七十六冊目『日本精神史』
「府雨の読書日記」七十六冊目『日本精神史』
『日本精神史 自然宗教の逆襲』
著 阿満利麿
かたよみです。
全然共感できなかった。
新宿のブックファーストで、昨日(五月十五日お給料日)装丁が良かったので買いました。
本書『日本精神史』と書いて、宗教、主に仏教を取り上げて書いていましたが、どちらかというと先行研究の引用を自説と絡めていて、著者的には目的があるみたいでしたが、浅薄な感じが否めませんでした。
かたよみというのは、途中で辞めてしまったのです。
大学の教授ということで、研究者であるのは承知なのですが、それはあくまで研究で、全く現実を捉えていないと、僕には思えました。
だいたい、「神」になったことがないのに、どうして「神」を語れるのでしょう。
たった一人の日本人の心境の背景も想像できないのに、どうして資料だけで「日本人」を語れるのでしょう。
敗戦後、焼け跡で天皇を前に額を地についた臣民が、どうして日本人の全てだと想像できるのでしょうか。もしかしたら心裏に抑圧されたただの官吏だったかもしれない。そう言うしかなくて、心では泣いていたかも知れない。
研究対象としての大学人のおままごとが、果たしてどういうものなのかは知れましたが、人間がどう宗教に帰依し、どう崩れ、どう立ち直るか(つまり戦争に負け、今の世の中を作ったか)を考察せずに、普遍宗教の確信性のようなものをただ称揚するのには、開いた口が塞がらない。
責任を取ること如き浅薄な目的で、日本社会が築いてきた時空間上の達意の感覚を否定するのは、まるで良さというのが一方にあり、一方にはないと言うが如き主張です。
どの世界にも、取捨選択というものがあり、歴史というものがあります。
そういう考えがある、ということと、それを取り入れるということには千里の逕庭があります。
それは時として「男に授乳を要求する」ような、あまりに常識から外れた主張だったりします。
日本精神史を書いているのに、日本人になるなと言っているのでしょうか。
あるいは、今の歴史を今の時点で眺めることで、危機感を覚え、変革を説いているのかも知れません。
でも、今の日本人が無責任だと思うのは、もしかしたら著者とそのお仲間の空間においてだけで、実は日本人は、研磨した頭脳をもって日本人なりに課題に取り組んでいるのではないでしょうか。
人はある程度の識見を備えていれば、人に追従する付和雷同な考えで生きていくことを、諦めざるを得ません。
自分の頭で考えない人なんていません。
著者はおそらく「なぜ」を問うことで戦争や原発の問題が解決すると思っているのかも知れません。
でもそれは、自分が解決する側に回る責任を、外野にいるから放棄していいのだと暗黙のうちに自分に認めていることのように思われます。
実際に何かをする時にぶち当たる障害ではなく、著者自身も含めた、雰囲気で語る日本論こそが、日本に対する僕のフラストレーションです。
研究は大切です。
でも、この本は、実際に原発の廃炉に向けてすべきことに関して、何も言っていません。
大学というのはそういうところだと、僕は思いませんが、たまに大学教授とかで、外野からイチャモンをつけてくる人がいるのは、本当に憤ろしい。
特に「祭り」とか「祭祀」とかを「客観的」に文献化する人たちの気が知れません。
祭りに参加して、神をおろしてから言えよ。
***
天皇の戦争責任について、僕は一つ思うことがあります。
明治憲法下で、主権が天皇にあった時、天皇は僕たちの神であったかも知れません。確かにそうかも。
でも、天皇を崇拝する人も、天皇を崇拝しなかった人も、またどちらでもなかった人も、それぞれに一定のボリュームでいたはずです。たとえ一割でも全体で一億人いればかなりの人数になります。絶対値で考える必要は、必ずあります。
それは日本国憲法下でその割合が変わっても、必ずどのカテゴリーに人はいます。
一つのカテゴリーだけに焦点を当てて、それを「日本人」とするのは、たとえば韓国人っていうのはみな「ILLIT」だと早合点するようなもので、はなから何もわかっていない。
いろんな人がいるのになんで「日本人」でくくるのでしょう?
ですから、天皇が大切な人にとっては、天皇の戦争責任は重要問題ですが、どうでもいい人にとっては瑣末なことです。
それは、歴史認識がどうとか、日本人としてどう、とかそういう「正義」臭い話ではなく、実質的に僕(その人)がくるまれている空間と時間がどこにあるのかという話だけが問題なのです。
ところで天皇が責任を取ることで、何か具体的に日本人にいいことがあるとしたら、それは一体どういうことなのでしょう?
天皇が自身の過ちを認めることは、「日本も含めた国際社会にとって」は重要ですが、「日本人にとって」は一体どんなメリットがあるのでしょう?
それは政治制度が硬直的で、議論が議論なのかわからないこの現在の言論空間が、西欧由来のシステムによるものだということと、とても関連している気がします。
日本が息苦しいのは逆に、実際に即した適切な処理を気持ちよく行うことのできない、西欧由来の形式主義が原因で、さらに、責任を追及することで自分は野次馬になるという、日本のメディアや大学の、この本のようなよくある日本批判が原因なのではないでしょうか。
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大学にこの前まで修士でいた友達と話していた時に、ため息をつくようなことがありました。
違う人の意見を知れてよかった、みたいなことを言われたのです。
それにはとても同意します。
でもその意見は、彼のできること、性向とは少し異なることのような気がしたのです。
勉強して身につけることは、修養です。それはとても大切なことです。
実践と密接に絡むこともあります。
でも、学問的知識として対象を扱うような手法に問題解決的有効性があるとは思いません。身につけた武器を扱うのではなく、内面の体液がにじむように、できることだけやればいいと思います。人には人のやり方がある。
僕はそのことを、この本を読んだ時にも思いました。
なぜわざわざできないことをやるのが、当為とされているのか。
まるで現在を否定することが大学人のなすべきことのように思っているのではないか。
僕はいつも思います。現在は常にいつでも否定されてきました。あなたが言うまでもなく、僕らははよくわかっています、と。
その中で、現実的に今のリソースで、何を成し遂げるのか。
著者が思う「責任」と「普遍的思想」は、言うほど重要なのか。どうして重要と思うのか。
問題の根源が「日本人の国民性です」という物語に、僕は自信を持ってうなずくことは、ちょっと難しいです。
日本人にもいろんな人がいます。教育もルーツも多様な社会がもうすでに到来していることに、気づいていないのでしょうか。
山羊座生まれの人はこういう人だよという占いは信じますが、「日本人ってこうだよね」という論説は、ちょっと納得できません。
不思議ですね。




