26話
翌朝。
「……起きて」
「……」
「お兄ちゃん」
「……まだ眠い」
「もう朝だよ」
「知ってる」
「じゃあ起きて」
「面倒だ」
「もう!」
ユイナに肩を揺さぶられ、俺は渋々目を開けた。
窓から朝の光が差し込んでいる。
昨日は町に着いて、宿を取った。
北にある古い砦についても、赤い光が見えるという噂を聞いた。
今日はそこへ向かう予定だった。
「お兄ちゃん」
ユイナが俺を見る。
「今日は砦に行くんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、早く準備しよう」
「その前に飯だ」
「……やっぱり」
アンジェリカがため息をつく。
「ユイナの兄様は、どんな時でも食事を優先するのか」
「腹が減ってたら動けないだろ」
「それはそうだが」
「だから大事だ」
「はいはい」
俺たちは宿の食堂へ向かった。
* * *
朝食を済ませて外へ出る。
昨日よりも町は賑わっていた。
商人が荷物を運び、冒険者たちが武器を手に歩いている。
露店には食べ物や旅道具が並んでいた。
「せっかくだし、少し見ていかない?」
アンジェリカが言った。
「砦は?」
「急いで行く必要はないだろ」
「そうだな」
俺も頷く。
昨日の話だけで砦へ向かうより、もう少し情報を集めたほうがいい。
それに――。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「これ、見て!」
ユイナが露店の前で立ち止まった。
手にしていたのは、焼き菓子だった。
「買って」
「自分で買え」
「お兄ちゃんが買って」
「……」
俺は店主を見る。
「いくらだ?」
「三つで銅貨二枚だよ」
「じゃあ、それを」
「やった!」
焼き菓子を受け取る。
一つをユイナ。
一つをアンジェリカ。
最後の一つを俺が持った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「一つは俺のだからな」
「分かってるよ」
ユイナが笑う。
アンジェリカも焼き菓子を受け取った。
「いただきます」
三人で食べながら、市場を歩く。
魔物もいない。
戦いもない。
ただ人が行き交い、店が並んでいる。
こうしていると、普通の旅人になったような気がした。
「……悪くないな」
俺が呟く。
「何が?」
「こういうのも」
ユイナが嬉しそうに笑う。
「うん。私も好き」
アンジェリカも二人を見ながら微笑んだ。
* * *
市場を抜けたところで、古びた店が目に入った。
木製の看板には、
『古物・古文書』
と書かれている。
「ここ……」
アンジェリカが足を止めた。
「何か資料があるかもしれない」
「入ってみるか」
「うん」
俺たちは店の中へ入った。
「いらっしゃい」
店の奥から、年配の男が顔を出した。
店内には古い本や道具が所狭しと並んでいる。
「何か探してるのか?」
「王家に関する古い資料を」
アンジェリカが答える。
「紋章?」
店主が少しだけ眉を上げた。
「ああ」
俺が答える。
「昔のものなら何でもいい」
「……珍しい客だな」
店主は俺たちを眺めると、棚の奥へ向かった。
しばらくして、一冊の古い本を持って戻ってきた。
「これはどうだ」
表紙には、古びた紋章が描かれている。
俺の右膝が――。
「……っ」
ほんの少し痛んだ。
俺は膝に手を置く。
「ユイナの兄様?」
アンジェリカが気づく。
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
俺は本を受け取った。
ゆっくりとページをめくる。
王家の歴史。
歴代の王。
王都の建設。
過去の戦争。
古い領地。
そして――。
「……」
一枚の絵で、俺の手が止まった。
そこには、五人の子供が描かれていた。
二人の少年。
三人の少女。
その中央には、紋章。
「五人……」
俺は小さく呟いた。
地下で見た五つの印が頭をよぎる。
第一の印。
第二の印。
第三の印。
第四の印。
第五の印。
五つの印は、五人の王家の子供と対応している。
そんな気がした。
「お兄ちゃん」
ユイナが絵を覗き込む。
「これ……」
「ああ」
俺は頷いた。
「王家の子供たちだ」
絵の中。
一人目は少年。
その隣に少女。
さらに少年。
そして少女。
最後に、もう一人の少女。
五人の兄妹。
俺の記憶にはないはずなのに。
なぜか、妙に懐かしい。
「……」
俺は絵を見つめた。
すると。
一人の少女だけ、顔の部分がひどくかすれていることに気づいた。
「この子は?」
俺が尋ねる。
店主が絵を見る。
「ああ……」
少し間を置いてから答えた。
「第二王女だ」
「……第二王女」
その瞬間。
「――っ!」
右膝がズキッと痛んだ。
頭の奥に、声が響く。
『兄様……』
俺は思わず本を押さえた。
「ユイナの兄様!」
アンジェリカが心配そうに近づく。
「大丈夫だ」
「でも……」
「少し痛んだだけだ」
俺は絵へ視線を戻した。
第二王女。
その言葉だけで、胸の奥がざわつく。
顔は思い出せない。
声だけが、頭の中に残っている。
『兄様……』
あの地下で聞いた声。
あれは――。
この少女なのか?
「第二王女って、どんな人だったの?」
ユイナが店主に聞いた。
「詳しいことは、あまり残ってない」
「どうして?」
「王家が滅びる前に、行方が分からなくなったからだ」
「行方不明……」
ユイナの表情が曇る。
店主はページをめくった。
「ここに少しだけ記録がある」
そこには、古い文字が並んでいた。
『第二王女、王都を離れる』
『行き先、不明』
『北方へ向かった可能性あり』
「北……」
アンジェリカが呟く。
俺は地図を見る。
北には、昨日聞いた古い砦がある。
「この記録が残されたのは、王家が滅びる前?」
「ああ」
「その後は?」
「何もない」
店主は首を振った。
「生きているのか、亡くなったのか。それすら分からん」
俺は黙って絵を見る。
顔のかすれた少女。
胸元につけられた、小さな飾り。
なぜか、それだけが妙に鮮明に見える。
「……」
その飾りを見た瞬間。
また、頭の中に一瞬だけ映像が浮かんだ。
小さな手。
俺の服を掴んでいる。
『兄様……』
「……っ」
映像は消えた。
「お兄ちゃん?」
ユイナが俺を見る。
「何でもない」
俺は本を閉じた。
「これ、買う」
「売り物だぞ?」
「いくらだ?」
店主が金額を告げる。
俺は財布から金を出した。
「これで」
「毎度あり」
俺は本を受け取った。
* * *
店を出ると、日が少し高くなっていた。
「結局、買ったね」
ユイナが言う。
「ああ」
「大事な資料だもんね」
「そうだ」
俺は本を抱える。
その時。
道の端で、小さな子供が転んだ。
持っていた荷物が地面に散らばる。
「あ……」
俺は足を止めた。
そして、何も考えずに荷物を拾う。
「ほら」
「あ、ありがとう……」
「気をつけろよ」
「うん!」
子供は荷物を受け取り、走っていった。
俺もそのまま歩き出す。
「……」
少し後ろで、アンジェリカが俺を見ていた。
「どうした?」
俺が振り返る。
「何でもない」
「そうか」
俺は前を向く。
アンジェリカは小さく息を吐いた。
戦っている時とは違う。
あれだけ強いのに。
こういう小さなことには、妙に自然に手を差し伸べる。
「……ほんと、変な人」
「またそれか」
俺が振り返る。
「褒めてる」
「そうは聞こえない」
「そのうち分かる」
アンジェリカは笑った。
* * *
宿へ戻った俺たちは、買った古文書をもう一度確認した。
「五人の王家の子供……」
ユイナが絵を見る。
「第一王子。
第一王女。
第2王子。
第2王女。
そして第三王女……」
「そうなるな」
俺は頷いた。
五人。
五つの印。
偶然とは思えない。
「でも、第2王女だけ顔が分からないね」
ユイナが言う。
「ああ」
俺は絵を見る。
なぜだろう。
思い出せない。
それなのに。
忘れてはいけない気がする。
「……兄様」
「……」
また声が聞こえた気がした。
俺は右膝に手を置く。
小さな痛み。
だが、確かに反応している。
「ユイナの兄様」
アンジェリカが呼ぶ。
「ん?」
「無理に思い出そうとしなくていい」
「……」
「記憶は、必要な時に戻ってくることもあるから」
「そうだな」
俺は頷いた。
「焦るつもりはない」
ユイナが俺の隣に座る。
「私もいるよ」
「ああ」
「だから大丈夫」
「……そうだな」
俺は少しだけ笑った。
* * *
夕方。
俺たちは明日の準備をした。
「北の砦へ行く」
俺が言う。
「うん」
ユイナが頷く。
「そこで、第二王女について何か分かるかもしれないな」
アンジェリカも地図を確認する。
「ああ」
俺は古文書を見る。
第二王女。
行方不明。
北方へ向かった可能性。
そして――。
俺を呼ぶ声。
『兄様……』
俺は窓の外を見る。
北の空は、夕暮れに染まっていた。
「……明日か」
右膝に、また小さな痛みが走る。
「今度は何が待ってるんだろうな」
答えはない。
ただ。
北へ行けば。
俺の失われた記憶に、少し近づける気がした。
そして――。
いつか必ず。
この顔の分からない少女が誰なのかも、分かるのかもしれない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ご飯、食べに行こう」
「……そうだな」
俺は立ち上がった。
明日のことは、明日考えればいい。
今は――。
飯を食って、寝る。
それでいい。
こうして俺たちは。
北の古い砦へ向かう準備を整えた。
そこに待っているのが――。
俺の失われた記憶につながる、大きな手掛かりだとは。
この時の俺は、まだ知らなかった。




