18話
「……兄様」
その声が聞こえた瞬間。
俺は、足を止めた。
古い坑道の奥。
さっきまで何もなかったはずの暗闇から、確かに声がした。
「……今の、聞こえたか?」
俺が振り返ると、ユイナが大きく頷いた。
「うん。聞こえた」
アンジェリカも杖を握ったまま、坑道の奥を睨んでいる。
「私にも聞こえたわ」
「やっぱりか……」
空耳じゃない。
俺にだけ聞こえたわけでもない。
それが妙に気になった。
「兄様……」
まただ。
今度は、さっきより少し近い。
ユイナが俺の服の袖を掴んだ。
「お兄ちゃん。あっち……」
「分かってる」
坑道の奥へ視線を向ける。
暗い。
明かりを灯しているのに、奥だけが妙に暗く見える。
まるで光そのものが、吸い込まれているようだった。
「行くの?」
ユイナが尋ねる。
俺は少し考えた。
正直に言えば、行きたくない。
面倒だ。
わざわざ危険そうな場所へ入っていく理由なんてない。
……ないはずなんだが。
右膝が、ズキッと痛んだ。
「……行くしかなさそうだな」
「お兄ちゃん、痛い?」
「いつものやつだ」
そう言って歩き出す。
ユイナがすぐ隣についてくる。
そして、その後ろをアンジェリカが続いた。
「ユイナの兄様」
「なんだ?」
「無茶はするなよ」
「俺が?」
「そう。お前だ」
「俺は無茶なんてしてないぞ」
「本人がそう思ってるのが一番怖い」
アンジェリカが呆れたようにため息をつく。
ユイナが笑った。
「アンジェリカさん、お兄ちゃんって昔からこうなんですよ」
「……だろうな」
「なんで納得してるんだ」
俺が言うと、二人とも笑った。
こんな場所なのに。
少しだけ空気が軽くなった。
そのときだった。
――コツ。
前方から、小さな音がした。
俺たちは同時に黙った。
――コツ。
まただ。
何かが歩いている。
「……何かいる」
アンジェリカが杖を構える。
ユイナも拳を握った。
俺は前を見る。
暗闇の向こう。
小さな赤い光が、ひとつだけ浮かんでいた。
「……赤い?」
その光が、ゆっくり近づいてくる。
だが――
突然、消えた。
「消えた?」
ユイナが辺りを見る。
「いや」
俺は首を横に振った。
「まだいる」
右膝が、強く痛んだ。
その瞬間。
坑道の壁に刻まれていた古い文字が、淡く赤く光った。
アンジェリカが息を呑む。
「これ……さっきの石と同じ魔力……?」
「分かるのか?」
「ええ。でも、さっきよりずっと強い」
壁の文字が次々と浮かび上がっていく。
そして、その中に一つだけ。
俺には読めないはずの文字があった。
なのに。
なぜか意味だけが頭に入ってきた。
――赤き印を持つ者。
「……俺のことか?」
無意識に右膝へ手を当てる。
ズキッ。
痛みが走る。
その瞬間――
頭の中に、映像が流れ込んできた。
赤い空。
燃えている城。
誰かの手。
小さな手を、俺が握っている。
そして。
「兄様……」
幼い声。
俺は、その子を見ている。
顔は見えない。
でも――
大切な存在だった。
絶対に失ってはいけない。
そう思っていた。
「……待ってくれ」
俺は頭を押さえた。
「お兄ちゃん!」
ユイナが駆け寄ってくる。
「大丈夫だ」
「でも……」
「大丈夫だって」
そう言ったものの、映像は消えなかった。
もう一つ。
今度は誰かが俺に何かを渡している。
黒い石。
そして――
『これを持っていろ』
その声を聞いた瞬間。
俺の記憶が、また途切れた。
「……くそ」
「ユイナの兄様?」
アンジェリカが心配そうに近づいてくる。
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
アンジェリカは俺の顔をじっと見た。
「……ならいいけど」
そう言いながらも、彼女はすぐには離れなかった。
今みたいに苦しそうな顔をしていると、放っておけない。
アンジェリカは、自分でも少し不思議に思っていた。
「……変なの」
小さく呟く。
「何が?」
俺が聞くと、アンジェリカは一瞬だけ目を逸らした。
「なんでもない」
「そうか」
俺は深く考えなかった。
そのとき。
――ゴゴゴゴゴ……。
坑道の奥から、地鳴りが響いた。
「お兄ちゃん!」
ユイナが俺の腕を掴む。
壁が震える。
天井から小さな石が落ちてくる。
「崩れるのか?」
アンジェリカが杖を掲げた。
「違う……」
彼女が目を細める。
「これは……魔法が動いてる」
地面に赤い線が走った。
線は俺たちの足元を通り、坑道の奥へ伸びていく。
そして――
壁の一部が、ゆっくりと開いた。
その先にあったのは。
階段だった。
地下へ。
さらに深く続いている。
「……まだ下があるのか」
俺はため息をついた。
「やれやれ」
ユイナが笑う。
「お兄ちゃん、嫌そう」
「嫌に決まってるだろ」
「でも行くんだよね?」
「……まあな」
俺は階段を見る。
なぜか分からない。
でも、この先に何かがある。
俺の失われた記憶。
右膝の封印。
そして――
あの声。
「兄様……」
俺は階段を一段下りた。
ユイナが続く。
アンジェリカも続く。
そして俺たちは。
誰も知らない地下へと、足を踏み入れた。




