アグニア草を、花束に。編②
「怪我はないですか?」
その声に、リゼットは答えられなかった。
目の前にいるのは、人ではない。
小さな身体。
黒い服。
そして、先ほど魔物を一撃で吹き飛ばした存在。
「…………」
リゼットは、無意識にリリアを抱き寄せた。
リリアも怯えたように、ミロから目を離せない。
二人の様子を見て、ミロは少し困ったように首を傾げた。
「……怖いですか?」
リゼットは答えない。
ただ、リリアを守るように身体を前へ出した。
ミロはそれを見ると、ゆっくりと両手を上げた。
「大丈夫です」
一歩、後ろへ下がる。
「僕は、あなたたちに何もしません」
それでも二人の警戒は解けない。
ミロは少し考えた。
「……僕は、戦うために来たんじゃありません」
ミロは静かに言った。
「困っている人を見つけたので、助けただけです」
リゼットは、ミロを見る。
先ほどまで魔物と戦っていた存在とは思えないほど、その声は穏やかだった。
ミロはさらに一歩だけ下がった。
「だから……そんなに怖がらなくても大丈夫です」
少しの沈黙。
やがて、リゼットが恐る恐る口を開く。
「……お前は……何なんだ?」
ミロは少しだけ考えてから答えた。
「ミロです」
「……ミロ?」
「はい」
ミロは小さく頭を下げた。
「僕はミロ。エルビス村に住んでいます」
リゼットは目を見開いた。
「エルビス村……?」
「はい」
ミロは頷く。
「村のみんなが、僕を受け入れてくれました」
その言葉を聞いて、リゼットの表情がほんの少しだけ緩む。
ミロは二人を見る。
「あなたたちは?」
リゼットはすぐには答えなかった。
だが、敵意がないことを少しずつ理解し始めていた。
「……俺は、リゼット」
そして隣を見る。
「こっちは妹の……リリアだ」
「……リリアです」
小さな声だった。
ミロは二人の名前を聞くと、嬉しそうに頷いた。
「リゼットさんと、リリアさんですね」
そして、倒れた馬車へ視線を向ける。
「まずは、安全な場所へ移動しましょう」
二人は顔を見合わせる。
まだ完全に怖さが消えたわけではない。
それでも――。
先ほどまで感じていた恐怖とは、少し違っていた。
目の前にいる小さな存在は、二人を傷つけるためではなく、助けるために、ここへ来たのだと。
少しずつ、二人にも伝わり始めていた。
――――――――――
「……それで、グランディアに向かっていた」
リゼットは、ミロに事情を説明した。
「リリアの治療をするために、グランディアへ行こうとしていた」
ミロは黙って話を聞いている。
「でも、途中で聞いたんだ」
「何をですか?」
「グランディアの周辺で、戦があったと」
リゼットの表情が曇る。
「街そのものは大丈夫らしい。でも……周辺から逃げてきた人たちで、今は街がいっぱいになっているらしい」
「避難してきた人たちが……」
リゼットは頷く。
「そんな状況じゃ、グランディアに着いたとしても、リリアがまともな治療を受けられるとは思えなかった」
リゼットは、眠ったままのリリアを見る。
「それでも、他に方法がなくて……」
一度、言葉を止める。
「で、馬車が魔物に襲われた」
ミロは黙って聞いている。
「馬車は壊れて……御者も、魔物を見た途端に逃げてしまった」
「…………」
「俺たちは、逃げることもできなくて……」
リゼットは唇を噛む。
「そこへ、お前が来てくれた」
「……そうだったんですね」
ミロは少し考えた。
そして――。
「それなら……」
ミロが口を開く。
「エルビス村へ来ませんか?」
「エルビス……?」
リゼットが聞き返す。
「はい。僕が住んでいる村です」
「……聞いたことがある」
リゼットは少し考える。
「確か……どこかで聞いた名前だったと思う」
「そうですか」
「でも、詳しくは思い出せない」
「大丈夫です」
ミロは頷いた。
「村には人もいますし、休める場所もあります」
リゼットはリリアを見る。
「……そこへ行けば、リリアを休ませられるのか?」
「はい」
ミロは答える。
「少なくとも、今よりは安心できると思います」
リゼットはしばらく黙っていた。
そして――。
「……分かった」
ゆっくりと頷く。
「エルビス村へ行こう」
「はい」
ミロは小さく頷いた。
こうして二人は、ミロとともにエルビス村へ向かった。
――――――――――
エルビス村。
村へ着くと、ミロの姿に気付いた村人たちが集まってきた。
「ミロ、どうした?」
「何かあったのか?」
ミロは、二人を見ながら事情を説明する。
「この二人は、旅の途中で魔物に襲われていました」
「妹さんが具合が悪いみたいなんです」
村人たちはリリアを見る。
「……かなり苦しそうだな」
「まずは休ませてあげよう」
村長も二人のもとへやって来る。
「ミロから話は聞いた」
「この村で休んでいくといい」
リゼットは深く頭を下げた。
「……ありがとう、……ありがとうございます」
ミロはリリアを村の中へ運ぶ。
そして、空いている部屋のベッドへ寝かせた。
「ここなら、ゆっくり休めます」
リリアは返事をすることもなく、苦しそうに目を閉じている。
呼吸が荒い。
ミロはその様子をじっと見つめた。
けれど――。
今のミロには、何か特別な治療ができるわけではない。
できることは、身体を休ませてあげること。
それだけだった。
「……少しでも楽になるといいんですが」
ミロはそう呟いた。
その後、ミロは食べ物を用意した。
温かいスープ。
パン。
二人分の食事。
ミロはそれを持って、リリアのベッドの横にある小さな机へ置いた。
「どうぞ」
リゼットは、食事を見ることもなかった。
ずっとリリアのそばに座っている。
リリアの顔を見つめ続けていた。
ミロはリゼットを見る。
「……少しは食べておかないと」
「…………」
返事がない。
「リゼットさんも、何も食べていません」
「……今はいい」
リゼットはリリアから目を離さない。
「リリアがこんな状態なのに……俺だけ食べるなんて」
ミロは何も言わなかった。
その気持ちは、少し分かる気がした。
だから無理に勧めることはしなかった。
「……分かりました」
ミロはスープをリゼットの近くへ置きなおす。
「食べられたら、食べてください」
そう言って、少し離れた場所へ下がった。
「……ん」
小さな声。
リゼットがハッと顔を上げる。
「リリア?」
リリアが、ほんの少しだけ目を開けていた。
「大丈夫?」
リゼットはリリアの顔を覗き込む。
その目は、潤んでいた。
今にも涙がこぼれそうだった。
けれど――。
リゼットは泣かない。
自分が泣けば、リリアが心配する。
姉として、そんな姿を見せるわけにはいかない。
リゼットは必死に涙をこらえた。
「大丈夫?」
もう一度、優しく声をかける。
リリアは答えない。
ただ、ベッドに横になったまま、ゆっくりと手を動かした。
震えている。
リゼットは、その手を見つめる。
リリアの指が、机の上に置かれたスプーンへ伸びる。
「リリア……?」
リリアは震える手でスプーンを握った。
そして、ほんの少しだけスープをすくう。
「無理するな」
リゼットが言う。
だが、リリアは止めなかった。
ゆっくりとスプーンを動かす。
そして――。
リゼットの口元へ持っていった。
「……え?」
リゼットは驚いた。
リリアは何も言わない。
ただ、スプーンを差し出したままにしている。
リゼットは、少しだけ迷った。
そして――。
スープを口に入れた。
温かかった。
ほんの少しのスープ。
それだけなのに。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
リゼットは俯きそうになる。
耐えていた涙が――。
片方の目から、一筋だけ。
ツーッと頬を伝った。
リリアはそれを見て、小さく笑った。
「……食べないと」
「…………」
「リゼットの分まで……食べちゃうんだから」
弱々しい声。
それでも、いつものリリアだった。
リゼットは涙を拭う。
そして、小さく笑った。
「……うん」
リリアの手から、そっとスプーンを受け取る。
「食べるよ」
「……うん」
リリアは安心したように目を閉じた。
リゼットはスープを一口飲む。
その隣で、リリアは静かに眠っていった。
ミロは少し離れた場所から、その様子を黙って見ていた。
――――――――――
その夜。
リゼットは、部屋の窓を開けた。
一羽の細身の鳥が、腕に止まっている。
「……ルル」
白銀の羽。
翼の先だけが、淡い青に染まっている。
リゼットは小さな紙を取り出した。
そして、短い文章を書く。
『エルビス村というところにいます』
紙を折り、ルルの足についた小さな手紙筒へ入れる。
「……姉ちゃんに届けてくれ」
ルルは小さく鳴いた。
「頼んだぞ」
リゼットが腕を伸ばす。
ルルは夜空へ飛び立った。
白銀の翼が、月明かりの中へ消えていく。
リゼットは、その姿をしばらく見送った。




