2-3 黄金角度
天狗がスマートフォンに興味を持つようになったのは、ある日のことだった。
山道を歩いていた若い男女が、稜線を背景に写真を撮っていた。
「じゃあ、撮るよー」
男がスマートフォンを構えると、女はポーズをとる。
「はい、チーズ」
カシャ。二人は画面を覗き込んだ。
「いいじゃん」
「ほんと?」
「うん、山も綺麗に写ってる」
その様子を、少し離れた木の上から天狗が見ていた。天狗は腕を組んだ。
「何をしておるのだ」
もちろん、答える者はいない。しばらく観察したあと、天狗は首を傾げた。
「板を向けて……光った」
もう一度、カシャ。
「また光った」
そして二人は、板の中を覗いて笑う。
「……」
天狗は気になって仕方がなかった。
翌日、別の三人組の観光客がやって来た。
「ここ、めっちゃ景色いい!」
「写真撮ろうよ!」
「ちょっと待って、盛れる角度探すから」
「撮ろう? 盛れる?」
天狗が眉をひそめる。
「……何じゃ、それは」
女性がスマートフォンを少し上へ持ち上げると。
カシャ。
「こっちのほうがいい!」
「なるほど……」
天狗は唸った。
「人間どもは、板を向ける角度まで気にするのか」
この瞬間、天狗の中で何かが始まった。
それからしばらく、山の中で妙な光景が見られるようになった。
木の枝に腰掛けた天狗が、人間のスマートフォンを遠くから見ている。ただ見るだけではなく、観察していた。
「ふむ……」
ある日、観光客がスマートフォンを横向きにした。
「横にするのか」
天狗も顔を傾けた。しかし何も起きない。
「そういう意味ではないか」
また観察する。別の日、女性がスマートフォンを顔より高い位置に持ち上げた。
「上からなにかするのか?」
天狗も木の上へ飛び上がると、少し上から女性を見下ろす。
「違う」
首を振る。
また観察する。今度は低い位置からスマートフォンを構える男性。
「……」
天狗は地面すれすれまで身を低くした。
「なるほど」
少し考える。
「これは迫力を出すためか」
天狗は満足そうに頷いた。何日も人間を観察していた天狗は、写真、カメラ、スマートフォンなどの単語と意味を理解するまでになっていた。
「人間ども、なかなか奥が深い」
さらに別の日、観光客が自分たちの写真を撮ったあと、スマートフォンを操作していた。
「何をしておる」
天狗が覗き込むと、画面にはさっき撮った写真。そこから何やら指を動かしている。天狗は目を細めた。
「……直しておる?」
明るさを変える。色を変える。不要なものを消す。天狗は衝撃を受けた。
「自分で変えられるのか……」
しばらく画面を見つめると、小さく呟いた。
「恐ろしい道具じゃ」
しかしその翌日から、天狗の観察はさらに熱心になった。
そして、天狗は「自撮り」というものの存在を知った。
見晴らしのいい場所で、人間の女性が山に背を向けてスマートフォンを操作している。
「何をしておる」
カシャ。女性が画面を見る。
「盛れてる!」
天狗の目が輝いた。
「自分を撮っておるのか!」
女性がもう一枚。カシャ。
「こっちのほうがいい」
「なるほど! 人間ども、そういうことか!」
天狗は完全に理解した。
その日の夜、山の奥深く、誰もいない場所で天狗は自分の手を見た。そして、
「我もやってみたい!」
しかしスマートフォンを持っていない。天狗は考えた。
「人間どもの板が必要じゃ」
3日後、偶然にも落とし物のスマートフォンを見つけた。
持ち主からの連絡なのか、親切な神主が境内を探しにくるまでの間、天狗はそれを手に取り、見よう見まねで弄ってみた。
「これが……スマートフォン」
画面を触ると反応した。
「おお?」
もう一度触る。
「おおっ!」
横へ滑らせる。
「おおおっ!」
画面が変わる。
「何という術じゃ!」
完全におもちゃを与えられた子供だった。
しかし、そこからが天狗の恐ろしいところだった。人間の使い方を観察し、少しずつ操作を覚えていった。画面を触る。長く押す。指を滑らせる。写真を開く。動画を見る。戻る。また開く。
天狗はスマホのカメラに没頭した。
「なるほど……この板は、指で命令をするのだな」
なぜか妙に得意げだった。だが、文字入力だけはどうしても理解できなかった。
「この小さな文字を一つずつ押せというのか」
「無理じゃ」
天狗は眉間に皺を寄せると、早々に諦めた。
しかし写真については諦めなかった。人間が撮った写真を見比べる。
「この写真は良い」
「これは普通」
「これは駄目じゃ」
いつしか天狗の中に、自分なりの評価基準までできていた。
「背景は山」
「空は広く」
「顔は横から」
「顎はほんの少し上げる」
「風があればなお良い」
「そして……」
天狗は鏡代わりの水面を覗き込んだ。
「左斜め45度」
それが、後に天狗の「黄金角度」となる。
もちろん人間が、写真写りの角度や光の加減を研究しているとは知らない。天狗はあくまで自分の感覚で研究していた。
しかし、その努力は無駄ではなかった。人間が写真を撮る瞬間に、どの位置に立ってどの角度からなら、そしてどのくらいの距離からなら自分が一番格好よく写るのか、天狗は少しずつ理解していった。
そしてある日、観光客の男性が山の景色を撮影していた。スマートフォンを構えてシャッターを押す。その瞬間、木の陰から天狗が顔を出した。
カシャ。
男性が画面を見る。
「……え?」
画面の隅、木の上に赤い顔の何かが写っていた。
「な、何これ……」
男性が拡大する。天狗は木の上で胸を張った。
「……」
男性が別の方向へスマートフォンを向ける。天狗は消える。少し動かす、天狗が現れる。また動かす、消える。
「……?」
男性は何度も撮影した。そのたびに、天狗は自分が一番気に入った角度のときだけ写った。そして天狗は、写真の中の自分を想像して、満足そうに頷いた。
「うむ! 我、格好いい!」
ここからだった。天狗が「自分が格好よく写る写真」への執着を始めたのは。
左斜め45度です。




