1-6 やることがない
安心安全商事に入社してから、数日が過ぎた。
剣一は、まだ一件も仕事をしていない。正確には、仕事らしい仕事をしていなかった。
初日は会社の説明を受け、二日目は書類の整理を手伝い、三日目は事務所の掃除をした。そして四日目、やることがなくなった。五日目、やはりやることがなかった。
六日目の昼前、剣一は自分の机の前で腕を組んでいた。
「……何をすればいいですか」
向かいの席にいた愛田剛志が顔を上げる。身長198センチ、体重135キロ。巨体で筋肉質なのに、顔つきは驚くほど優しい。入社して間もない剣一にも、何かと親切にしてくれている。
「そうですねぇ」
愛田は少し考えてから答えた。
「依頼が来るまでは、特にやることはないんですよぉ」
「……ない?」
「はい」
「何もしなくていいんですか」
「何もしなくていいというより……、何かあったら、そのときに動く仕事なんですぅ」
考えてみれば当然だった。日本中の妖や幽霊、その他の摩訶不思議な存在を相手にする会社だからといって、毎日毎日、都合よく依頼が舞い込んでくるわけではない。
「じゃあ、普段は?」
「勉強ですねぇ」
「勉強?」
「はい。その扉の向こうが書庫ですから、本でも読んで勉強してくださぃ」
愛田が事務所の奥を指差した。そこには一枚の扉がある。剣一は立ち上がった。
「分かりました」
特にやることがない以上、断る理由もない。扉を開ける。
「…………」
剣一は、その場で立ち止まった。想像していた書庫とは、かなり違う。
広い。とにかく広い。棚が何列も並び、天井近くまで本が詰め込まれている。温度も湿度もきちんと管理されているらしく、事務所より少しひんやりしていた。本にとっては、かなり快適な環境なのだろう。
「すごいですね!」
「でしょう?」
愛田が後ろから覗き込む。
「何冊あるんですか」
「さぁ……」
「分からない?」
「数えたことがないんですよぉ」
剣一は棚を見渡した。何万冊。いや、もしかしたら何十万冊あるかもしれない。
妖怪に関する本。神様に関する本。悪霊や怨霊についての資料。神社や寺の由緒。地方に伝わる伝承。民話。古い新聞記事。大学や研究機関の論文。さらには、特定の村や集落だけに伝わるような話まである。
「よく集めましたね……」
「社長がこういうの好きなんですよぉ」
「なるほど」
剣一は棚の間を歩いた。別に本を読むのが好きなわけではない。暇だから読むだけだ。とはいえ、ここまで専門的な本が揃っていると、少し興味は湧いてくる。
何冊か手に取る。そのうちの一冊を開いて目次を見る。ぱらぱらとめくって適当なページを少し読んでみた。
「へえ……」
思ったより面白い。知らない地方の伝承だった。昔話として聞けば奇妙な話だが、その土地の地形や産業、祭りなどと照らし合わせていくと、別の意味が見えてくる。
剣一はしばらく読み進めた。そして部屋の中央付近まで来たところで、足を止めた。
「これは……」
そこだけ、明らかに雰囲気が違った。古い本がガラス張りの展示台の中にきれいに並んでいる。革張りの装丁。和綴じの本。木箱に収められたものまである。いかにも高価な雰囲気が漂っている。
「そこは古書ですねぇ」
愛田が言った。
「かなり貴重なものもありますから、取り扱いには気をつけてくださいねぇ」
「分かりました、一切触りません!」
剣一は本に手を伸ばすのをやめた。値段までは知らない。実際には一冊一千万円を超えるような本も混じっているのだが、剣一には知る由もない。ただ、こういうものは触らないほうがいい。それだけは分かる。
そして、さらに棚の奥へ進む。
「ん……」
剣一の足が止まった。
「これ……」
そこには、見覚えのあるタイトルが並んでいた。妖怪を題材にした漫画。さらに隣にも漫画。
「……」
剣一はしばらく無言で棚を眺めた。
「ゲゲゲの鬼○郎……」
さらに一冊。
「怪物○ん……」
剣一は首を傾げた。
「これはどうなんだ?」
「何がです?」
「いや、資料として置いてあるんでしょうけど」
愛田も棚を見る。
「有名ですからねぇ」
「まあ、確かに妖怪のイメージを知るにはいいか」
剣一は漫画を一冊手に取ると表紙を見る。少し考える……。そして戻した。
「……さすがに漫画を読んで勉強する気にはならないな」
「そうですかぁ?」
「……はい」
剣一はその代わり、先ほどの民俗学の本を持ってきた。椅子に座り、読み始める。暇つぶしのつもりだった。
しかし、内容は意外と面白かった。知らない土地の風習。昔の人々が何を恐れ、何を祀っていたのか。単なる怪談とは違う視点で読んでみると、なかなか興味深い。
気づけば一時間ほど経っていた。剣一は本を閉じた。時計を見ると、まだ昼過ぎ。
「……」
もう一度、本を開く。しばらく読んだ。そして、また時計を見る。
「……体を動かすか」
別に本が嫌いなわけではない。面白いものは面白い。ただ、何時間も座っているより、剣を振っているほうが性に合っていた。
もう1話で、その次から本編です。




