統治都市グランディア編⑧
「面倒だな……」
俺は広場の方角を見ながら呟いた。
「お兄ちゃん、今の影、広場の方に行ったんだよね?」
「ああ。少なくとも、あっちの方角だ」
「だったら、行ってみようよ!」
……やっぱりそうなるか。
俺は右膝に目を落とした。
アルベルトからもらった膝当てのおかげで、歩くのは随分と楽になった。
だが、痛みがなくなったわけではない。
できれば、さっさと屋敷に戻って寝たい。
「明日にしないか?」
「だめ! 連れ去られた人がいるんだよ!」
「……そうだな」
ユイナの表情は真剣だった。
先ほど助けられなかった住民のことが、よほど気になっているらしい。
アンジェリカも広場の方角を見ていた。
「確かに、調べる価値はありそうだ。あの異形が向かった先に何かあるかもしれない」
「兄様、行こう」
リナまでそう言った。
……三対一か。
最初から勝ち目などなかったらしい。
「分かった、分かった。行けばいいんだろ」
俺たちは、夜の街を広場へ向かって歩き始めた。
途中、何度か空を見上げたが、あの黒い影はどこにも見当たらなかった。
街は静かだった。
先ほどの事が嘘だったかのように、人の気配も少ない。
しばらく歩くと、広場が見えてきた。
中央には、以前アルベルトに案内されたときに見た古い石碑が立っている。
相変わらず、何の変哲もない石だった。
「……誰もいないね」
ユイナが辺りを見回す。
「ああ。異形の姿もないな」
アンジェリカは杖を構えたまま、周囲を警戒していた。
リナも水裂を手に、広場の奥を見つめている。
「ここに来たとは限らないぞ」
俺がそう言うと、ユイナは石碑へと歩き始めた。
「でも、お兄ちゃん。私、やっぱりこれが気になる」
「また石碑か?」
「うん。前に来たときも思ったんだけど……何か変なの」
俺には、ただの古い石にしか見えない。
表面は長い年月で削れている。
立派な飾りがあるわけでもない。
こんなものが、どうして街の真ん中に置かれているのか。
そのことの方が不思議だった。
「何が変なんだ?」
「うまく言えないけど……何か感じるの」
「何か、では分からん」
「もう! お兄ちゃん!」
ユイナが頬を膨らませた。
俺に怒られても困る。
分からないものは分からない。
アンジェリカが石碑へ近づいた。
「少し調べてみよう」
杖を構え、石碑へ向ける。
微かな魔力が杖の先に集まった。
アンジェリカは目を細め、しばらく石碑を見つめていた。
だが、やがて杖を下ろした。
「……妙だな」
「何か分かった?」
ユイナが尋ねる。
「いや。魔力を感じないわけではないが、特別な反応はない。少なくとも、今の私には異常があるようには見えない」
「そうなんだ……」
ユイナは残念そうに石碑を見上げた。
そのときだった。
「兄様、これ……」
石碑の裏側に回っていたリナが、俺を呼んだ。
俺が近づくと、リナは石碑の裏面を指差した。
そこには、何かが刻まれていた。
文字のようにも見える。
だが、長い年月で削れたのか、ほとんど形が残っていない。
「……落書きか?」
「違うと思う」
リナは小さく首を振った。
ユイナとアンジェリカも近づいてくる。
「本当だ。何か書いてあるね」
「古い文字のようだな」
アンジェリカが表面を調べる。
「読めるのか?」
「いや。これだけ削れていては難しい」
「じゃあ、何が書いてあるか分からないってことか」
「そうなるな」
……結局、何も分からないらしい。
俺は石碑に背を向けようとした。
その瞬間。
ズキッ。
右膝に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず足を止める。
何だ、今のは。
膝当てを装備しているというのに、突然痛みが強くなった。
「お兄ちゃん?」
ユイナが振り返る。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
「また膝?」
「少しな」
俺は右膝を軽くさすった。
だが、先ほどの痛みはすでに治まっていた。
いつもの鈍い痛みだけが残っている。
……気のせいか?
膝当てのおかげで、ここ数日は随分と楽だった。
それなのに、急にあんな痛みが走るとは。
「無理しないでね」
ユイナが心配そうに言う。
「ああ。分かってる」
俺はそう答え、もう一度石碑を見た。
相変わらず、ただの古い石だった。
……まさかな。
石碑と膝の痛みに、何の関係があるというんだ。
考えるだけ無駄だ。
「もう戻ろう。ここには何もいない」
「でも……」
ユイナはまだ納得していないようだった。
「調べるにしても、今は手がかりが少なすぎる」
アンジェリカが言った。
「それに、今夜の出来事はアルベルトにも報告した方がいい」
「……そうだね」
ユイナは石碑をもう一度見上げた。
そして、小さく頷いた。
俺たちは広場を後にした。
結局、連れ去られた住民の行方は分からなかった。
黒い異形の正体も。
そして、あの石碑が何なのかも。
分からないことばかりだ。
……面倒だな。
翌朝。
俺たちはアルベルトの屋敷で、昨夜の出来事を報告していた。
「……何だと?」
アルベルトの表情が険しくなった。
「黒い翼を持つ異形が、住民を連れ去ったというのか?」
「ああ。俺たちの目の前でな」
「それは間違いないのか?」
「間違いない」
アンジェリカが答えた。
「人間ほどの大きさをした蝙蝠のような異形だった。複数で住民を襲っていた」
「しかも、声が出せなくなったんです」
ユイナが続ける。
「黒い、細長いものが口にくっついて……私たちも声を出せなくなりました」
アルベルトは眉をひそめた。
「口を塞ぐ……?」
「異形の身体から伸びていたわけではない。独立して動いていた」
アンジェリカが説明する。
「魔力のようにも見えたが、正体は分からない。異形がすべていなくなると、それも消えた」
「そんなものが街の中に……」
アルベルトはしばらく黙り込んだ。
「それで、連れ去られた住民は?」
ユイナが俯いた。
「……助けられませんでした」
「そうか……」
アルベルトは静かに息を吐いた。
「いや、責めているわけではない。むしろ、他の住民を守ってくれたことに感謝している」
ユイナは小さく頷いた。
俺は椅子にもたれかかった。
「それでな。少し気になることがある」
「何だ?」
「あの異形は、住民を翼で包み込んだあと、ひとつの黒い影みたいになって飛んでいった」
「……影?」
「ああ。そいつが向かった方向が、街の広場だった」
アルベルトが顔を上げた。
「広場?」
「そうだ。あそこに古い石碑があるだろ」
「ああ。以前、案内したときに見せた石碑だな」
「ユイナが、あれを気にしている」
アルベルトはユイナを見た。
「何か分かったのか?」
「ううん。まだ分からないんです。でも、あの石碑……何か変な感じがするんです」
アンジェリカも口を開いた。
「私も調べてみたが、明確な異常は確認できなかった。ただ、石碑の裏側に古い文字のようなものが刻まれていた」
「文字?」
「ああ。リナが見つけた」
アルベルトはリナに目を向けた。
リナは小さく頷いた。
「……読めませんでした」
「そうか」
アルベルトは腕を組んだ。
「あの石碑については、私も詳しいことを知らない。グランディアが今の街になる以前から存在していたと聞いているが……」
「誰が作ったのかも分からないんだったな」
「ああ。何のために置かれたものなのかも分からない」
……ずいぶん怪しい石だな。
だが、怪しいというだけで壊すわけにもいかない。
そもそも、本当に関係があるのかさえ分からないのだ。
アルベルトは難しい顔をした。
「鎧兵の襲撃だけでも手を焼いているというのに、街の中にまでそんな異形が現れていたとは……」
「失踪した住民も、あの異形に連れ去られたのかもしれない」
アンジェリカが言った。
「可能性はあるな」
アルベルトは頷いた。
「これまで、行方不明者については何の手がかりもなかった。今回の話は大きな進展だ」
そして、少し考えてから続けた。
「今夜から街の警備を増やそう。特に、人通りの少ない場所を重点的に見回らせる。それと、広場には兵士を常駐させよう」
「広場も調べるの?」
ユイナが尋ねる。
「ああ。石碑についても、分かる者がいないか調べてみる」
「お願いします」
ユイナは深く頭を下げた。
俺はその様子を眺めながら、ため息をついた。
「……で、俺たちは?」
ユイナがこちらを向いた。
「もちろん、今夜も見回りするよ!」
……やっぱりか。
「俺の膝はどうなる」
「無理しない範囲でいいから!」
「それ、結局歩くってことだろ」
「お兄ちゃん!」
アンジェリカが小さく笑った。
リナも、少しだけ口元を緩めている。
……何がおかしい。
俺は椅子に深くもたれかかった。
まったく。
飯を食わせてもらっているとはいえ、働かされすぎではないだろうか。
アルベルトが苦笑した。
「無理をさせるつもりはない。だが、協力してもらえるなら助かる」
「……多めに飯は出るんだろうな」
「もちろんだ」
「なら、考えておく」
「お兄ちゃん、もう決まりだよ!」
……面倒だな。
その日の夜。
グランディアの街は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
街の警備は増やされ、兵士たちが各所を巡回している。
広場にも、数人の兵士が配置されていた。
月明かりが石畳を照らしている。
広場の中央には、古い石碑が静かに立っていた。
そのときだった。
夜空の向こうから、ひとつの闇の影が飛んできた。
それは街の屋根を越え、広場の上空へと姿を現した。
だが、兵士たちは気づかない。
闇の影は音もなく石碑へ近づいていく。
そして、石碑のすぐ上まで来たところで、不意に動きを止めた。
次の瞬間。
闇の影が、ゆっくりと石碑へ引き寄せられ始めた。
まるで、石碑そのものが闇を吸い込んでいるかのように。
影は抵抗する様子もなく、石碑の表面へと吸い込まれていく。
少しずつ。
確実に。
やがて、最後の一片まで消え去った。
消え去ったかと思うと、今度は石碑から何かが放たれた。
目を凝らさなければ分からないほど微かなものだった。
それは石碑を中心にいくつもの方向へ分かれ、街の周囲へと均等に飛んでいった。
まるで、街全体を取り囲む何かに向かっているかのように。
そして、それは夜の闇へと消えていった。
石碑には何の変化もなかった。
光ることも、音を立てることもない。
兵士たちは周囲を警戒し続けていた。
しかし、すぐ近くで起こったその出来事に、誰一人気づくことはなかった。




