八十一冊目「ワイエス展・N響」
「府雨の読書日記」八十一冊目「ワイエス展・N響」
切り取り方が独特で、例えば写真にするといかにも陳腐な構図が、絵にするとこんなに描くのが楽しそうなんて。
六月十四日(日曜日)に、上野の東京都美術館に、前の職場の同僚とワイエス展に行きました。
その同僚は僕より四歳くらい若くて、真面目で、丁寧すぎるところもありますが、とても頼もしい男の子です。
彼とはたまに美術館に行ったりして、楽しく話します。
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意味の表れないところ。意味にならないところ。意味を求めないこと。言葉と違う絵という特性を画面に表現するとこうなるのでしょうか。
綺麗さ。美しさとは少し違う、歪みのない壁紙のようなワイエスの絵は、美しさという価値を主眼に置かないところに、親しみやすさがあります。
海の見え方。建築の窓的な手前と奥の空間。
晴と褻ではない日常的非日常。日常系というわかりやすさではなく、絵の効果についての天才的な洞察。
風を描くところとか、塗り方。
こういうふうに見えていたのか。だとすると特別な目です。異端的なのに受け入れられているというのは、その絵が真実だったからでしょうか。
広告的、アメリカ的? でもあり、純文的でもあります。
ユーモアより実直さ。
テーマというより雰囲気。
写実というよりモチーフ。写実的であるにも関わらず。
アメリカ的不幸とアメリカ的幸福の対比。
歪みのない直線、意志の強い目。
風「に」描くような筆の運びは、それを挑戦と感じさせないだけの、どこか学者的な試みに見えました。
美しいものを描いたわけじゃなく、美しく描いた。そういう意味では、美しさはどこかにあるわけではなく、絵そのものではなく、絵の様式そのものを言い当てているような気がします。
かっこよさがある人物。かっこいい人物のシルエット。
塗ると重ねるの使い分けとか、大掛かりなモチーフより細かいモチーフを好むところとかにも共感を覚えます。
ヨーロッパ的カフカ的悲劇的な世界観とは違う「衰え・衰微」の哀愁は、もしかしたら僕らにとって逆に身近なものなのかもしれません。
交流と思い出の「記録」ではなく「想起」のよすがを、ただ残したかっただけなのかもなぁとか。
清潔感のある白。ワイエスは白が好きなのではなく、世界はそもそも白い、のかもしれないなと思いました。
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お昼に渋谷に向かい、獅天鶏飯というお店をネットで探し、入ろうと思ったらかなり並んでいて、しょんぼりして入った近くのカレー屋さんのとんかつカレーを賞味し、かなり満足してからN響に行きました。
友達とは前に行ったことがあるのですが、今回、Aプログラム、三演目のうち最後の「バルトーク/管弦楽のための協奏曲」は、本当にすごくて、拍手が鳴り止まなかったです。
一演目めは、なんとなくしっくりこなくて、二演目めのモーツァルトは、直前に食べたカレーで眠気がすごく、あー、残念だったかなぁと思っての三演目め。
ほんとうに引き込まれました。クラシックコンサートというのは、「ぶって」自慢のために行くものと思っていましたが、本当に良かった。
友達(元同僚)も同じ感想だったらしく、二人でしばらく感動を共有しました。
その後でリベンジの獅天鶏飯。
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あのですね。美味しいですよ。ホント。また行きたいし、予約必須ということがわかったので、今度は予約してたらふく食べます。
予約してなくて三十分の席で、それでも食べましたけど、どのご飯も美味しくて。どちらかというとさっぱり。鶏もちゅるっといけます。
近くの桜ステージのツタヤで本を買い、スクランブル・スクエアのユナイテッド・アローズで服を一着。
スクランブル・スクエアの一階。友達が異動で「お世話になりました」お菓子を買っていたので、僕も祖母の誕生日プレゼントにお菓子を買いました。
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翌日の月曜日(昨日)がだるだるでしたが、なんとか頑張り切り、今日(火曜日)出勤前の準備でメガネが壊れ、十五日の給料日待っていたのかな? と思いました。
密度の濃い休日は楽しいですが、少し緩めないと仕事に響きますね。
今日はよく寝たので、メガネを買うだけで済みそう。
電車で座れなかったのはキツいですけれど。




