10話
黒い霧が消えた。
倒れた魔物。
壊れた家。
そして、大地に走った大きな亀裂。
「……また壊れたな」
俺は村を見回した。
少し前まで、ここは静かな村だった。
最近では、ユイナやアンジェリカが村人たちに訓練を教えるようになって、少しずつ活気も出てきていた。
それなのに――。
「……はぁ」
俺はため息をついた。
どうしてこう、次から次へと面倒なことが起きるんだ。
しかも――。
俺は右膝をさすった。
「……痛ぇ」
さっき無理をしたせいだ。
以前、ゴーレムを倒したときほどではない。
それでも、嫌な痛みが残っている。
昔からそうだった。
右膝だけは、どうにも調子が悪い。
まあ、動けないほどじゃない。
だから俺は、いつものように気にしないことにした。
「お兄ちゃん!」
ユイナが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
「でも、膝……」
「ちょっと痛いだけだって」
俺が笑う。
しかし、ユイナは納得していない。
「本当に?」
「本当」
「無理してない?」
「してない」
「……本当?」
「本当だって」
ようやくユイナが少し笑った。
その顔を見て、俺も安心する。
こいつが笑っている。
それだけでいい。
俺がこの村を守ろうとか、世界を救おうとか。
そんな大それたことを考えているわけじゃない。
ただ――。
ユイナが笑っていられる場所くらいは、残しておきたい。
それだけだった。
「先生!」
遠くから声が聞こえた。
振り返ると、トモヤ、レイア、ミツルがこちらへ走ってくる。
「先生、無事だった!」
トモヤがユイナのところへ駆け寄る。
「みんなも無事だったんだな」
俺が声をかけると、トモヤが振り返った。
「あ、お兄ちゃん!」
「ちゃんと逃げたか?」
「うん!」
トモヤは胸を張った。
「先生が逃げろって言ったから!」
「そうか」
俺は笑った。
「それでいい」
以前のトモヤなら、きっと言っていただろう。
――俺も戦う!
でも、今日は違った。
ユイナに教えられたことを守った。
戦うことより、生き残ることが大切なときもある。
俺自身が、それを一番よく知っている。
「……お兄ちゃん?」
ユイナが俺を見る。
「どうした?」
「なんか、嬉しそう」
「そうか?」
「うん」
「気のせいだ」
俺は誤魔化すように村を見る。
すると――。
少しずつ、村人たちが家の外へ出てきていた。
恐る恐る周囲を確認する者。
倒れた魔物を見つめる者。
壊れた家を見て、呆然としている者。
そして――。
俺を見る者。
「…………」
一人の村人と目が合った。
その人は、すぐに視線を逸らした。
別の村人も俺を見る。
そして、何かを小声で話している。
「……?」
俺は首を傾げた。
「どうしたんだ?」
ユイナが村人たちを見る。
「たぶん……」
アンジェリカが近づいてきた。
「みんな、お前を見てるんだよ」
「俺を?」
「さっきの戦いを見ていたからな」
アンジェリカが俺を見る。
「黒い槍を、たった一歩で全部壊した」
「……そうだったか?」
「そうだったよ」
「覚えてないな」
「いや、そこは覚えておけ!」
アンジェリカが呆れた顔をする。
俺は頭を掻いた。
「別に普通だろ」
「普通じゃない」
アンジェリカは即答した。
「少なくとも、私にはできない」
「そうか?」
「そうだよ」
アンジェリカはため息をついた。
「村の人たちも、たぶん同じだ」
「……」
俺は、もう一度村人たちを見る。
怯えているようにも見える。
驚いているようにも見える。
そして――。
少しだけ、距離を取っているようにも感じた。
「……まあ、仕方ないか」
俺は小さく呟いた。
今まで通りには、いかないかもしれない。
自分でも説明できない力を、村人たちの前で使ってしまったのだから。
「お兄ちゃん」
ユイナが俺の袖をつまんだ。
「大丈夫だよ」
「何が?」
「みんながどう思っても」
ユイナが笑う。
「私には、お兄ちゃんだから」
「……」
俺は少しだけ目を逸らした。
「そうか」
それだけ言って、ユイナの頭を軽く撫でる。
その様子を見ていた村人たちの中から、一人の老人がゆっくりと近づいてきた。
「……ユイナちゃんの兄様やい」
「ん?」
「さっきは……村を守ってくれて、ありがとう」
「別に」
俺は答えた。
「ユイナがいたからな」
「……そうか」
老人は少し笑った。
「それでも、ありがとう」
そう言って頭を下げる。
すると――。
別の村人も声をかけてきた。
「家は壊れちまったが、命が助かっただけでもありがたい」
「魔物の死骸を片付けよう」
「壊れたところは、みんなで直せばいい」
少しずつ。
村人たちが動き始めた。
倒れた柱を起こす。
瓦礫を運ぶ。
壊れた扉を外す。
誰かが水を運び、誰かが食べ物を用意する。
村は、まだ酷い状態だった。
それでも――。
人が動いている。
声が聞こえる。
生きている。
「……よかった」
俺は小さく呟いた。
「何が?」
ユイナが聞く。
「いや」
俺は笑った。
「村が、ちゃんと村のままだなって」
ユイナも笑った。
「うん」
その日の午後。
村人たちは復旧作業に追われた。
ユイナも手伝おうとしたが――。
「ユイナは休め」
俺が言う。
「でも……」
「怪我はないかもしれないけど、今日は動きすぎだ」
「お兄ちゃんだって」
「俺は……寝るぞ」
「?……手伝うじゃなく寝る?」
「俺は兄だからな」
「それ関係ある?」
「ある」
「ないと思う」
「あるんだよ」
ユイナが笑った。
そんなやり取りをしていると、アンジェリカが横から口を挟んだ。
「お前たち、本当にこういうときだけ普通だな」
「どういう意味だ?」
「さっきまで村を滅ぼしかねない魔法使いと戦っていたとは思えないってこと」
「まあ、終わったしな」
「……その切り替えの早さ、少し羨ましいよ」
アンジェリカが苦笑する。
そして、少しだけ真剣な顔になった。
「でも……」
「ん?」
「私は、あの黒ローブの言葉が気になる」
「俺もだ」
「『まだ目覚めていない』」
アンジェリカが呟く。
「それに、『お前を迎えに来る』とも言っていた」
「……」
俺は黙った。
黒ローブの言葉を思い出す。
――お前は、自分が何者なのかを知らない。
――まだ目覚めていない。
――迎えに来る。
「……何なんだよ」
俺は右膝をさすった。
ズキン。
「……っ」
「お兄ちゃん?」
ユイナがすぐに反応する。
「また痛い?」
「ちょっとな」
アンジェリカが俺の右膝を見る。
「やっぱり……」
「何?」
「その膝」
アンジェリカが少し考える。
「ゴーレムのときも、さっきも、その力が出る前に痛んでいた」
「そうだったな」
「何か関係があるんじゃないか?」
「さあな」
俺は肩をすくめた。
「昔から痛いだけだ」
「本当に、それだけか?」
「知らん」
アンジェリカが黙る。
俺もそれ以上は答えられなかった。
なぜ右膝が痛むのか。
なぜ赤い光が出るのか。
なぜ自分には、あんな力があるのか。
何も分からない。
ただ――。
今日の黒ローブの言葉だけは、妙に頭に残っていた。
――まだ目覚めていない。
「……考えても仕方ないか」
俺は立ち上がった。
「帰るぞ」
「うん!」
ユイナが嬉しそうに頷く。
家へ戻る途中。
アンジェリカが俺の横に並んだ。
「……お前」
「ん?」
「両親のことは、覚えているか?」
俺の足が止まった。
「……両親?」
「ああ」
俺は少し考えた。
頭の中を探してみる。
けれど――。
何も出てこない。
「……分からない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「覚えてない」
俺はそう答えた。
俺には、昔の記憶がほとんどない。
それでも――。
ユイナと一緒にいることだけは、なぜか当たり前だった。
「俺にはユイナがいる」
俺はユイナを見る。
「それで十分だろ」
アンジェリカは黙った。
「……そうだな」
それ以上、何も聞かなかった。
家に着くと、ユイナが夕食の準備を始めた。
「お兄ちゃん、今日はいっぱい食べてね」
「なんで?」
「疲れたでしょ」
「俺、そんなに動いてないぞ」
「動いたよ」
「そうか?」
「動いた」
「……はい」
ユイナには逆らわないほうがいい。
俺は椅子に座った。
その瞬間――。
「……痛っ」
右膝にズキッと痛みが走った。
「ほら!」
ユイナがすぐに振り返る。
「やっぱり痛いんじゃん!」
「ちょっとだけだ」
「今日はもう動かないでね」
「分かった」
「絶対?」
「絶対」
「本当に?」
「……分かったって」
ユイナは満足そうに笑った。
こういう時間が好きだった。
魔物もいない。
変な魔導師もいない。
世界がどうだとか、過去がどうだとか。
そんなことを考えなくていい。
ただ、妹と飯を食う。
俺には、それで十分だった。
――その夜。
ユイナが眠ったあと。
俺は一人、布団の中で天井を見ていた。
昼間の黒ローブ。
あいつの言葉が頭から離れない。
「……まだ目覚めていない、か」
俺は右膝に手を置いた。
少し痛む。
「俺に何があるっていうんだよ……」
その瞬間だった。
ドクン。
右膝の奥が脈打った。
「……っ!」
俺は思わず身体を起こす。
薄暗い部屋の中。
右膝から、赤い光が漏れている。
「またか……」
だが――。
今までとは違った。
赤い光が、膝から足全体へゆっくりと広がっていく。
「なんだ……これ」
俺が右膝を押さえた、その瞬間。
――頭の中に、光景が流れ込んできた。
炎。
燃えている建物。
逃げ惑う人々。
泣き声。
叫び声。
そして――。
小さな子供。
幼い頃の俺……なのか?
俺は誰かに抱かれていた。
顔は見えない。
ただ、その人の腕だけが震えている。
「……誰だ?」
夢の中の俺が呟く。
抱きしめている人物が、何かを話している。
声が聞こえない。
何度聞いても、聞こえない。
ただ――。
最後の言葉だけが。
なぜか、はっきりと聞こえた。
――この子を、絶対に起こしてはいけない。
「……何を?」
俺が問いかけた瞬間。
光景が、突然消えた。
「……!」
俺は布団の上で息を荒くしていた。
右膝の赤い光も、いつの間にか消えている。
部屋は静かだった。
隣では、ユイナが眠っている。
俺はしばらく、その寝顔を見つめた。
そして――。
布団が少しずれていることに気づき、掛け直してやる。
「……ユイナ」
当然、返事はない。
俺は小さく笑った。
「お前だけは、何があっても俺が守るからな」
そう呟いた。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
――何があっても守る。
その言葉を、俺は以前にも言ったことがあるような気がした。
誰かに。
何度も。
「……?」
俺は首を傾げる。
けれど、思い出せない。
分からない。
今は、何も。
ただ――。
右膝の奥に残った、あの赤い光だけが気になっていた。
黒ローブが言った。
――まだ目覚めていない。
俺には、何のことなのか分からない。
それでも。
あの光景を見たことで、ひとつだけ分かったことがある。
俺の失われた記憶は――。
ただ忘れているだけではない。
何かに触れた瞬間だけ、こうして断片的に蘇る。
そして、そのきっかけになるのが――。
右膝の痛みなのかもしれない。
「……まあ」
俺は再び布団に潜り込む。
「明日考えればいいか」
そう呟いて、目を閉じた。
しかし――。
その夜。
俺は一度も深く眠ることができなかった。
そして、眠りの奥では。
もう一度だけ――。
誰かの声が聞こえた。
今度は、はっきりと。
――振り返るな。
俺は夢の中で、息を呑んだ。
その声を聞いた瞬間。
右膝が――。
ほんの一瞬だけ、赤く光った。




