからない時にいかに自分の体を動かすか。
それは、社会から働きかけられることではなく、社会を理解することでもなく、「むしろ、道徳的風土になにがしかの変革を引き起こすこと」だと、僕は本気で思っています。
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政治的答弁のような定型文の何がいいのか。
僕は自由でありたい。
自分の言葉が、思ったそのものでありたいと心から願います。
それが文学部的であることの定義ですから。




