9話
「……あいつか」
古い家の陰から、俺はゆっくりと姿を現した。
右膝が、ズキッと痛む。
「……ったく」
俺は右膝を軽くさする。
少し前にゴーレムを倒したときの無理が、まだ残っているらしい。
できれば今日は寝ていたかった。
何もせず、家でユイナの作った飯を食って――。
そんな一日を過ごしたかった。
それなのに。
「また面倒なことになったな……」
俺はため息をつきながら、村の入口へ向かって歩き出した。
――その頃。
エルビス村の入口では、ユイナとアンジェリカが黒ローブの人物と向かい合っていた。
周囲には、無数の魔物。
その中心に立つ黒ローブは、まるで村そのものを見下ろすように二人を眺めている。
「……?」
ユイナの心が動く。
自分でも、それがなぜなのか分からなかった。
ただ――。
目の前にいる存在から感じる何かが、なぜか何かと重なった。
「ユイナ、下がれ」
アンジェリカが杖を構え、一歩前へ出る。
「こいつは……普通の魔導師じゃない」
「はい……」
ユイナが一歩下がる。
黒ローブの人物は、そんな二人を見て笑った。
「なるほど……」
「何が可笑しい?」
アンジェリカが睨みつける。
「いや……あの男が、まだ何も話していないとはな」
「……あの男?」
ユイナの表情が強張った。
「お兄ちゃんのことですか?」
「そうだ」
黒ローブは即答した。
「お前の兄は、自分が何者なのかを知らない」
「……?」
ユイナには、その言葉の意味が分からなかった。
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんです」
「そうだな」
黒ローブが薄く笑う。
「今はな」
その瞬間、アンジェリカの目つきが変わった。
「どういう意味だ?」
「本人すら知らぬのだ。お前たちが知るはずもない」
「だったら、何をしに来た!」
アンジェリカが杖を向ける。
黒ローブも杖をゆっくりと持ち上げた。
「簡単な話だ」
周囲の魔物たちが、一斉に唸り声を上げる。
「その娘を連れて帰る」
「断る」
アンジェリカは即答した。
「ユイナは私の友だ」
「友……?」
黒ローブが、くすりと笑う。
「人間というものは面白い」
「何?」
「何も知らぬまま、守るだの、友だのと言う」
アンジェリカの眉がぴくりと動く。
「……貴様」
「知らないということは、時に罪だぞ」
黒ローブが杖を振った。
――ドンッ!!
大地から黒い柱が突き出した。
「アンジェリカさん!」
「分かってる!」
アンジェリカが横へ飛ぶ。
直後、黒い柱が地面を突き破り、村の入口を大きくえぐった。
「ファイヤーシェル!」
アンジェリカが杖を振る。
炎の壁が二人の前に展開された。
だが――。
黒い柱は、炎をすり抜けた。
「なっ……!」
アンジェリカが目を見開く。
「魔法の性質を変えている……?」
黒い柱が炎を避けるように軌道を変え、アンジェリカへ迫る。
「くっ!」
アンジェリカは杖を横に振り、氷の盾を展開した。
――ガァン!!
凄まじい衝撃が響く。
「うっ……!」
氷の盾が大きく歪む。
「この力……!」
アンジェリカが歯を食いしばる。
その背後から、別の魔物が飛びかかった。
「アンジェリカさん!」
ユイナが踏み込んだ。
「はぁっ!」
――ドゴォッ!!
ユイナの拳が魔物の腹部へ突き刺さる。
魔物の身体が吹き飛び、地面を何度も転がった。
「助かった」
「いえ!」
ユイナがアンジェリカの隣に並ぶ。
二人は背中合わせになった。
「どうやら……今回は簡単にはいかないな」
アンジェリカが杖を構える。
「はい」
ユイナも拳を握る。
「でも、負けません」
「……そうだな」
アンジェリカが笑った。
「私も同じだ」
二人が同時に駆け出した。
アンジェリカの魔法が魔物を焼き払い、凍らせ、吹き飛ばす。
その隙を縫って、ユイナが拳と蹴りで魔物を次々と倒していく。
光が走る。
炎が舞う。
魔物たちの怒号が響く。
それでも――。
黒ローブの人物だけは、その場から動かなかった。
ただ、ユイナを見つめている。
「……やはり」
黒ローブが呟いた。
「この娘ではない」
その視線が、村の奥へ向く。
「力の中心は――あの男だ」
その直後。
村の奥から、ひとりの男が歩いてきた。
頭を掻きながら。
いかにも面倒そうな顔で。
「……やっと来たか」
黒ローブが呟く。
「お兄ちゃん!」
ユイナの顔が明るくなる。
俺はユイナを見る。
「ユイナ」
「うん!」
「怪我してないか?」
「大丈夫!」
「そうか」
俺は小さく息を吐いた。
どうやら無事らしい。
そして――。
俺は黒ローブを見る。
「……お前」
「久しいな」
「いや」
俺は首を傾げた。
「初対面だと思うけど」
黒ローブが黙る。
「……そうだったな」
「?」
俺には、さっぱり意味が分からない。
「それより」
俺は黒ローブを指差した。
「ユイナに何か用か?」
「お前には関係ない」
「そうか」
俺はあっさり答えた。
「じゃあ、帰ってくれ」
「…………」
黒ローブの口元が歪む。
「相変わらずだな」
「……相変わらず?」
俺は少し考えた。
「俺のこと、知ってるのか?」
「知っている」
「そうか」
俺は頭を掻く。
「でも俺は知らない」
「それでいい」
黒ローブが杖を構えた。
「知らないままでいろ」
空気が変わった。
ズズズズズ……。
黒い魔力が、一気に膨れ上がる。
地面が震える。
周囲の魔物たちまで怯え始めた。
「お兄ちゃん!」
ユイナが叫ぶ。
俺はユイナの前へ出た。
「大丈夫だ」
「でも……」
「お前は後ろにいろ」
「……うん」
ユイナが下がる。
俺は黒ローブを見た。
「……面倒だな」
そして――。
右膝を押さえた。
ズキンッ。
「……痛いんだけどな」
アンジェリカが、その右膝に目を向けた。
「ユイナ……」
「はい?」
「ユイナの兄様の右膝……」
ユイナも俺を見る。
その瞬間。
右膝の周囲に、ほんのわずかな赤い光が浮かんでいた。
「……あれ」
ユイナが息を呑む。
アンジェリカも目を見開く。
「……前に見た光」
俺は気にせず、右足を一歩前へ出した。
ズン――。
地面が沈む。
その瞬間。
黒ローブの表情が初めて変わった。
「……その力を使うつもりか」
「力?」
俺は首を傾げた。
「よく分からん」
「ならば――」
黒ローブが杖を振り下ろす。
「死ね!」
――ゴォォォォォッ!!
空が黒く染まった。
無数の巨大な黒い槍が、空中に現れる。
そして――。
一斉に降り注いだ。
「お兄ちゃん!」
ユイナが叫ぶ。
「ユイナ、下がって!」
アンジェリカが杖を構える。
だが。
俺は動かなかった。
ただ――。
右足を、軽く持ち上げる。
「……えい」
――ドンッ!!
一歩。
ただ一歩、踏み込んだ。
その瞬間。
――ズガァァァァン!!
大地が震えた。
地面に亀裂が走る。
凄まじい衝撃波が村の入口を駆け抜ける。
そして――。
空から降り注いでいた黒い槍が。
一本残らず。
――砕け散った。
「…………!」
アンジェリカが目を見開く。
ユイナも呆然とする。
魔物たちさえ、動きを止めていた。
黒ローブの人物だけが、信じられないものを見るように俺を見つめている。
「……やはり」
「何が?」
俺は首を傾げた。
「お前だ……」
黒ローブの声が震えている。
「すべての始まりは……お前だったのか」
「だから、何の話だよ」
俺は面倒そうに答えた。
「俺はただの兄貴だぞ」
ユイナが、思わず笑った。
「うん。お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」
「だろ?」
俺も笑う。
だが――。
黒ローブだけは笑っていなかった。
「……違う」
杖を握る手が震える。
「そんなはずはない……」
黒ローブは俺を見つめたまま、呟いた。
「まだ……目覚めていない」
その言葉を聞いた瞬間。
ズキンッ!!
右膝に激痛が走った。
「……っ!」
俺は顔をしかめ、右膝を押さえる。
「お兄ちゃん!」
ユイナが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「大丈夫……」
俺は苦笑した。
「ちょっと痛いだけだ」
だが、黒ローブの顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
「そうか……」
「?」
「まだ完全ではないのか」
俺は眉をひそめる。
「だから、何の話なんだ?」
黒ローブが突然笑った。
「……なるほど」
その身体から、黒い霧が噴き出す。
「今日はここまでだ」
「逃げるのか!」
アンジェリカが杖を向ける。
黒ローブは笑った。
「逃げる?」
「違う」
黒い霧の向こうで、赤い目だけが光る。
「迎えに来るのだ」
「誰を?」
ユイナが尋ねる。
黒ローブはユイナを見る。
「お前を」
そして――。
俺を見る。
「……そして、お前を」
「俺も?」
俺が首を傾げた。
次の瞬間。
――ボォォォォォッ!!
黒い霧が一気に広がった。
「待て!」
アンジェリカが炎を放つ。
しかし――。
炎が霧を切り裂いたときには、黒ローブの姿はもう消えていた。
残されたのは、静まり返った村。
そして、倒れた魔物たちだけだった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて。
ユイナが俺を見る。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんって……」
「うん?」
ユイナが少しだけ不安そうな顔をする。
「本当に何者なの?」
俺は黙って考えた。
少し考えて。
「知らん」
即答した。
「…………」
アンジェリカが額を押さえる。
「お前な……」
「だって知らないんだから、仕方ないだろ」
「そこは少しくらい悩め!」
「悩んだぞ」
「一秒も経ってない!」
「十分だろ」
「どこがだ!」
ユイナが思わず吹き出した。
「ふふっ……」
アンジェリカも呆れたように息を吐く。
「……まったく」
俺は右膝をさすった。
まだ痛い。
しかも――。
さっきより少しだけ、痛みが強くなっている。
「……やっぱり、痛いな」
「お兄ちゃん……」
ユイナが心配そうに俺を見る。
俺は、その頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
「……無理してない?」
「してない」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
ユイナが苦笑する。
俺も少し笑った。
「それより、帰るか」
「うん!」
ユイナが頷く。
アンジェリカは、そんな俺たちを黙って見ていた。
そして――。
胸の奥に、ひとつの疑問が残っていた。
――あの人は、いったい何者なのか。
そして。
――なぜ、黒ローブは「まだ目覚めていない」と言ったのか。
答えは、まだ誰にも分からない。
俺自身ですら、自分が何者なのか分からない。
ただ――。
ひとつだけ確かなことがある。
俺には、ユイナがいる。
そして。
ユイナのそばにいる限り――。
どんな面倒な奴が来ようと、俺は止まるつもりはなかった。
このエルビス村を襲った今回の事件は――。
まだ、始まりに過ぎなかった。




