〇豊かな町編 2話
右膝に手を置いたまま、俺は窓の外を眺めていた。
遠くに見える巨大な城。
その周囲には、どこまでも続く畑が広がっている。
あれだけの作物があれば、本来なら町の人間が腹を空かせることなんてないはずだ。
なのに――
目の前にいる子供たちは・・・
俺は、さっき一番小さな子に渡したパンのことを思い出す。
あの子は、あれほど嬉しそうに食べていた。
よほど腹が減っていたんだろう。
「……」
俺は何となく、テーブルの上に残っているパンを見る。
子供たちは食べ終わった。
それでも、誰も「もっと食べたい」とは言わない。
母親も、何も言わない。
まるで――
これが当たり前なのだと言わんばかりに。
「お母さん」
ユイナが静かに声をかけた。
「はい?」
「税って……どのくらい取られるの?」
母親は一瞬、黙った。
そして、小さく息を吐く。
「……その年によって違います」
「違う?」
「収穫が多ければ、その分だけ多く納めます。少なければ……」
母親の言葉が止まる。
「少なければ?」
「少なくても、決められた量を納めなければなりません」
ユイナの顔が曇った。
「それじゃ……」
「はい」
母親は苦笑した。
「不作の年は、借金をしてでも納めるしかありません」
アンジェリカが眉を寄せる。
「それでは、農民の方々が生活できないのでは?」
「……ええ」
母親は静かに答えた。
「だから、この町では畑を持っている人ほど苦しいんです」
その言葉に、俺は少し驚いた。
畑がある。
作物も育つ。
なのに、それを作っている本人たちは食べられない。
どう考えても、おかしい。
「だったら……王様に減らしてもらえばいいんじゃないの?」
リナが素直に尋ねる。
母親は慌てたように口元へ指を当てた。
「……そのようなことは、あまり大きな声で言わないほうがいいです」
「どうして?」
「聞かれたら……」
母親は言葉を濁した。
ユイナが不安そうに母親を見る。
「何かあるの?」
「……反対した人が、戻ってこなかったことがあります」
部屋の空気が変わった。
「戻って……こなかった?」
「はい」
母親は視線を落とした。
「王様に税を減らしてほしいと訴えた人がいました。でも、その人は――」
そこで言葉を止める。
「……処刑された、と聞いています」
ユイナが息を呑んだ。
アンジェリカの表情からも笑みが消える。
リナも黙っていた。
俺は、ただ母親を見ていた。
王様。
税。
処刑。
そして、盗賊。
まだ何も分からない。
けれど――
この町が見た目ほど豊かではないことだけは、はっきりしていた。
そのとき。
外から大きな音が聞こえた。
「おーい!」
「畑のほうへ行ってくれ!」
「急げ!」
家の外を、人が走っていく。
ユイナが立ち上がった。
「何かあったのかな?」
母親が窓の外を見る。
その顔が、みるみる青ざめていった。
「……またです」
「また?」
「盗賊です」
俺も立ち上がった。
「どこだ?」
「西の畑です」
母親は慌てて子供たちを見た。
「あなたたちは、ここにいなさい」
「お母さんは?」
「私は……」
母親は少し迷った。
そして、外へ向かおうとする。
「畑を見に行ってきます」
ユイナがすぐに立ち上がった。
「私たちも行く!」
「でも……」
「大丈夫です」
アンジェリカも立ち上がる。
「事情を確認するだけでも、力になれるかもしれない」
リナも続いた。
「私も行く!」
三人がこちらを見る。
「お兄ちゃんは?」
「……俺?」
俺は窓の外を見た。
西の空。
そこから、黒い煙が少しだけ上がっている。
俺は小さくため息をついた。
「……面倒だな」
「お兄ちゃん!」
「分かってるよ」
俺は上着を取った。
「行けばいいんだろ」
ユイナが少しだけ笑った。
「うん」
俺たちは家を出た。
町の人々が、一斉に西へ向かっている。
畑のほうから、怒鳴り声が聞こえていた。
「やめろ!」
「それを持っていくな!」
「今年はもう何も残ってないんだぞ!」
俺たちは走った。
やがて見えてきたのは――
荒らされた畑だった。
せっかく育てた作物が、無残に踏み荒らされている。
収穫したばかりの袋も、いくつも転がっていた。
そしてその先には――
数台の荷車があった。
そこへ作物を積み込んでいる男たち。
「盗賊……」
ユイナが呟く。
男たちはこちらを見ると、舌打ちした。
「なんだ、お前ら?」
「その作物を返してください!」
ユイナが前へ出る。
「これは、この人たちが一生懸命育てたものです!」
盗賊の一人が笑った。
「だから何だ?」
「え?」
「俺たちが持っていくんだよ」
「どうして……!」
「決まってるだろ」
男は肩をすくめた。
「逆らったら、どうなるか知ってるだろ?」
その言葉に、周囲の農民たちが一斉に俯いた。
誰も口を開かない。
誰も反論しない。
まるで――
言い返すことそのものを恐れているようだった。
俺は、その光景を黙って見ていた。
盗賊の人数。
荷車。
農民たちの反応。
そして――
男たちが積み込んでいる作物。
何かがおかしい。
ただの盗賊なら、ここまで堂々と町の中で作物を奪うだろうか。
俺がそう考えた瞬間――
右膝が、ほんの少しだけ疼いた。
「……」
俺は膝に手を置いた。
だが、まだ何も言わなかった。
今は――
もう少し、見ておく必要がある。
そう思った。
畑の中に、重苦しい沈黙が広がっていた。
さっきまで聞こえていた怒鳴り声も、今はほとんど聞こえない。
農民たちは、ただ黙って立っている。
目の前では、自分たちが何日も、何週間もかけて育てた作物が荷車へ積み込まれている。
それなのに――
誰も止めようとしなかった。
「……」
一人の老人が、握りしめた拳を震わせている。
皺だらけの手。
土で汚れた爪。
その手は、畑を耕し続けてきた手なのだろう。
老人の目の前では、大切に育てた麦の袋が持ち上げられていく。
「……それは」
老人の口から、小さな声が漏れた。
けれど――
その先の言葉が続かない。
盗賊の男が振り返る。
「なんだ?」
「……」
老人の顔が強張った。
口が動く。
だが、声が出ない。
やがて老人は視線を落とした。
「……何でもない」
「そうか」
盗賊は興味を失ったように、再び作物へ向き直る。
老人は、ただその背中を見つめていた。
その横で、一人の若い農夫が歯を食いしばっている。
拳を握っている。
今にも飛び出しそうなほど、肩が震えていた。
隣にいた妻らしき女性が、そっとその腕を掴む。
「……やめて」
「でも……」
「お願いだから」
女性の声も震えている。
「子供がいるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間――
若い農夫の拳から力が抜けた。
「……っ」
彼は悔しそうに俯いた。
目の前で、自分の畑が奪われていく。
それでも何もできない。
戦えばいい。
追い払えばいい。
そう思っても――
その先に待っているものを知っている。
処刑。
家族への報復。
仕事を奪われること。
あるいは――
二度と帰ってこられないこと。
だから、誰も動けない。
誰も声を上げられない。
「……」
ユイナが、その様子を見ていた。
いつもの明るい表情が消えている。
「どうして……」
小さく呟く。
「どうして誰も止めないの?」
農民の一人が、ユイナを見る。
その目には、怒りがあった。
悲しみもあった。
そして――
何より強い恐怖があった。
男はすぐに目を逸らした。
「……関わらないほうがいい」
「でも……」
「お嬢ちゃん」
男は声を潜めた。
「ここでは、正しいことを言えば助かるわけじゃない」
「……」
「王様に逆らえば、死ぬんだ」
その言葉は、妙に静かだった。
まるで何度も何度も、自分自身に言い聞かせてきた言葉のようだった。
ユイナが息を呑む。
アンジェリカも黙っていた。
リナは周囲を見回す。
そこで、俺は気づいた。
町人たちが俺たちを見ている。
助けを求めるような目。
けれど、その視線は長く続かない。
誰かがこちらを見たことに気づくと、慌てて顔を伏せる。
窓からこちらを見ていた人もいた。
だが、俺と目が合った瞬間、すぐにカーテンを閉めた。
店先にいた男も、俺たちが近づくと黙り込む。
「……」
町全体が、何かを恐れている。
それも――
俺たちではない。
ここにいる誰か。
この町を支配している何かを。
そんな空気だった。
すると、一人の小さな女の子が母親の服を掴んだ。
「お母さん……」
「何?」
「あの人たち、悪い人?」
女の子が、荷車の男たちを見る。
母親の顔が凍りついた。
「……違うわ」
「でも、お野菜を――」
「違うの」
母親は、娘の口をそっと手で塞いだ。
「それ以上言わないで」
「……」
女の子は驚いたように母親を見る。
母親は娘を抱き寄せる。
その腕が、小刻みに震えていた。
「いい?」
母親は娘の耳元で囁く。
「余計なことを言っちゃいけないの」
「……どうして?」
「……聞かれるから」
その一言に、俺は眉を寄せた。
聞かれる。
誰に?
周囲には盗賊しかいない。
だが――
母親は盗賊だけを恐れているようには見えなかった。
もっと別の何か。
町のどこかにいる「目」。
それを恐れている。
「……」
俺は黙って周囲を見る。
すると、遠くの建物の二階に人影が見えた。
誰かがこちらを見ていた。
だが、俺がそちらを見ると――
すぐに窓が閉じられた。
「……監視されてる?」
思わず呟く。
「お兄ちゃん?」
ユイナが振り返る。
「いや……何でもない」
俺は視線を戻した。
盗賊たちは、相変わらず作物を積み込んでいる。
農民たちは、ただそれを見ている。
誰も抵抗しない。
いや――
できないのだ。
怒りがないわけじゃない。
諦めているわけでもない。
本当は、みんな怒っている。
悔しい。
苦しい。
奪われたくない。
家族に食べさせたい。
それでも――
恐怖が、それらすべてを押し潰している。
一人の老人が、震える声で呟いた。
「……去年、逆らった人がいた」
誰も返事をしない。
老人は続ける。
「税が払えないと言ってな……王様に直訴した」
「……」
「翌朝、その人の家の前に……首が置かれていた」
ユイナが顔を強張らせる。
「……そんな」
「だから、誰も逆らわない」
老人は自嘲するように笑った。
「生きているだけで、ありがたいと思わなきゃならんのだ」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は、胸の奥に嫌なものが残るのを感じた。
生きているだけでありがたい。
そんなわけがあるか。
畑を耕して。
作物を育てて。
家族を守って。
それでも、自分たちの食べるものすら残らない。
そして声を上げれば、殺される。
「……」
俺は何も言わなかった。
ただ、目の前の人々を見る。
怖がっている。
怯えている。
でも――
その目の奥には、まだ消えていないものがあった。
怒り。
悔しさ。
そして、ほんのわずかな希望。
助けてほしい。
そう叫びたいのに。
声にすることができない。
そんな目だった。
ユイナが、静かに拳を握る。
「……私、嫌だ」
「ユイナ?」
「こんなの……嫌だよ」
声は震えていた。
けれど、目は逸らしていない。
アンジェリカも、静かに周囲を見渡した。
「……随分と根深い問題のようだな」
リナが小さく頷く。
「みんな、ずっと怖かったんだね」
俺は三人の言葉を聞きながら、もう一度、遠くの城を見る。
白く、美しい城。
この町の中央に堂々と建っている。
その姿だけを見れば――
この町が豊かな国に見える。
けれど、その足元では。
人々が、自分たちの作った食べ物さえ奪われている。
そして誰も、それを止められない。
「……変な町だな」
俺は小さく呟いた。
その瞬間。
右膝が――
ほんの少しだけ疼いた。
「……」
俺は眉を寄せた。
まただ。
けれど、今はまだ分からない。
何が、この町で引っかかっているのか。
ただ一つだけ。
この町には――
俺がまだ知らない何かがある。
そんな気がした。




