20話
「兄様……」
地下の奥から、また声がした。
今度は、はっきり聞こえた。
幼い声。
どこか寂しそうな声だった。
俺は暗闇の奥を見つめる。
「……誰だ?」
返事はない。
「兄様……」
もう一度。
その声だけが響く。
ユイナが俺の隣に立った。
「お兄ちゃん。この声……」
「ああ」
「知ってるの?」
「分からない」
正直に答える。
聞き覚えがある。
それは間違いない。
でも、誰なのか思い出せない。
「……思い出せそうなんだけどな」
右膝が、ズキッと痛んだ。
「っ……」
「お兄ちゃん!」
ユイナが心配そうに俺を見る。
「大丈夫だ」
「また痛い?」
「ああ。でも、いつものことだ」
俺は右膝を押さえる。
赤い光が、少しだけ強くなっていた。
アンジェリカが杖を構える。
「ユイナの兄様」
「なんだ?」
「声が聞こえた方向。あそこ」
アンジェリカが杖の先を向ける。
俺も見る。
巨大な黒い石の向こう。
壁に、細い亀裂が入っている。
「……あそこか」
近づいてみる。
亀裂は人ひとりが通れるほどの大きさだった。
だが、先は真っ暗だ。
「ちょっと待って」
アンジェリカが俺の前に出た。
「先に魔力を調べる」
「危ないのか?」
「分からないから調べる」
「なるほど」
アンジェリカが杖を掲げる。
淡い光が周囲を照らす。
そして――
「……何もない?」
「何も?」
「魔物の気配もない。強い攻撃魔法も感じない」
アンジェリカは少し考える。
「ただ……変」
「何が?」
「この先だけ、魔力が途切れてる」
「途切れてる?」
「ああ。普通なら地下全体に魔力が流れているはずなのに、この先だけが切り離されたみたいになってる」
俺は亀裂の向こうを見る。
「じゃあ、行ってみるか」
「待って」
アンジェリカが俺の腕を掴んだ。
「何も考えずに行くな」
「……分かった」
俺が素直に止まると、アンジェリカが少し驚いた顔をした。
「……意外」
「何が?」
「もっと勝手に行くと思った」
「面倒なことになりそうだからな」
「理由がそれか……」
ユイナが笑う。
「でも、お兄ちゃんって、ちゃんと人の話を聞くんですよ」
「そうなのか?」
「うん」
「……まあ、聞いたほうが楽なときもあるからな」
俺がそう言うと、アンジェリカは少しだけ笑った。
「そういうところ……」
「何が?」
「なんでもない」
またそれだった。
まあ、いい。
俺は亀裂の先へ進む。
ユイナ。
その後ろにアンジェリカ。
三人で暗い通路を進んでいく。
しばらくすると。
通路の先が少し広くなった。
そこには、小さな部屋があった。
中央に置かれているのは――
古びた椅子。
そして、その前に小さな台がある。
台の上には。
一枚の石板が置かれていた。
「……何だ、これ?」
俺が近づく。
石板には文字が刻まれている。
アンジェリカが覗き込む。
「古代文字ね」
「読めるか?」
「少しなら」
アンジェリカが文字を指で追っていく。
「……『赤き印を持つ者、ここに至る』」
「……俺か」
「たぶん」
その下にも文字がある。
アンジェリカが読む。
「『記憶を失いし者よ』……」
俺の足が止まった。
「……記憶を失いし者」
胸の奥がざわつく。
「『汝が失ったものは、力ではない』」
「……?」
アンジェリカが続ける。
「『守るべきものを忘れたことこそ――』」
そこで文字が途切れている。
「続きは?」
「削れてる」
「そうか」
俺は石板を見る。
守るべきもの。
その言葉だけが、頭に残った。
俺には、誰かを守った記憶がある。
いや。
正確には――
誰かを守らなければならなかった気がする。
「……兄様」
また声がした。
今度は。
すぐ近くから。
俺は振り返る。
誰もいない。
「……どこにいる?」
声は返ってこない。
ユイナが俺の手を握った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「大丈夫だよ」
「……ああ」
「私がいるから」
俺は少しだけ驚いた。
昔。
同じような言葉を、誰かに言われた気がする。
でも――
思い出せない。
「ありがとうな、ユイナ」
「えへへ」
ユイナが笑った。
その様子を見ていたアンジェリカも、少しだけ表情を和らげる。
「……本当に仲がいいな」
「兄妹だからな」
「そうね」
アンジェリカは頷いた。
そして、ふと俺を見る。
記憶を失っていても。
自分が何者なのか分からなくても。
ユイナを大切にするところだけは変わらない。
それが、アンジェリカには少し不思議だった。
そして――
けれど、それ以上は考えなかった。
今は、この地下の謎を解くほうが先だ。
「ユイナの兄様」
「ん?」
「もう少し調べよう」
「ああ」
その瞬間。
――カタン。
部屋の奥から音がした。
三人が同時に振り向く。
古い壁が、ゆっくりと動いている。
「隠し扉……?」
アンジェリカが呟く。
壁が完全に開く。
その先には――
さらに下へ続く階段があった。
俺は階段を見下ろす。
そして。
右膝が、またズキッと痛んだ。
「……まだ続くのか」
「行く?」
ユイナが聞く。
俺はため息をついた。
「ここまで来たんだ。行くしかないだろ」
一歩。
階段へ足を踏み入れる。
その瞬間。
地下の奥から――
今度は声ではなく。
低い、男の声が響いた。
「――ようやく来たか」
俺たちは足を止めた。
アンジェリカが杖を構える。
ユイナも拳を握る。
俺は暗闇を見る。
「……誰だ?」
返事はない。
ただ。
階段のさらに奥で。
赤い光が、ゆっくりと灯った。




