13話
巨大な魔物が、ゆっくりと腕を上げた。
地面が震える。
だが――
俺は、特に動じなかった。
「……さっさと終わらせるか」
右膝をさする。
ズキン。
「……痛い」
「そこは気になるんだな」
アンジェリカが呆れたように言った。
「ああ」
「巨大な魔物より?」
「そりゃそうだろ」
「……本当に変な奴だな、ユイナの兄様は」
俺は肩をすくめた。
「仕方ない」
巨大な魔物が、咆哮を上げる。
次の瞬間――
地面を砕きながら、突っ込んできた。
その巨体からは想像できないほど速い。
拳が迫る。
俺は――
半歩だけ横へ動いた。
ドォォン!!
拳が地面を叩き、巨大な穴が開く。
「……なるほど」
俺は魔物の横を通り抜ける。
「見た目よりは速いな」
「ユイナの兄様!」
アンジェリカが叫ぶ。
「後ろ!」
振り向く。
魔物のもう一方の腕が迫っていた。
俺は右手を上げる。
ガシッ!!
巨大な拳が、俺の手のひらで止まった。
「……?」
魔物が動きを止める。
俺は拳を受け止めたまま、魔物を見る。
「これで終わりか?」
魔物が唸る。
さらに力を込める。
地面が沈む。
だが――
俺の腕は、まったく動かない。
「……悪いな」
俺は魔物の拳を押し返した。
「その程度じゃ、俺には届かない」
ドォン!!
魔物の巨体が後ろへ吹き飛んだ。
何本もの木をなぎ倒し、地面を転がっていく。
「……」
アンジェリカが無言になる。
「どうした?」
「いや……」
アンジェリカは杖を下ろしかけて、また構え直した。
「やっぱり、私が心配する必要なかったな」
「最初からそう言ってるだろ」
「膝は痛いんだろ?」
「痛い」
「……そこだけは本当なんだな」
そのときだった。
黒ローブの一人が、俺たちの後方へ向かって走り出した。
「……?」
俺はそいつを見る。
向かっている先は――
エルビス村。
「……そっちは駄目だ」
俺は地面を蹴った。
一瞬。
数十メートルあった距離が消える。
黒ローブの男の前に、俺は立っていた。
「なっ……!」
男が後ずさる。
「村へ行くつもりだったのか?」
「……!」
「悪いけど」
俺は男の胸ぐらを掴む。
「それは許さない」
そのまま軽く放り投げる。
男の身体が森の奥へ飛んでいく。
ドォン!!
木にぶつかって、そのまま動かなくなった。
俺は村を見る。
遠くにユイナがいる。
「……これでいい」
そのとき。
「待て!」
黒ローブの男が叫んだ。
俺は振り返る。
「何だ?」
「お前は何も分かっていない!」
「そうだな」
「ならば、なぜ戦う!」
「村を狙ってるからだ」
「違う!」
男が叫ぶ。
「我々が欲しいのは――」
そこで、別の黒ローブが男の口を塞いだ。
「余計なことを言うな!」
「……?」
俺は二人を見る。
何かがおかしい。
全員が俺を殺したいわけではない。
少なくとも――
今の反応を見る限り、俺について何かを知っている。
「お前たち」
俺はゆっくり近づく。
「俺を殺したいだけじゃないだろ」
黒ローブたちが沈黙する。
「……何を知ってる?」
誰も答えない。
代わりに――
巨大な魔物が立ち上がった。
身体についた傷が、ゆっくりと塞がっていく。
胸の中心。
赤い光が、さらに強く輝く。
「また来るのか」
俺はため息をついた。
「面倒だな」
魔物は
「……兄様」
俺は眉をひそめる。
「俺はお前の兄じゃない」
「……兄様」
「だから――」
その瞬間。
魔物の胸の赤い光が、強く明滅した。
――ドクン。
俺の右膝も同時に痛んだ。
「……っ」
俺は膝を押さえる。
ズキン。
そして――
頭の中に映像が流れた。
炎。
雨。
暗い森。
幼い俺。
その手を握っている、もっと幼い誰か。
『兄様、早く……!』
「……!」
俺は目を見開いた。
「また……」
映像は一瞬で消えた。
だが――
今度は、はっきり聞こえた。
『ユイナを連れて走れ!』
「……ユイナ」
俺の口から、その名前が漏れる。
アンジェリカが俺を見る。
「ユイナの兄様?」
「……今、また思い出した」
「何を?」
「昔の俺と……ユイナだ」
アンジェリカが目を見開く。
「やっぱり……」
そのとき。
巨大な魔物が、突然動きを止めた。
「……?」
魔物の胸にある赤い光が、ゆっくりと弱くなる。
黒ローブの一人が呟いた。
「確認できた」
「何をだ?」
俺が聞く。
男は答えない。
だが、その隣にいた者が小さく口を開いた。
「右膝……」
「……?」
「やはり、あそこが封印の中心だ」
俺は右膝を見る。
「俺の膝を調べていたのか?」
黒ローブたちが黙る。
それだけで十分だった。
「……なるほど」
俺は少し考える。
「最初から俺を殺すだけが目的じゃなかったんだな」
女が静かに口を開いた。
「そうです」
「じゃあ、何が目的なんだ?」
「彼らは、あなたがどこまで力を使えるのかを確かめようとしている」
「確かめて……どうする?」
「それは――」
女が言葉を止める。
その瞬間。
黒ローブの一人が、村の方向へ手を伸ばした。
黒い魔力が集まる。
「……!」
アンジェリカが杖を構えた。
「村を攻撃する気か!」
「させるかよ」
俺が一歩踏み出す。
しかし――
俺より先に、アンジェリカが杖を振った。
「――ウォール!」
魔力の壁が展開される。
黒い攻撃がぶつかり、弾け飛んだ。
「ユイナは私が守る!」
アンジェリカが叫ぶ。
俺は少し笑った。
「頼む」
「任せろ」
アンジェリカが前へ出る。
その瞬間――
巨大な魔物が俺の前へ立った。
「……兄様」
「しつこいな」
魔物が拳を振り上げる。
俺は右膝をさする。
「やれやれ」
そして――
一歩。
魔物の懐へ入る。
拳を避ける。
腕を掴む。
「これで終わりだ」
俺は魔物の腕を引いた。
巨大な身体が宙に浮く。
「――!」
そのまま地面へ叩きつける。
ズドォォォン!!
大地が大きく揺れた。
魔物が起き上がろうとする。
俺はその胸へ手を当てた。
赤い光が、目の前で揺れている。
「……これが、俺の膝と同じものか」
魔物は答えない。
ただ――
「兄様……」
「……もういい」
俺は拳を握った。
「お前が何者なのかは、あとで考える」
そして――
「今は、村を守る」
拳を突き出した。
ドォォォォン!!
巨大な魔物の胸が、内側から砕けた。
赤い光が弾ける。
黒い紋様が一気に崩れ落ちる。
魔物の身体が大きく揺らいだ。
「……兄様」
最後に、魔物が呟く。
「どうして……」
「……?」
「あなたは……まだ……」
そこで声が途切れた。
巨大な身体が崩れ、地面へ落ちる。
ズズン……。
静かになった。
俺は拳を下ろす。
「……何だったんだ、あれ」
右膝が痛む。
ズキン。
「……痛い」
アンジェリカが近づいてくる。
「ユイナの兄様」
「ん?」
「今の魔物……」
「ああ」
「最後まで、お前を殺すような感じじゃなかった」
「そうだな」
俺も同じことを考えていた。
あの魔物は――
俺を殺したかったのか?
それとも。
何かを伝えようとしていたのか。
その答えは分からない。
だが――
黒ローブの者たちは、まだ残っている。
俺は森を見る。
「……さて」
黒ローブたちが後ずさる。
「お前たちは、まだ帰らないのか?」
誰も答えない。
すると、集団の奥から一人の男が前へ出た。
今まで黙っていた男だった。
「……目的は確認できた」
「何の目的だ?」
「あなたの力が、まだ完全には目覚めていないこと」
「……」
「そして、ユイナがあなたに強い影響を与えていることも」
俺は眉をひそめる。
「ユイナが?」
「ええ」
男は村を見る。
「だからこそ、我々は――」
そこで言葉を切った。
「……次は、もっと直接的な方法を取る」
「次?」
男は黒い霧に包まれていく。
「今日の目的は、あなたを殺すことではありませんでした」
「じゃあ何だ?」
男は最後に笑った。
「確認です」
黒い霧が広がる。
「あなたが――」
その声だけが森に残った。
「本当に、あの方の兄様なのかどうか」
そして。
黒い霧が消えた。
「……あの方?」
俺は呟いた。
誰のことだ。
俺を兄様と呼ぶ誰か。
俺とユイナの過去。
母。
父。
そして、右膝に封じられた力。
まだ何も分からない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
敵は――
俺だけを狙っているわけじゃない。
ユイナも。
エルビス村も。
そして、俺自身の過去までも。
何か大きなものに巻き込まれている。
「……面倒なことになったな」
俺は右膝をさする。
ズキン。
「……痛いし」
アンジェリカが隣でため息をついた。
「そこだけは最後まで変わらないんだな」
「痛いものは仕方ないだろ」
「はいはい」
俺は村を見る。
遠くでユイナが、こちらを見ている。
俺は小さく手を上げた。
ユイナも手を振り返す。
その瞬間――
また右膝が、ほんの少しだけ赤く光った。
「……」
俺は膝を見る。
今度は、痛みだけではなかった。
頭の奥に――
知らない少女の声が、ほんの一瞬だけ響いた。
『……兄様』
「……!」
俺は顔を上げた。
だが、もう声は聞こえない。
「今のは……誰だ?」
答える者はいなかった。
ただ――
失われた過去が。
少しずつ、確実に。
俺の中へ戻り始めていた。




