32話
「お兄ちゃん、起きて!」
――ドンッ。
胸の上に、何かが乗った。
「……ん」
目を開ける。
「おはよう!」
そこには、いつものユイナ。
そして――
「……おはようございます、兄様」
少し離れたところから、リナが俺を見ていた。
「……」
俺は二人を見る。
「……何してるんだ?」
「起こしてるの!」
「それは分かる」
「リナも一緒に起こそうと思って」
「……そうか」
リナが小さく頷く。
「ユイナお姉ちゃんが、お兄ちゃんは朝起きるのが遅いって」
「余計なことを教えるな」
「だって本当だもん」
「……」
俺はため息をついた。
ベッドから起き上がる。
その瞬間――
「……っ」
右膝が少し痛んだ。
ズキッ。
俺は膝をさする。
「また痛い?」
ユイナが心配そうに聞く。
「いつものことだ」
「でも、昨日より痛そう」
「気のせいだ」
そう答えて、俺は立ち上がる。
リナが俺の右膝をじっと見ていた。
「兄様」
「ん?」
「そこ……痛いの?」
「ああ」
「ずっと?」
「まあな」
リナは少し考え込んだ。
「……変なの」
「何が?」
「見てると……少し怖い」
「怖い?」
「うん」
リナは胸元に手を当てた。
「何か、大きなものが入ってるみたい」
「……」
俺は右膝を見る。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
朝食。
テーブルには、いつもより一人分多い食事が並んでいた。
「リナ、これ食べてみて!」
ユイナが皿を差し出す。
「パン?」
「そう!」
「……」
リナはパンを手に取る。
一口。
「……おいしい」
「でしょ!」
ユイナが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、こっちは?」
「これは?」
「スープ!」
リナがスープを飲む。
「……これも好き」
「よかった!」
ユイナは嬉しそうに笑った。
俺は黙って食事を続ける。
すると――
「兄様」
「ん?」
「兄様は?」
「何が?」
「好きな食べ物」
「……」
俺は少し考えた。
「特にない」
「ないの?」
「ああ」
「じゃあ、嫌いな食べ物は?」
「特にない」
ユイナが呆れた顔をする。
「お兄ちゃんって、本当にそういうところ適当だよね」
「食べられればいいだろ」
「もう……」
リナが小さく笑う。
「兄様らしいね」
「……会ってまだ間もないだろ」
「でも、分かるよ」
「そういうものか?」
「そういうもの」
リナは少し嬉しそうだった。
朝食を終えると、ユイナがリナを連れて外へ出た。
「今日は何するの?」
リナが尋ねる。
「まずは村を案内する!」
「村を?」
「うん!」
ユイナは張り切って歩き出した。
「ここが広場」
「ここは?」
「井戸!」
「これは?」
「畑!」
リナは一つ一つ眺めていく。
村人たちも、少しずつリナに声をかけるようになっていた。
「おはよう、リナちゃん」
「おはようございます」
「昨日はよく眠れたか?」
「はい」
「分からないことがあったら何でも聞きな」
「……ありがとうございます」
最初は緊張していたリナも、少しずつ笑うようになっていた。
そんな二人の後ろを――
俺は少し離れて歩いていた。
「お兄ちゃん、なんで後ろなの?」
「歩くのが面倒だから」
「もう……」
ユイナが笑う。
リナも笑った。
俺はその様子を見ながら、村の景色を眺める。
以前とは少し違う。
住民たちの表情も。
村の空気も。
そして――
俺たちの家に、一人増えた。
「……」
不思議な感じだった。
ユイナと二人で暮らしていた家に、リナがいる。
まだ二日目なのに。
もう、それほど違和感がなかった。
「リナ」
広場へ戻ると、アンジェリカがいた。
「アンジェリカ」
リナが呼ぶ。
アンジェリカの眉が少し動いた。
「……なんで私、呼び捨てなんだ?」
「え?」
「いや……」
アンジェリカは少し困ったように笑う。
「まあ、いいけど」
ユイナが笑う。
「リナは誰でも呼び捨てなんですよ」
「そうなの?」
「はい」
リナが頷く。
「兄様とユイナお姉ちゃん以外は」
「……なるほど」
アンジェリカは腕を組んだ。
「じゃあ、私は特別じゃないんだな」
「でも――」
リナがアンジェリカを見る。
「アンジェリカは、大切」
「……」
アンジェリカが一瞬黙った。
「そ、そうか」
少しだけ顔を逸らす。
「なら、まあ……いいか」
ユイナが楽しそうに笑った。
「アンジェリカ、嬉しそう!」
「うるさい」
「ふふっ」
リナが笑う。
俺はその様子を見ていた。
「……仲良くなったな」
「ユイナのおかげだ」
アンジェリカが言う。
「私は何もしてないよ」
「そうか?」
「そうですよ」
リナが答えた。
「ユイナお姉ちゃんが、いっぱい話してくれるから」
「……そっか」
アンジェリカは少し笑った。
「じゃあ、今日は私も少し付き合うか」
「何に?」
「リナの魔法」
リナが目を丸くする。
「魔法?」
「水の力を使ってただろ」
「……うん」
「少し練習してみよう」
「私にできるかな」
「やってみなきゃ分からないよ」
アンジェリカは杖を構えた。
「水を出してみて」
「……分かった」
リナは両手を前へ出した。
目を閉じる。
「……」
しばらくして――
ぽつ。
小さな水滴が現れた。
ぽつ。
もう一つ。
やがて――
手のひらの上に、小さな水の球ができた。
「できた!」
ユイナが喜ぶ。
「すごい!」
リナは水の球を見る。
「……これだけ?」
「最初は十分だよ」
アンジェリカが答える。
「じゃあ、次」
「次?」
「少しだけ小さくしてみて」
「……小さく?」
「水を消すんじゃない。中身を少し押し込む感じ」
リナは集中する。
「……ん」
水の球が震える。
少しだけ――
小さくなった。
「おお……!」
ユイナが目を輝かせる。
「小さくなった!」
「ほんの少しだけだけどね」
アンジェリカが頷く。
「でも、今のはいい」
「本当?」
「ああ」
リナは嬉しそうに水の球を見る。
しかし――
「……っ」
水の球が崩れた。
地面へ落ちる。
「……疲れた」
リナが肩で息をする。
「無理しなくていい」
アンジェリカが言った。
「今はこれくらいで十分」
「でも……」
リナが拳を握る。
「もっと、できるようになりたい」
「どうして?」
「……みんなを助けたいから」
リナは俯いた。
「私だけ、何もできないのは嫌だから」
ユイナがすぐにリナの手を握る。
「そんなことないよ」
「でも……」
「この前だって、ちゃんと手伝ってくれたじゃん」
「水を出しただけ」
「それでもいいの!」
ユイナは笑う。
「少しずつでいいよ」
「……ユイナお姉ちゃん」
「一緒に練習しよう!」
「うん」
リナが笑った。
アンジェリカも小さく頷く。
「魔法は、使い方次第だ」
「使い方……」
「強い攻撃ができなくてもいい」
アンジェリカは杖を肩に乗せる。
「相手の目を狙ったり、足元を濡らしたり、視界を奪ったり――」
「……」
「工夫すれば、できることは増える」
「じゃあ……」
リナはもう一度、手を前へ出した。
「少しずつ、覚える」
「それでいい」
昼。
俺は家の縁側で寝ていた。
別に疲れたわけではない。
ただ――
「……眠い」
目を閉じる。
すると、遠くから声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!」
「……」
「お兄ちゃん!」
「……何だ」
目を開ける。
ユイナが立っていた。
「リナができたよ!」
「何が?」
「水!」
「……そうか」
「見て!」
ユイナの後ろから、リナがやってくる。
「兄様」
「ん?」
「見てて」
リナが手を前へ出す。
小さな水の球が現れた。
「……」
俺はそれを見る。
「少し小さくなったな」
「分かるの?」
「ああ」
リナが嬉しそうに笑う。
「もっと頑張る」
「そうか」
「兄様も、応援してくれる?」
「……」
俺は少し考えた。
「まあ」
「本当?」
「ああ」
リナは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「別に」
俺は再び横になる。
「兄様、寝るの?」
「ああ」
「……ふふっ」
リナが笑った。
夕方。
俺は村の外れまで歩いていた。
特に目的はない。
少し静かな場所に来たかっただけだ。
すると――
「……?」
地面に、小さな水たまりがあった。
その水面を見た瞬間。
右膝が――
ズキンッ。
「……っ」
赤い光が、ほんの少しだけ漏れた。
そして――
頭の中に、映像が流れ込んできた。
水。
広い庭。
五人の子供。
笑い声。
『兄様!』
誰かが俺の手を引いている。
小さな手。
別の誰かが笑っている。
その中に――
水を操っている少女がいた。
顔は見えない。
だが、その少女の手から流れた水が――
小さな花を包んでいた。
『見て、兄様!』
『綺麗?』
そして――
『いつか、この水で……』
そこで映像が途切れた。
「……」
俺は水たまりを見る。
「五人……」
今までの記憶と同じ。
五人の子供。
俺。
ユイナ。
そして――
まだ思い出せない三人。
「……リナも、いたのか?」
そう呟いた瞬間。
右膝が、また痛んだ。
ズキッ。
俺は膝を押さえる。
「……まだ、分からないか」
だが。
ほんの少しだけ。
何かが繋がった気がした。
水。
リナ。
五人の子供。
そして――
俺の失われた記憶。
「……まあいい」
俺は立ち上がる。
「そのうち思い出すだろ」
俺は村へ戻った。
夜。
食卓には、三人分の食事が並んでいた。
ユイナ。
リナ。
そして俺。
「いただきます!」
ユイナが元気よく言う。
リナも続く。
「いただきます」
俺は何も言わず、箸を取った。
今日も――
何でもない夜だった。
けれど。
昨日まで二人だった食卓に、今日は三人いる。
そのことが――
少しだけ不思議で。
少しだけ、悪くなかった。
俺は右膝をさする。
ズキッ。
「……痛いな」
「また?」
ユイナが聞く。
「ああ」
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
リナが俺を見る。
「兄様」
「ん?」
「いつか、治るかな」
「……」
俺は右膝を見る。
「さあな」
「そっか……」
「でも」
俺は少しだけ間を置いた。
「痛いだけなら、別に困らない」
リナが首を傾げる。
「どうして?」
「慣れてるから」
「……兄様らしい」
ユイナが笑った。
「それ、全然答えになってないよ」
「そうか?」
「そうだよ」
三人の間に――
小さな笑い声が広がった。
俺は黙って食事を続ける。
そして思った。
記憶はまだ戻らない。
自分が何者なのかも、分からない。
それでも――
今は、この三人で食卓を囲んでいる。
それだけでいい。
そんな気がした。




