七十七冊目『山羊座』
「府雨の読書日記」七十七冊目『山羊座』
『山羊座』
著 石井ゆかり
占いは、結構好きです。
自己分析した後の検算に使っていると言うと、なんかそれっぽい感じがしますが、僕は、占いそれ自体を楽しんでいます。
山羊座なのですが、割と派手な服を着るところとか、趣味が多彩であることとか、ちまちました努力が好きなところとか、結構「当たってるな」と思います。
人間関係においても、人当たりはいいのに自己開示しないところとか、その通りだなぁと思います。
自己開示しないのは、自分でもその自己に気づいていないか、言語化できるだけの語彙を持ち合わせていないかのどちらかであることも多いのですが、それにしても「当たってるなぁ」と思います。
一方で、相性占いは飛ばしてしまいました。
多くの場合、気になる相手方の星座を知らないから。
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石井ゆかりさんの占いシリーズで、三年占いと一年占いは、出たら買っています。
占いを信じるというわけではなく、読み物として面白いのと、慰められるというわけで。
昨日日曜日は、午後四時に起きて、シャワーも浴びずにまた午後八時に寝ました。
ということで、朝五時に起きた本日月曜日に、全く元気がなく、ずる休みを決意しました。
シャワーを浴びても、コーヒーを飲んでも、全く元気が出ず、仕事を溜めてしまうなぁというため息もつきつき、とりあえず休む。
やることがないから、こうやって昨日読み終わった本書の日記を書いています。
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というか、書くことないな。
こういう日は珍しいのですが、音楽ばかり聴いて、ボォッとしています。
最近、また邦書?を買っています。
中国に行ってきて、十冊くらい本を買ってきて「しめしめこれでしばらく本は買わなくて済むな」と思った二週間前の思考はなんだったのか。
全然話が違いますが、前の職場の同僚と北京に行ってきました。
北京語が少し喋れるので、同僚をお連れして観光しました。
十年前、大学生だった頃に行った時は、北京大学の学生さんに案内してもらったから、今いるところがどこかもわからなかったのですが、今回は旅のしおりを作り、ガイドマップを引いて、何線に乗るとか調べて、楽しく旅をしました。
タクシーの運転手さんに「哪里人?」と聞かれたのは嬉しかった。日本語にすると「どこ(何県)から来たの?」みたいなニュアンスですが「日本人です」と言うと、びっくりしていたので。「哪国人(何人)?」ではないところが自慢です、ドヤァ。
二人目の運転手さんにも「標準語うまいな」と言われました、ドヤァ。
とは言えちょくちょく聞き取れず、首を傾げる場面もありましたが、中国語を話したので、旅人としての印象は、悪くなかったんじゃないかと思います。
僕以外の二人は中国語が話せなかったので、窓口としては機能したかなと、控えめに思っていたのですが、一緒に回った二人には「いやいやタクシーの運転手さんと世間話ができるのすごいでしょ」と言われました! 嬉しい。
北京ダックと羊のしゃぶしゃぶを食べれて、とても満足です。
本屋は三里屯で入ったところがよかったです。綺麗でした。王府井と西単の本屋は、大きかったけど微妙でした。
もう少し中国語を上達させて、仕事とかで使えるようにしたいなと思います。
来年は同じメンツで重慶に行く予定。
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昔、中国に行った時よりずっと、中国の雰囲気が、よく言えば洗練され、悪く言えば活気がなくなったように見受けられました。
かつて野蛮に見えたのは、僕の恐怖心からくるもので、言葉を知った今では、日中はあまり変わらないように思えます。
日本化、つまり市場の限界と頭を打った経済成長は、中国にとってキツい三十年をもたらすような気がします。
でも、日本もそうであったように、それが文化を成熟させます。個人の内省を深めます。
僕は、停滞と抑うつという苦境が、哲学や文学に滋養を与えると信じています。
能天気な楽観論を口にするくらいなら、苦しい鬱の中にいる方が好きです。
苦しさの中で「何がいけないのか」を問い続けることは、たとえ言葉の上で解決策が見つからなくても、とても重要なことと思います。
鬱の中に求められているのは鬱になることで、問題を解決することでも、外に出ていくことでもありません。
自分の輪郭をなぞり、ただただ休養することです。
公園から歌を歌う声が聴こえなくなったのは、僕には少し残念でしたけど。
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軽く書いた「日本化する中国」とは、與那覇先生の『中国化する日本』のもじりですが、もちろん歴史的にそうだ、と言いたいわけではなく、中国らしさとか日本らしさというのは、相対的なもので、いまさら「朝貢」や「帝政」を中国らしさと言うのには無理があるような気がするという程度のことです。
少年たちが国家図書館で一心に勉強している。
そうとしかできないとしても、僕は日本人としてその光景を「羨ましい」と思います。
なんで羨ましいのかはよくわからない。たぶん、勉強に集中できるのが羨ましいのか、あるいは、国家図書館に通えるくらい、いいところに住んでいるのが羨ましいのか。
たぶん日本人として羨ましいのは、勉強したい人が図書館を覆い尽くすくらいたくさんいたことでしょう。
国力とかそういうものではなくて、そういうジグソーパズルの風景の中に自分というピースをはめ込むことができることに、羨ましさを感じます。
大きな「勉強」の流れに自分を置くことができる。
僕は誰かと競ったり、何か大きな流れの中で役割を見出したりせずに、手慰みに勉強しています。
それはあまりに、悲しいことのように思えます。
勉強したことを社会に還元しなくてはいけないなんて、素敵じゃないですか?
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中国が羨ましいのです。
目的を持って勉強し、その目的は、社会を見据えている。だから、ああいうふうにたくさんの人が図書館に集まれる。
日本人は、自分のために勉強している。だから虚しいんじゃないかとたまに思います。
だから、中国の少年たちが、「自分の人生のため」に勉強しているように見えたとしたら、それが日本化の証拠です。
僕は自分のためだけに勉強していることを恥じませんが、それは恥ではないというだけのことしか意味しません。
白紙の中を歩くよりは、風景のある道を歩きたい。
その風景が例えばあの、国家図書館の風景で、それは自己満足でもなんでもないと、強く主張したいのです。
自分の気持ちではなく風景が、自分の周りの風景が大切なのだと僕は思います。
そして風景を作るのは、自分と同じように勉強する仲間なのです。
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北京旅行で日本人だと意識させられることはありませんでした。中国語を使えたからかもしれませんが、中国人の日本および日本人に対するイメージは、国力の増加とともに限りなく無関心に近づいていると感じられました。
金持ち喧嘩せず。外国に対して敵意を持つ人は、もしかしたらどこか、自分に対して不満を持っているのかもしれません。
勉強している少年たちの姿を見て、その国を恐れることはあれ、嫌いになるとしたら、あまりに勉強していないことを認められない醜悪な自意識から来るものでしょう。
勉強している子どもに敵意を持つなんて、尋常なことではありません。
地べたに座りながら、厚い本をあぐらの上に置いて読んでいる女の子は、可愛いとかそういうこと以前に、どうやったらそういうふうに育てられるのかという疑問で、僕の頭をいっぱいにしました。
もし子どもができたら、あぐらをかいて床で本を読むことができるように、座布団を買ってあげよう。
そうしよう(かなりキュンと来たみたいです)。




