23章 カーニヴォラス・ワ=ムー
遥かなる中天、そこは人々の手の届かない化物だけの独壇場。
今、まさに、本性を露わにした化物同士が決別の殺し合いを演じている。
片や妻と子を惨たらしく殺され、そのうえ娘を蛆虫の化物に改造された者。片や最愛の相棒に拒絶され、哀しみの念に暮れる者。
かつて相棒として手を取り合い、肩を並べ、飲み明かしたあの頃には――もう帰れない。あの頃の思い出や他愛もない会話、郷愁に近い感情はもはや薪となり、天空の殺し合いをより一層激化させる。
こんなにも憎たらしくて、こんなにも殺したいというのに。
どうして、友だったあの頃のことばかり思い出すのだろうか。
「お前に逢えたことを無かったことにしたいとは思わない。……しかし、これ以上過日の思い出を汚されぬよう、永劫の死によって袂を分かたせてもらう」
「おォいロマンティックじゃねぇの! 確かになァ、おめーが老いさらばえてクソザコになるのなんざ見たかねェからな! ここで綺麗なまま殺してやるのも人情だよなァ!」
化物2人は爆発による爆風を推進力とし、縦横無尽に空を駆る。戦闘機のように立体的な軌道を描きながら、互いの死角を突き、一撃で相手の生命を無に帰そうと試みていた。
先日の戦いでは、アルドフッドは長年のブランクにより防戦一方だった。しかし少しずつ戦闘の勘を取り戻していく彼は、今やスカーレットに食い下がれるほどの化物染みた力を発揮している。
……しかし、それでも、遠大な差をある程度埋めたに過ぎない。反射神経も威力も直感も、何もかもがスカーレットに及ばないのだ。
それでも対等な存在が龍虎相搏つように見えるのは、ひとえにアルドフッドの宿す怨の力に他ならない。己の命を顧みないことがむしろ、生存へと繋がる新手を導き出していた。
「お互い爆発させるだけが能じゃねぇよなァ!」
スカーレットが中指を立てるのと同時に、海中から数多の岩石が飛来し、彼の周囲を取り囲む。彼の吸収魔法によって吸い寄せられた石巌は、一つ一つが小惑星のような大きさを誇っている。
そして――まるで流星群のように、アルドフッドへと降り注いだ。翡翠色の魔精反応を纏って飛来するそれは、夢現と勘違いするほど神々しくて鮮やかで。
「そうだな。貴様も俺も、死地を生きてきた化物だからな……!」
対するアルドフッドも、渾身の爆発魔法で緑青の星雨を砕いていく。砕かれた巌が続々と海へ降り注ぎ、津波という巨大な波紋を描いていた。
岩の欠片が舞い散る曇天で、アルドフッドがスカーレットに向かって何かを投げつけた。スカーレットが難なくキャッチした瞬間、虹色の閃光を放ちながら爆発する。
それはアルドフッドの爪だった。己の爪を引っぺがし、遅効性の爆発魔法をかけて投げつけたのだ。しかも投げつけた当本人は、治療魔法で爪を再生させている。
痛みにさえ耐えれば無限の残弾数を誇る、人体の手榴弾。医学を齧っていなかった魔法界時代では使えなかった、新しい一手だ。
しかし小さな爆発物を投げつけられた程度では、スカーレットに傷一つ負わせられない。
「物珍しいだけで威力はねェな! ホントに殺す気あんのかァ!?」
スカーレットの掌が妖しく揺れ動く。それと同時に重力にも似た暴力的な引力が発生した。彼が吸収魔法によって、遥か眼下に犇めく海を持ち上げているのだ。
海がスカーレットの周囲を取り囲み、天然の障壁と化す。遮る雲もなく、天からの光を余すところなく受けた海が、まるで天の川のように煌めいていた。
そして彼が甲に血管を浮かせながら握り拳を作ると、膨大な海がその中に流れ込んでいく。都市一つ分なら悠々と飲み込んでしまうような水量が、今や彼の手中に収まっていた。
操作魔法とは異なる吸収魔法の神髄、それはありとあらゆる物体を吸収して掌に圧縮する機能だ。可逆的に、圧縮した物体を解放することも容易である。
「ほォら、殺意ってのはこうやってぶつけンだよ!」
スカーレットが握り拳を拳銃の形に変えると同時に、引力は斥力となった。極限まで加圧された大量の海水が一本のウォーターカッターとなり、レーザーのような軌跡を描いて空を裂く。
「……!」
回避できないことを悟ったアルドフッドが障壁で身を護るが、想像を絶する威力の水流を耐えきれるはずもなく――。
「ぐゥ……ッ!」
致命傷こそ免れたが、一筋の水流が障壁ごと彼の体を貫いていた。ダイヤモンドの破片のような水飛沫を浴びながら、アルドフッドが忌々し気に血痰を吐き捨てる。
勝利を手にすることは愚か、敵の体勢を崩すことすら叶わない。気力を以て喰らい付けども、やがては消耗して散るだけの徒花だ。
どのような謀も、あらん限りの策も、弄したところで及び届かない。埋めようのないブランクはアルドフッドにだって分かっていた。
分かっていても、諦めるわけにはいかないのだ。
「……死は押し並べて死であるが、それでも貴様に殺されることだけは御免だ。例え敗北を喫するとしても、悪いが俺の死に様は決まっている」
「ほォ、聞かせてみろよ。お前はどう死ぬ!?」
「魔力を失い、塵と成りて消えてみせよう。最後の一瞬まで抵抗し、果敢なる死を甘んじて享受してやる。……例え及ばずとも、最後まで貴様を殺す意志を以て」
「そりゃねぇよ相棒! 死に至るまで魔力を費やすなんて自害と変わらねぇだろ! せっかく1つっきゃねぇ命なんだから記念に殺されてくれよォ! 武勲として永遠に俺の心の中で生き続けてくれ!」
海水の飛沫が雨のように降り注ぎ、二人の体をしとどに濡らしていく。光を浴びた水は宝玉のような光を纏い、そして同様に、天光は彼らの瞳も爛々と光らせる。
心通わせ、別れ、すれ違い、袂を分かった二人には、もうこれ以上拗れる時間すら無かった。言葉を交わす余裕などない。避けようのない決着は、もうすぐそこにまで迫っているのだから。
『アルドフッドッッ!!!! 聞こえるか!!!!!??』
「……!?」
出し抜けに、ナイリンの音響魔法によって拡声されたクロの大声量が島中へと響き渡った。数多の爆発音すら掻き消すほどの轟音に、思案の海に沈んでいたアルドフッドの意識が現実に引き戻されていく。
『最大出力で! 爆発魔法を! ブッ放せッッ!!! ワムを取り戻すには! もう! それしかない!!』
根拠も説明もなく、ただそれだけが大音量で指示される。クロからの音声はそれで終わりだった。
通り魔のように勢いよく告げられた謎の一言に、スカーレットは喧しいと言いたげに耳を穿り、アルドフッドは薄く笑った。
「聞いたかスカーレット、我が友から助言が届いたようだ」
敗色濃厚の場面を背にして尚、アルドフッドは不敵に笑って見せる。己より年下の同類が尽力しているというのに、こんなところで諦めている場合ではないのだ。
「これが最後の喧嘩だ。……スカーレット、俺の全てを受け止めてくれるな?」
どこか改まった声色を、スカーレットは敏感に感じ取っていた。
今から放つ一撃こそが、勝敗を別つ分水嶺になるのだ。もしもアルドフッドが破れれば、あとは己の望む死に方を実現させるだけの退却戦となるだろう。
自覚なく、自然と口角が吊り上がり――スカーレットが荒い息を吐いた。
「いいぜェ! 受け止めてやる、好きに暴発しちまえ!」
応答を聞いたアルドフッドが杖を振るい、己の後方に爆発魔法を生じさせた。障壁で爆炎は防げども、生じた爆風によって吹き飛ばされる。その推進力を利用して、彼は、天に舞う岩の欠片を避けながらスカーレットに向かって肉薄していく。
その拳に秘めたるは、あらん限りの爆発魔法。空を消し飛ばすほどの威力を秘めた、かつて英雄と呼ばれた化物による最大級の一撃だ。
スカーレットも、その異様な魔精反応を悟ったのだろう。興奮を押さえられないような表情で、同じく拳に魔力を込める。
唐紅と黒橡の魔精反応が、空を二色に染め上がる。赤と黒の混ざり合った天は渦となり、立ち昇る煙さえ巻き込んで――。
二つの強大な力がぶつかり合い、天を隔てていた黒煙を吹き飛ばす。光芒が神成島に降り注ぎ、瞼を開けていられない程の光輝が誰もの視界を塗り潰した。
それは天に咲く、一輪の爆発花――。
「…………!」
世界の崩壊が訪れたのかと見間違うほどに、大空に咲いた巨大な爆発。それを一番敏感に感じ取っていたのは、何かを求めて荒々しく彷徨うワムだった。
あまりにも盛大な爆発によって、地上から立ち上り、空に滞留していた黒煙が吹き飛んでいく。神が灼たかなる降臨をしたかの如く、雲の隙間からは薄明光線が差し込み、炎の紅に染まる地上を暖かく灯していた。
空にて膨れ上がった巨大な爆発は、音も光も、まるで花火のよう。
「……ヴヴ……ッ」
ワムは、あの日を――初めて楽しいという感情を知った、あの日の冬花火を思い出す。
中毒症状に苛まれ、真っ赤に染まる視界の中に、在りし時の風景が走馬灯のように流れていった。爆発の振動と、鼓膜だけではなく脳を震わせる音と、目が眩むほどの光が、彼女の中に眠っていた人としての理性に光を齎す。
……そう、クロは様々な音や光を試し、彼女が花火に近いものに反応を示すことへと辿り着いた。とりわけ空で巻き起こる爆発魔法の応酬を気にしていることに気づき、一つの仮説に至ったのだ。
彼女の意識は水面下に存在し、思い出によって少しずつ意識を呼び覚まされているのではないか。そしてその仮説を試すために、アルドフッドへ全力の爆発を放つように指示し――。
……ようやく、彼女の目に光が宿る。
「うぁッ…………はぁ、はぁっ……!」
束の間だけ意識を取り戻したワムが、獣の本能で登っていた樹からずり落ちて地面を転がり、高熱を出した時よりもよほど熱くて荒い息を吐いた。
その身を襲うのは、激しい頭痛と不快感、喉と関節の痛み、全身の痒みと蛞蝓が這いずる感覚、吐き気と耳鳴りと振戦。
「うッ……ぇ、げぇええぇッ……」
死んだ方がマシだと思えるほどの症状が彼女を苛み、苦痛が脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。意識は薄れても苦悶だけは色濃くはっきりと刻み込まれ、何度も何度も嘔吐を重ねた。
まるで麻酔も無く全身を抉じ開けられているかのよう。指先から脳に至るまで、全てが例外なく希死念慮に包まれる。
苦痛以外を感じられない意識の中で、一つの事実だけが明瞭に過っていた。
人を喰らえば、この苦しみから解放されるのだ。
だって、自分は……人を喰うために生まれてきた化物なのだから。
「……そんなの……やだ……」
この地獄の苦痛から解放されると分かっていても、食人という悍ましい行為は受け入れ難い。そんなもの、本当に化物でしかないのだから。
しかしそれでも、例え受け入れ難くとも。……この身を内側から焼き焦がす激痛に長く耐えることなどできないのだ。
「………………ヴ……」
今はほんのひと時だけ意識を取り戻したに過ぎない。苦痛によってこの意識を失えば、彼女は再び化物としての本懐を思い出し、獣の欲望を剥き出しにするだろう。苦しめども人を喰うことしか考えられない、本当の化物に戻るのだ。
自我を失うまで、もう、幾ばくも無い。
「……」
この僅かな時間で彼女が為すべきこと。それはたった一つ。
もう二度と、自分が化物に成ってしまわないようにすることだ。
指先から伸びる化物の爪は、きっとその為の短刀代わり。人体など容易に貫通する爪を突き立てて、この脳を破壊すれば全てが終わる。
もう二度と笑うことができなくなって、もう二度と喜ぶこともない。その代わりに、もう二度と苦しむことは無いし、もう二度と地獄の中を生きることもない。死だけが彼女を救う最後の手段だ。
その爪先を額に宛がって、静かに目を閉じる。
……。
………………何のために生まれてきたんだろう。
己に刃を突き立てる間際、ワムは生の意味を問う。
生まれた時から化物で、物心ついた頃にはもう虐待を受けていて。ようやく同じ化物に巡り合えて、居心地のいい場所を見つけたと思っても……最後には自殺によって幕を閉じる。
もしも全ての生命に生まれた理由があるというならば、誰か教えてください。
わむが生まれたことに、何の意味があったと言うのでしょう。
生まれてこなくても何も変わらない。むしろ、生まれてしまったせいで色々な人に迷惑をかけてしまった。手を差し伸べてくれたアルドフッドさんを傷つけて、わむを止めようとしてくれたみんなにも襲い掛かって。
最初からわむなんかいなければよかった。……こんな世界に生まれてこなければよかった。
わむが生きた理由なんて、最初から……。
「……………………」
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
化物のまま死にたくなんかない。わむにだって生きた証が欲しい。
たった一つの、最後のわがまま。……人間として、死にたい。
ずっと人間に憧れてきたんだもの。それだけを願って生きてきたのだから。
……どうか、神様。お願いごと、一つだけ叶えて。
「――――――――!」
その時、遥か遠くから悲鳴のようなものが聞こえた。声の主は分からないがどこかで聞き覚えのある声。死の間際にいたワムは、思わず声の方向に視線を向ける。
聞こえてきたのは、きっと島民の声だ。声のすぐ傍に濃密な魔精反応が蠢いている。その目で見るまでもなく、ゼロの兵士たちが快楽のままに島民を蹂躙しようとしているのだと察せられた。
このままみんな死ぬ。ゼロという不穏分子に侵犯されて、生まれてきたことを後悔しながら肉塊となるだろう。
……そんなの、いやだ!
「う……あぁああぁああああッ!!!」
凄まじき脚力でワムが跳ぶ。木々の合間をすり抜けて、重力を感じさせない軽やかさで空を舞った。
林を抜けた先には、4人の兵士と、未知なる魔法を前に腰を抜かす島民たちの姿がある。兵士共の顔に慈悲や寛容さなど欠片もない、あるのはこれから幕開ける虐殺への期待だけ。島民たちは懇願するような目で招かれざる客を見上げることしかできず――。
「ヴヴァアアァアアアァアッ!」
突如、飛来したワムによって兵士の一人が首を切断されて絶命した。噴水のような血飛沫が上がると同時に、他の兵士たちもワムの存在を気取り、杖を抜こうとする。
しかし臨戦態勢に入っていなかったのが運の尽き。その隙にワムは身を捩り、不安定な体勢から無理矢理に跳躍する。そしてそのまま別の兵士の顔面に両手の爪を差し、力任せに左右へと引き裂いた。
一人の兵士が断裂魔法を放つが、ワムを捕らえることはできない。撃ち放った数度の斬撃は悉く回避され、接近され、腹を裂かれて臓物をぶちまける。
「なんだ貴様はッ!」
残された最後の兵士が放った雷魔法は、運よくワムの左手に命中し、小指を消し炭と化す。だがワムは少しも怯まず回転しながら肉薄し、相手の胸骨ごと心臓を貫いた。
「ヴヴヴヴヴ……」
四人分の臓物に囲まれながら、ワムは低く唸り――空に向かって吼えた。
獣としての本能を発揮する程に、その身体には数多の苦痛が駆け巡る。視界は揺らいで赤く染まり、自分が誰であるのかすら忘れそうになっていく。
今、ワムの足元に散らばっている兵士の肉塊は、彼女にとっては極上の食料だ。今にでも喰らい付き、咀嚼することもなくひたすらに嚥下したいという欲求が止まらない。人で言えば餓死寸前まで追い詰められた状態で食料を差し出されるようなもの、中毒症状だけではなく三大欲求という生物の根源的な欲求までもが喉元までせり上がる。
……しかし、それを食べてしまえば終わりだ。もう二度と人間として死ぬことすら叶わなくなる。
通常の精神では抗えない欲求を全力で堪え――今一度、ワムは空へと跳んだ。誰よりも軽やかに、翼が生えているかの如く。
過ぎ去っていく景色が視認できない程の速度で、彼女は魔精反応が導く方向へと駆けていく。
その脳裏に過るのは、アルドフッドから齎された、たった一つの希望の言葉。
『昔な、俺の大事な人が教えてくれたんだよ。「誰かを助けることで喜びを得られるなら、それが人間なんだ」って。……だから今度こそ、誰かを助けて、誰かの力になって……本当の意味で、人間になりたいんだ』
誰かを助けて、誰かの力になって、本当の意味で人間になり……そして、人間として死ぬ。
そうすれば――化物として生まれた自分にも、生まれた意味が見つけられると思うから。
「ヴヴヴァアァアァアッッッ!」
再び3人の兵士を見つけたワムが、死角から襲い掛かり脳を散らせる。
しかし今度の兵士は警戒を怠っておらず、仲間の悲鳴が聞こえるなり臨戦態勢に移っていた。
敵の射出魔法が鉄製の杭を撃ち放ち、その切っ先がワムの横腹を抉って腸を散らせる。しかしワムは自らの手ではみ出た腸を引きちぎり、相手の首にかけて絞め殺した。
もう一人の兵士の攻撃を、首に腸が巻き付いた死体で防御しながら、彼女はすぐ傍まで接近する。そして相手の腹に手をめり込ませ、汚らしい中身を全て引きずり出した。
「ヴヴ……ヴァ……」
体液が滾々と零れ落ちる横腹を押さえ、彼女は血反吐を吐き零す。その目には蛍の燈火程度の光しか宿っていない。
そんな彼女の背後に、異音を聞いて駆け付けた兵士が迫り、杖先をアサルトライフルに変えて何発も撃ち放つ。
ワムの背中に夥しいほどの穴が開き、苦悶の絶叫が喉奥から漏れ出ていた――。
「……ヴヴヴァッ!」
――ばけものであっても明るく生きているクロさんやハルさんみたいになりたかった。
いちども自分をすきになったことが無かったわむには、がっこうに行ったり、ともだちを作ったり……そんなふつうの幸せなんて過ぎたるものだと思っていた。
でも昨日、わむにも友達ができたの。
ナイリンさんはつめたそうな印象だけど、本当はとってもよわい人。それでもわむのことを考えていてくれて、おねえちゃんみたいに接してくれる。
アイさんはとても明るくて、わむたちのことをよく見てくれている人。わむたちの心のよわさをしっていて、それでも支えになろうとしてくれる。
……ふたりと友達になれて、うれしかった。
抱きしめられることがあんなにしあわせなことなんだって、はじめて知ったの。
わむが死んでも、ずっと憶えているよ。
例えじごくに堕ちたとしても、きっと。
「くたばれ化物がッ! 人間の出来損ないが、俺たちに逆らうんじゃねえぇえッ!」
敵の攻撃がワムの右腕を吹き飛ばす。粉々に砕けた肉と骨が宙を舞い、鮮血が雨のように降り注いだ。
しかし、そんなことどうでもいい。肉体の欠損なんかでワムの猛攻を止めることなどできやしないのだ。ワムに襲い掛かる兵士たちは無残に抉られ、地面に血の彼岸花を咲かせる。
立ち止まることなく、次へ、次へ、次へ。島中を駆け巡り、次の死地へ。
魔精反応が導く限り、彼女の戦いは終わらない。
「……ヴ……」
――アルドフッドさん、ごめんなさい。
はじめて会った時、ほんとうは、とてもこわかった。
あなたもわむを虐めるんじゃないかって、すごくすごくこわかったの。
気づけなくて、ごめんなさい。
アルドフッドさんもわむと同じで、ばけものとして苦しんできたんだよね。同じばけもののわむにしか心のいたみが分からなかったのに、わかってあげられなくてごめんなさい。
……わむのことを娘だと呼んでくれた、あの時。
ほんとうは、すごくうれしかったの。
今まで親と呼んでいたひとは、わむをくるしめるばかり。だからほんとうは、優しくて、いっしょにいると心があたたかくなる、そんなかぞくが欲しかった。
しぬ前に、一度でいいから……あなたのことを、おとうさんって呼んでみたかった。
それだけが、ゆいいつの心残り。
「死ねッ、クソガキがァッ! 嬲られるために生まれた化物が調子に乗るなッ!」
空気を裂く雷魔法が、ワムの側頭部を抉った。頭蓋骨の欠片と脳が弾け飛び、血と混ざり合った脳漿が炎によって煌く。
脳の一部を失ったワムの瞳が、ぐるぐると当てもなく回りだす。可動域を超えた動きに眼球の血管が切れ、眦から血が滴り落ちた。
もう何も考えることができない。それでも彼女は本能だけで四肢を振るい、野生の暴力で敵を打ち滅ぼす。
断裂魔法で右腕と左足が切り落とされて。風魔法によって木に激突し左の眼球が破裂して。腹部の傷跡からは小腸が零れ落ちて。顎を吹き飛ばされて舌がだらしなく垂れさがり、側頭部を破損させられて脳が零れ落ちる。手の爪はとうに剥がれ、武器になるのはこの牙だけ。もう拳を握ることすら叶わない。
それでも彼女が生きているのは、化物としての生命力のせいだ。本当ならもうとっくに死んでいて、この苦痛から解放されているだろう。
まだ彼女は死ぬことができない、まだ彼女は苦しみ続けなくてはならない。
だけど、まだ彼女は、誰かを救うことができる。
人としての形を失っても、もはやただの動く肉塊と化していても、彼女はいつまでも空を舞えるのだ。
「……ァ゛……ッ」
もう鳴き声を上げることすらできず、彼女は黙々と敵を狩るばかり。肉が削がれ、骨が崩れ、臓器が零れ落ちたとしても、もう彼女は悲鳴の一つも上げられない。
それでも彼女は往く。もはや意識すら遠く、夢と現実の狭間で、ひと際強い魔精反応を目指して。
気づけばもう、敵の兵士たちの姿はなく――。
天から一筋の何かが落ちていく。白銀の燐光を纏いながら落下していくそれは、さながら流れ星のよう。
流星は魔精反応を散らせながら、神成島のとある場所に落下した。……そこは視界一面に雄大なツワブキ畑が広がる、この島随一の観光名所だ。先日は数多の観光客が冬花火を見るためにここへ集っていたが、全てが炎上した今、誰かがここに訪れることはない。
燃え盛っているのはツワブキも例外ではなかった。どこまでも優美で幻想的な花畑は、今や哀れにも燃え盛り、煤と共に火炎の花びらを散らせている。
そんな場所に落下したのは、スカーレットによって叩き落とされたアルドフッドだった。なんとか障壁でガードして落下の衝撃を和らげたが、相当効いたのだろう、苦悶の声を漏らしながら赤茶色の血反吐を吐き零す。
「……ぐ、おッ……!」
先刻の全てを込めた一撃は及び届かず、スカーレットによって散らされてしまった。もはやどれだけ本気を出しても勝つことはできないだろう。
ここからはもう勝負ではない。必然的に訪れる死をいつ歓待するか、それを決めるだけの空虚な消耗戦だ。
「おォい、まだくたばってねェのかよ。全霊の愛を込めて叩き落としてやったんだぜェ?」
ふわりとシャボン玉が落ちていくように、スカーレットが音もなくツワブキ畑に着地する。そして未だに落下のダメージが抜けきっていないアルドフッドを見下ろして、言葉とは裏腹に恍惚の笑みを浮かべてみせる。
相棒との戯れは、彼にとって極上の遊戯だ。いつまでもこの時間が続けばいいのにと願ってしまうほどに甘美で、エクスタシーと呼べるほどの恍惚感を与えてくれる。
……しかし、そんな時間も永遠には続かない。
もうそろそろ終わりの時間。このまま戯れ続けていたら、いつかは鬼龍や兵士たちによって邪魔が入ってしまう。燦爛たる祭りもいつかは終わってしまうように、彼も日常へ帰らなくてはならないのだ。
「なぁ相棒、最期に俺の悩みを聞いてくれよ。お前を殺した後さァ、新しい相棒を見つけるべきだと思うか? それとも殉じたお前を心に抱いて二度と相棒を作らないでいるべきか? 俺の人生の先行きを決めてくれよ。なァ」
未亡人みたいな悩みを吐露するスカーレットだが、その歩みは止まらない。確実に一歩一歩距離を止め、アルドフッドを殺害するための準備を整える。
「決めてくれよ、相棒ォ! いつまで俺に愛されたい?」
「……くたばれ、狂人」
暴言を吐き捨てながらアルドフッドが立ち上がろうとし――崩れ落ちる。全身が激痛に包まれていたせいで気づかなかったが、彼の両足はあらぬ方向へと圧し折れていた。治療魔法で骨折を治さなければ立つことすら儘ならない。
しかし……スカーレットを目の前にして、そんな悠長な真似ができるはずもない。戦闘が終わるか死ぬまで、その足で立ち上がることは不可能だと断言していいだろう。
……無様なアルドフッドの姿を見て、スカーレットは形容しがたい表情を浮かべた。今、まさに、この時間こそが今際の際。大事な相棒の生前を見ることができる最後の機会なのだ。
「大丈夫だ。……お前がダセェ死に様を晒さないように、遺体を粉々に消し去ってやるから。墓には入れねぇが構わねぇよな、俺もお前も帰る場所なんざねぇんだからよ」
今生の別れだ。アルドフッドが死んでも、最後の抵抗として魔力を使い切っても、もう二度と二人は巡り合えない。
この世界に地獄なんていう再会の場所があるなら、それを望んでみよう。この世界に死後の世界が無いのなら、この記憶を永遠にしてみよう。
どちらにしても――スカーレットにとって、この友情は永遠だ。
「あばよ、盟友」
スカーレットは杖を振り上げ、藍墨茶色の閃光を杖先に宿した。
「――――!?」
――瞬間、魔力や魔精反応とは毛色が異なる雰囲気が、ツワブキの花畑を満たす。
それは魔法使いにも、人間にも、化物にも、獣にも発することができる感情の発露。原始的な生き物でさえ漂わせることができる形而上の武器。
辺り一面に、殺気が霧のように漂っていた。
木々がさざめくように揺れ、炎が陽炎のように揺らいでいく。空気を切り裂く音と、一瞬遅れて届く風。
「ゥオ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!」
人の形を成していないカーニヴォラス・ワ=ムーが突如として姿を現し、獣の形相を露わにしながら、スカーレットに向かって跳びかかる。
「来やがったかァ!」
しかしスカーレットは驚嘆せず、最初から予測していたかのように舌を出して嗤った。小康状態を解除されて獣と化したワムが、突然姿を現すことなど想像するに容易いのだ。
彼の杖から放たれる黒色の魔精反応が、爆発魔法を構成する粒子となって彼の体に纏わりつく。その比類なき威力は、例え再生能力を持つ化物であっても木端微塵に消し去るだろう。
……だが、今のワムにはそれを気取れない。今の彼女にはもう、誰かを救うという本能しか残っていないのだ。だから、愚直にも真正面から突っ込んでいくことしかできない。
例えそれが抗いようのない死地に赴くだけだと、意識下で分かっていたとしても。
「父親と共に爆ぜて消えろッ、蛆虫がァ!」
黒い霧と化していた魔精反応が赤く染まり、光を放つ。それは爆発を引き起こす最後の引き金で――。
……その直前。
白銅色の銃弾が虚空に禍々しい軌跡を残しながら、空気を切り裂いた。まるで世界に一筋の穴が開けられたかのように、刃にもよく似た色が残滓として空間に残っている。
それは撃ち放たれた銃弾の道標だ。その弾道上に存在するありとあらゆるものは、問答無用で貫かれて断絶される。
……その軌跡には、杖を握り締めるスカーレットの右手があった。彼の指が鮮血を迸らせながら、5つの肉片となって空を舞う。指を失った右手が杖を取り落とし、それと同時に、萌芽した爆発魔法も塵となって消えていく。
遥か遠くに存在する銃弾の発射地点を辿ると、そこに潜んでいたのは……。
「……指5本分、確かに遂行した」
木々の中に紛れるベリアスが、杖に付属したスコープ越しに彼らの様子を見つめていた。燻る硝煙に包まれながら、迫り行くワムの姿を捉えて拳を握る。
行け、化物。……アルドフッドとワムを見据えながら、ベリアスは心の中で言葉を放った。
もしもハルモニア王女の言うように、『化物でも幸せになれる末路』があるというならば、お前たちが証明してみせるんだ。
「ヴヴウヴウァアアァアァアアアアァッ!!!!」
既に使い物にならないはずの声帯を振り絞り、ワムがあらん限りの咆哮を発する。迫り行く牙は兵士たちの血を浴びて、ワインのように紅く染まっていた。
牙先がスカーレットに届く、その刹那。
「……クソがァ!」
スカーレットが右腕を振り上げ、ワムの噛み付きを防御する。鋭き牙が肉に減り込み、埋まり、夥しい血を噴出させた。
傷を負わせたとはいえ致命傷には至らない。せいぜい体勢を崩す程度の影響しかないだろう。
……しかし戦場では、たったそれだけのことが命取り。
「…………!」
飛び掛かられた勢いのままに後方へ倒れていくスカーレットが見たのは、爆発の推進力によってすぐ近くにまで迫っていたアルドフッドの姿。彼が振り上げた杖には、真紅の魔精反応が凝縮されて蠢いている。
アルドフッドがワムの体を掴み、爆発に巻き込まれないよう後方へと投げた。そして一人残されたスカーレットに向かって拳を振り上げる。
その拳から漂うのは、先ほど撃ち放った渾身の大爆発と同じ規模の魔力。杖を持たない魔法使いに放つには、あまりにも過剰すぎる怨恨の一撃だ。
「……綺麗な光だ。なァ、相棒」
かつてペスパス国で何度も見てきたアルドフッドの魔精反応を見て――スカーレットが思わず呟いた。彼の目に映るのは、もう、相棒の姿と煌めく爆炎の唐紅だけ。
……それは彼にとって、最高の瞬間だった。
花畑を全て吹き飛ばすような爆発が、彼ら2人を包んでいく――。




