七十四冊目『美女の正体』
「府雨の読書日記」七十四冊目『美女の正体』
『美女の正体』
著 下村一喜
とても面白い。文庫で読みました。写真家の方のエッセイ。
美女論というより女性論という感じもしますが、ありきたりな美しさの論評とは、少し違う感じがしました。
女優さんへの好き嫌いももちろん書いてありますが、それがしっかり根を張っていて、一つの見方を構成しています。
一度パラ見して、少し「化粧が濃い表紙だな」と思って敬遠したのですが、気になったフレーズがあったので、再度新宿のブックファーストに赴き購入。
改行も多くとても読みやすい。さらりと読んでしまいました。
最近この読書日記の更新ができず、三宅香帆の言うとおり、働いていると本は読めないみたいです。
昨日体調がすぐれず、早退けして、寝ながらこの本を読んでいました。
哲学系の本ばかり買っては積み買っては積みを繰り返し、気分が全く乗らず、積み山を放って、この本を読み始めました。
かなりダウナーな時間でしたが、回復しました。滋味のある本です。
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美人を見る時に想像するのはまず「自分にとって」美人かどうかということです。
そして、誰かにとって美人かどうかということも想像します。
テレビも見ず、画一的な美人像を持ち合わせていないので、自分の好みにビタハマりする人というのは、世間からすればズレているかもしれません。
よく「府雨の美人は一般的にいう可愛い子とか美しい子じゃないよね」と言われます。
僕の目が追いかけてしまうタイプは結構一貫性があって、体が大きく、背が高い人です。
顔は、にへらと笑って歯が見えるのが好きです。
歯が少し不揃いなのもポイントが高い。
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テレビや映画の影響力が衰えて、加工した動画や写真がSNSに流れる中で、美人のイメージというのも少し変わってきているのかなと思います。
憧れより近さ、高級感より手軽さ。
芸能人という敷居の高さより、YouTuberの肉感に惹かれる。それはなんとなくわかります。
美しさより可愛さが、あるいは可愛さより親しみやすさが、美人のイメージを形成している。
でもたぶん、それでも美人という概念があるとしたら、それは「生き様」なのでしょう。
生まれ持って身についた容姿をコントロールするために、人生を費やす。
それは頭脳でも技能でも芸能でもそうですが、才能を持つ人の人生というのは、波瀾万丈です。
そんな中で、どんな人でも美しいという、本書の手がかりは、どのような容姿でも、それをコントロールしようとする人は、どんどん美しくなっていくということでした。
活力がある人は、「美しい」という言い方にならなくても美しい。魅力やアウラがあります。
頭脳も容姿も、その研磨をおろそかにすると萎え衰えます。天性だからこそ、人生が試される。
幸せになれないかもしれない。選ばれたが故に、困難が多いかもしれない。
でもそれは、いわゆる美人ではない人でもそうです。特別なことではない。ただ、頑張る人は美しい。
自分をコントロールする人。
客観的な視点で身の振る舞いを処す人は、必ずどこかの段階で美しくなっていく。
そう言うと、でも「容姿って天性じゃないの?」って言う人はいます。
でもたぶんそれは女性を容姿で選別して所有する対象として考えているから出てくる考えです。
外から見る時は天性に見えても、中では必ず磨いている。その努力は外から見えない。
でも輝いているということは、必ず磨いている。
ダイヤとして生まれても研磨しなければ輝かない。
そして、本書でも示唆されていたことですが、美しさはさまざまな形で遍在しています。
可愛いな。綺麗だな。それはどんな人でもそうです。少なくとも小さな子供の頃に、可愛くなかった子なんていません。
特徴的な顔立ちの人でも、見る人によっては美しくなります。誰にでも美しく見える必要はないんです。
そういうことが、とても説得的に書かれていて、読んでいて嬉しくなりました。
年を追うごとに美しくなる。男でもそうありたいものです。




