22章 最弱の抵抗
空からは幾重もの爆発音が響き渡っている。それはアルドフッドとスカーレットが化物の全力を露わにし、互いの死角を狙いながら爆発魔法をぶちまけているからだ。空には緋色の爆発が幾度となく刻まれ、炎によって照らされた世界をより一層彩っている。
虚空で爆発が起こる度にキズナ児童ホームが揺れ、病床に伏す子供たちはより一層苦しみの表情を色濃くする。
そんな彼らを見守りながら、アイは杖を握り、無意識的に何かへと祈っていた。
もはやここは戦場だ。仲間たちが敗北すれば全ての終わり、アイも子供たちも無残に殺されてしまうだろう。
彼女の祈りは仲間の勝利を願うため。そして生き延びてこの島を脱出して――もう一度、愛しき恋人との再会を果たすために。
「……もしここで死んじゃうのなら……少しだけでいいから、声が聞きたいよ……」
ゼロによって妨害電波が敷かれたこの神成島では、携帯電話などもはや無用の長物でしかない。できることと言えば、せいぜいメモ帳アプリに遺書を遺すことくらいだろう。
もう一度あの声が聞きたければ、生き残るしかないのだ。
……彼女は、それが分かっていながら戦力になれない自分に腹が立っていた。
自分がもっと強ければ、戦況を動かすことができたかもしれない。戦力外として施設に引きこもっていることも無かっただろう。結局弱い自分には、苦しみに喘ぐ子供たちの手を握り、根拠のない励ましを送ることしかできない。
いてもいなくても変わらない存在、戦いの土俵にすら上がれないのだ。
「もしあなたなら、どうしていたかな。……鳳輔」
その時、木製の何かが圧し折れるような音が響いた。決して自然な折れ方ではない、誰かによって力任せに破壊された音だ。
「……!」
アイが勢い良く立ち上がり、扉を開けて廊下に転がり出る。
長い廊下の向こう側には、キズナ児童ホームの扉を蹴り破り、中に侵入してきている魔法使いの姿があった。その手にはゼロともOとも形容しがたい紋様が刻まれた杖、その瞳には決してシャバではお目にかかることのない暴力性、その口には獲物を見つけた肉食獣のような笑み。
運よく児童ホームの近くに転送されたゼロの兵が、爛々とした瞳でアイをねめつける。
「お、若い女だ! 助かるねぇ」
靴を脱ぐこともなくズカズカと敷居を跨ぎ、兵士がアイに近づいていく。臆したアイも数歩下がるが、歩幅のせいか距離がどんどん詰まっていった。
「なあお嬢ちゃん、右目と左目どっちを残してほしい? 要らないほうの目ン玉におじさんのスゴいモノを突っ込んで脳まで突いてあげるよぉ。選ばせてやるなんて、おじさん、優しいだろ?」
「よりにもよってクソ野郎かぁっ……!」
巡り合わせの不運に唾棄しながら、アイが廊下を駆けて逃げていく。対する兵士は逸ることなく、それでも競歩のように速足でアイを追っていった。
(アルドフッドさんが上空に飛ばされていったのは見たけどっ! ……まさか、こんな普通の魔法使いに障壁を壊されるなんて……!)
アルドフッドが遠ざかれば障壁の強度が減るのは彼自身が語った通りだ。スカーレットによって彼が遥か上空へと吹き飛ばされた以上、今の障壁は日頃よりも脆くなっている。
……しかし、それにしてはあまりにも容易に突破されすぎだ。曲がりなりにも化物と呼ばれた男が張り巡らせたもの、それを普通の兵士1人が易々と突破できるとは思えない。
「……っ!」
逃げに徹していたアイが急に振り返り、杖の先から断裂魔法を発射する。銀の軌跡が空を裂き、兵士の顔面に向かって切っ先を向けて――。
顔の間近まで迫るも、兵士の顕現させた障壁によって弾かれてしまう。何発放とうが結果はすべて同じ、かすり傷一つ負わせることすら叶わない。
「お嬢ちゃァん、無駄だよぉ。おじさんはね、君みたいな女の子を何人も壊してきたんだ。抵抗もいっぱいされたよ? でもねぇ、おしおきとして抵抗した回数分、その子の家族や友達を剥ぎ殺すことにしているんだ。抵抗しない方が平和でいいと思うなぁ、ねぇ、思うよねぇ」
物騒なことを口にしながら兵士が杖を振るう。途端に、アイの視界が白ずんだ。
二人の間に爆発が巻き起こり、吹き飛ばされたアイが壁に後頭部を強打した。一瞬視界がスパークし、意識が混濁してしまう。
「んふふ、おじさんね、スカーレットさんに憧れてるの。知ってる? 傍若無人の擬人化とも呼べるウチの幹部だよ。そのために爆発魔法をイチから覚えて日々鍛錬中。んふふふ……」
「……痛……っ」
バカな兵士が追撃せず謎の自分語りをしていたおかげで、一瞬飛んでいたアイの意識が戻ってくる。彼女は瞬時に現状を思い出し、起き上がって再び廊下を逃げようとする。
兵士もそれを追おうとして――不意に、顔を背けた。
彼が見ているのは『おひるねのへや』というプレートが掲げられた部屋だ。廊下との間に嵌められた窓ガラスから中を覗き見て、内部の様子を観察している。
その部屋には、重病に喘ぐ子供たちが何人も横たわっていた……。
「わぁ~! クソガキビュッフェだぁ! ヤり放題なんて楽しいねぇ!」
「……!」
一旦逃げて体勢を立て直そうとしていたアイが足を止め、絶望的な表情で兵士の方へと振り返る。
ここで自分が逃げれば、奴は子供たちを襲い散らかすだろう。まだ中学生にもなっていない子供たちが、このド変態気狂い兵士によってどんな辱めを受けるのか。想像したくもないし、現実にさせるわけにもいかない。
「このッ……!」
あらん限りの力を込めて、銀の刃を撃ち放つ。そして同時に杖の先を鎌に変えて、刃に追随して突撃した。
しかし及ばない、届かない。全ての攻撃を造作もなく防がれて、終いには鎌を受け止められて蹴り倒されてしまう。
「う……ッ」
後ろに倒れたアイの腹を、兵士が踵で踏み躙る。体重をかけられるたびに胃の中身が暴れ、身を捩り、胃液が喉を伝って口から溢れ出しそうになる。
相対した時は臆するだけで済んだのに、こうして床に倒されて見上げる敵の姿は――恐怖という一言では表しきれない。絶対的な劣勢の中には、その身を凍り付かせるような純然たるプレッシャーが潜んでいた。
……しかし、それでも逃げるわけにはいかない。ここで逃げれば子供たちが殺されてしまう。みんなを守れるのは自分しかいないのだ。
「……ッ!」
アイは遮二無二暴れ、手に持っていた鎌状の杖で相手の足を切り裂いて脱出する。そのまま情けなく四足歩行で距離を取り、家具にぶつかりながら、壁際にへばりついて兵士を威嚇する。
「おぉ~、お嬢ちゃん元気だねぇ。元気だから殴って怖がらせてあげるねぇ……。恐怖で胃が痙攣するのを開腹して直接見てあげたいよぉ……」
息は過呼吸を起こしたかのように荒くなり、視界は揺れて酔ってしまいそうになる。この体がまるごと心臓になったかのように、耳障りなほど鼓動が響き渡って……まともに杖を持つことすらできなくなる。
それでも、例えそれでも、アイは敵を睨む。
あの日、魔法を使えない鳳輔が、魔法使いであるデースマースに立ち向かったように。守るべきものがある時、人は果敢に立ち向かい、一段階成長するのだ。
(あたしの武器はハルちゃんに教えてもらった断裂魔法と、自衛のために身に付けた防御魔法だけ。相手は爆発魔法を見せていて、まだ奥の手があるかもしれない。万が一の時は子供たちを人質に取られる可能性がある、まずはこの部屋から引き剥がさないと……)
一秒が千秒に感じられるほどに、彼女の思考が回転していく。数手先を見据えながら互いの手札を読み、そこに潜む弱点を探していくのだ。
勝負事の鉄則は、自分の有利を相手に押し付けることだが――それは実力が伯仲している時の話だ。互いの能力に明確な差がある場合、敵の長所を無力化しなければ即座に敗北を喫してしまう。
必要なのは爆発魔法の弱点。例えばそれは――。
「ねえ口だけのド変態! 勇ましく気持ち悪いこと言ってるけど、結局爆発させることしかできないんだよね? それじゃスカーレットとかいう****の下位互換だよねぇ!」
「……んん?」
突如として放たれた遠慮のない暴言に、兵士の眉が少しだけ吊り上がる。
優位に立って余裕綽々な者には面罵など意味がない。攻めるなら家族か尊敬する者、本人以外の相手への徹底的な挑発だ。いついかなる時であっても大切な人への罵倒は癇に障るのだから。
「まあでも当たり前かあ! 話に聞けば、スカーレットもバカバカと爆発させるだけの単なる花火師らしいもんね! ホントはクソザコビビリな小便散らし幹部なのに、無駄に持ち上げられてかわいそ~! 幹部なんて御大層な称号が勿体ない! あんたみたいな性癖チラ見せ満足ジジイにケツを追いかけ回されてる時点でタカが知れてる! あの幹部もアルドフッドさんのケツを追うのが趣味みたいだし、先回りしてアルドフッドさんのケツを嘗めさせてもらってきたら~? バカ2人がケツで間接キスなんて随分お似合いだと思うよ!!」
罵倒など得意ではないしボキャブラリーも乏しいが、頭の中にデースマースの小憎たらしい顔を思い浮かべながら全力で煽り散らかす。
小癪な暴言を受けた兵士が、唇の端を不遜に歪めた。
「いいよぉ、罵倒慣れしてないガキの全力罵倒いいよぉ……。生意気で可愛いねぇ、脳を直接なでなでしてあげるねぇ……!」
言葉と表情こそは不敵に思えるが、アイを追いかける足音が随分と荒々しくなっている。更には病魔に苦しむ子供たちに目もくれず、己の尻を叩いて挑発するアイに視線が釘付けだ。表面上だけは装えども、尊敬する上司を小馬鹿にされて臓腑に嫌悪が渦巻いているのだろう。
雑魚雑魚と軽やかな罵倒ジャブを放ちつつ、アイが軽やかに家具の隙間を縫って逃げていく。兵士はその後を追い、邪魔な家具を爆発魔法で消し飛ばしながら追いかけていた。
先ほどまでの彼ならば、無駄な魔法を使わずに追いかけていただろう。しかし安っぽい挑発に乗ってしまった今、自覚のない怒りが破壊衝動となって爆発魔法を誘発させる。
施設内の諸々が発破によって吹き飛ばされ、次々と焼け焦げていく。時には爆炎を纏い、今の神成島に相応しく炎上する家具もあるほどだ。
「お嬢ちゃァァァ~~~ん、逃げても無駄だよォん! おじさん、鬼ごっこ大好き! んふふ、すぐに捕まえてお嬢ちゃんの身体で痛覚が一番発達してる部分を探り当てちゃうよぉ!」
ロクでもないことを口走りながらも兵士はアイを追い、あらゆるものを爆発させて消し炭にしていく。天から降り注ぐ化物二人の爆発音に負けないほど、今の児童ホームからも同じような音が響き渡っていた。
辺りがまるで火事の焼け跡になった頃……兵士は、今一度辺りを見回す。
気づけばアイの姿が消えていた。爆発魔法のせいでありとあらゆるものが吹き飛び、周囲がごちゃつき、隠れ場所が増えていたのだ。アイはどこかに潜伏し、機を窺っているのだろう。
「んふ、かくれんぼもだ~い好き! 辺り一面を吹き飛ばすだけで勝っちゃう戯けた遊びだもんねぇ。よしじゃあ大爆発いくよぉ、眼球沸騰させてあげるねぇ!」
隠れ場所を消すために、兵士が杖先に魔力を貯めた瞬間――見覚えのない何かが彼の前を横切った。その何かは放物線を描いて飛んでいき、台所のテーブルの下に入り込んでいく。
敵が断裂魔法を外しでもしたのかと思い、気にも留めずに魔力を大爆発させようとした刹那――テーブルの下から声がした。
『何してるの雑~魚、あたしはこっちにいるよ!』
「ん……?!」
響いた声はアイのもの。不意に流れた声に釣られて、兵士の視線が台所のテーブルへと向く。小柄なアイならテーブルの下に潜むことなど余裕だろう、でもそこには誰もいない。
今しがた飛んでいったのはアイの携帯。ストラップ付きの可愛らしいピンク色で、数日前、ハルを奪還する時にGPSの発信源として活用したものだ。
あの作戦は、魔法界に携帯電話が存在しないという事実を元に決行された。当然、あの時の工作員と同様に、ここにいる兵士も携帯電話の特性を知るはずがない。
だから、携帯電話が録音と再生機構を備えているなんて、そして先ほどから逃げるアイが口走っている挑発が流れてくるなんて、瞬時に分かるはずもないのだ。
「……!」
視線と意識を携帯に奪われた兵士の死角から、アイが接近していた。燃え盛る家具の弾ける音に足音を紛れさせながら、すぐ傍まで肉薄する。
……今なら兵士に断裂魔法を命中させられるだろう。しかし彼女は並以下の使い手、恐らく一発ぶち込んだ程度では軽傷を負わせることしかできないはず。奇策も結局は一太刀を浴びせる程度の陽動にしかならない。
それを理解している彼女は――自身と兵士を丸ごと覆うような、円状の障壁を張った。巨大なシャボン玉に包まれたかのような2人は、障壁の中で視線をかち合わせる。
「獲ったァ!」
動き始めは同タイミング、しかし攻撃速度は戦闘慣れした兵士の方が早かった。練りに練った爆発魔法を杖の先端に宿し、アイに向かって振り下ろそうとするが――。
「――――!」
彼の動きが止まる。
ここは外界とは一線を隔てた障壁の檻だ。密閉された空間の中、そして至近距離で爆発魔法を放てば、必然的に互いの身体は爆発に呑み込まれる。
自爆の未来を予測した彼は止まらざるを得ない。彼はこの島でひと時の慰安を楽しみに来ただけなのだ、死ぬことも痛い思いをすることも覚悟していない。ましてや自分の能力で死ぬなんて今世紀最大のマヌケでしかない。
その一瞬の硬直が、敗着の一手――。
アイは杖先を兵士の腹に減り込ませる。杖と腹の境目からは鈍い銀光が迸り、狭い障壁内を燐光で満たしていく。
「お前なんかにっ、殺されてっ、たまるかあぁああぁッ!」
そして、鋭き刃先を煌かせる刃が、兵士の土手っ腹に叩き込まれる。
相手の体を、障壁と杖で挟み込んで――幾度も幾度も断裂魔法を放出していった。
1撃では軽傷しか負わせられずとも、2度3度と続けば手痛い傷になり、5度も続けば重症に、10度もぶち込めば致命傷。最弱の魔法使いは、手数で相手を削り取る。
やがて兵士は激しく吐血して、アイに血を降り注がせながら膝を落とし、白目を剥いてその場に崩れ落ちていった……。
伏した兵士は僅かほども動かず、杖すら取り落としている。アイはしゃがみ込んで脈があることを確認してから、深く深く、肺の中に詰まっていた空気を全て吐き出した。
「……あたしだってっ、追い詰められればやるんだからなっ! 甘く見るな、ばーか!」
威勢だけは良けれども、声は震えて、両の眦からは涙が零れ落ちた。
勝利した今さら膝が震え、その場にへたり込んでしまう。止まらない涙は恐怖のぶり返しか、それとも勝利の余韻によるものか。分かりはしないが、ここに純然たる現実がある。
彼女は確かに、子供たちを守ったのだ――。
「おォー! いんじゃん、女!」
勝利の余韻に浸る間もなく、荒々しくて無粋な声が児童ホーム中に轟いた。
無遠慮極まりなく、3人の男が窓を蹴破って立ち入ってくる。炸裂したガラスを安全靴で踏みしめながら、彼らは辺りを見回して戦利品を探す。
「泣いてる女が1人と、そっちにガキ共もいるみたいだな! いいねぇ、子供は嬲り甲斐があるからな!」
騒ぎを聞きつけた新手による敵襲だ。しかしアイが立ち上がるとするも、足が動かない。
1度の戦闘に全てを注ぎ込んでしまった彼女は、もう、抵抗する力すら残っていないのだ。だから彼女は、悪辣な笑みを浮かべて近づいてくる男たちの顔を見上げることしかできなくて……。
「おぼこ顔のクソチビだなァ! なぁみんな、こいつの指を切り落として***に詰め込んで遊ぼうぜぇ」
「バッカお前、いきなり壊そうとしてんじゃねぇよォ。こういうのは順序立てて解体していくもんだろ」
「まずは足だぞ! 逃げられないようにするんだぞ! 神経引きずり出すのは任せとけ! 慣れてる!」
この世のものとは思えない会話を聞きながら、耳を塞ぐこともできず、アイは懇願するように嗚咽を漏らした。
男たちの薄汚れた手が、アイに向かって伸ばされていく――。
刹那、まるで、世界が2つに割れたかのようだった。
地面が割れ、地下から這い出た烏黒色の斬撃が全てを断絶する。
アイの目の前に聳えていた3人の男たちも、先ほどアイに迎撃されて腹臥する男も、斬撃に呑まれて首と胴体と分かたれる。そのあまりの切れ味は、肉体に対して切断の事実を実感させず――鮮血が噴き出たのは、首が斬り落とされてから5秒も後のことだった。
「え……?」
あまりにも唐突な殺人劇に、アイは小さく声を漏らすことしかできない。
彼女は何もしていない、そして救援が来たような事実もない。……本当に突然、兵士たちが死んだのだ。
唖然という言葉すら陳腐に感じるほど、アイの頭が徹底的なフリーズに陥る。人が突然死ぬなんて事象、同じ人類として認められるわけがない。
混乱の坩堝の中、地面に刻まれた亀裂から、一人の男が這い出てきた。
「……スカーレットの発破に唆された蛮兵め。矜持すら無き戦に正義など在るはずも無かろうが……」
男の名は鬼龍國景、世界最強の男にしてゼロの幹部だ。
魔法使いになって日が浅いアイには、魔力の多寡や敵の実力などを感じ取ることができない。……しかしそうであっても、目の前にいるこの男の強さだけは本能的に理解してしまう。
根本的に生物として格が違うのだ。人間と猛獣程度の差ではなく、微生物と猛獣が相対したかのような、もはや生きる世界が異なるほど。
「……」
鬼龍の視線がアイに向く。それだけでもう、失禁をしてもいいほどの重圧が彼女へと圧し掛かっていた。
しかし彼は意に介すこともなく、刀を鞘に仕舞い、億劫そうに歩き出す。もうこの場所に用など無いのだろう、憚られることなく扉に向かって歩いていく。
「……あのっ」
彼の足が止まったのは、背後からアイに言葉をかけられたからだ。言葉なく振り返り、重圧のせいか過呼吸になりかけている少女を視界に入れる。
「た、助けてくださって、ありがとう……ございました……?」
舌が縺れて言葉が溶けて、まるで舌っ足らずの幼児みたいになりかけながらアイは礼を口にする。語尾が疑問形のように上がってしまったのは、果たしてこの感謝が正しいものであるかが分からなかったからだ。
アイを傷つけようとしたのはゼロ、そしてそれを救ったのもゼロなのだ。まるでマッチポンプのような出来事に、彼女はただただ惑うばかり。
そんな様子を見て、鬼龍はどこか愉快そうに息を零した。
「礼など受け取れぬわ。……儂は敵だぞ、大うつけめ。次に遭う時までに罵倒の一つでも用意しておくのだな」
そう言い残して、彼の踵が翻り――荒くれ者どもによって蹴り破られた扉を潜って、姿を消した。
「……」
取り残されたアイは、安堵と恐怖の残響に呆然としながら、鬼龍が消えた後も扉を見続けていた。
何故あの老人は児童ホームの地下から出てきたのだろうか。どうして敵のはずなのに助けてくれたのだろうか。
疑問は氷解しないまま、やがて彼女は正気を取り戻し――。
「……あっ……そ、そうだ、消さなきゃ……」
兵士の爆破魔法によって炎上した家具を消火するため、腰が抜けて立てないながらも、廊下の隅に置かれた消火器に向かって這いずっていく。
釈然とはしなくとも、それは確かに、最弱たる少女の勝利だった――。
天からも地からも、魔法界の戦場を思い出すほどに爆発音が響いている。炎はより一層激しく燃え上がり、息をするだけでも肺の中が焼け落ちるかのよう。
地獄と化した神成島で、俺たちはワムと相対していた。
「……ねえっ、クロ! もしかして、これ、あんまり効果ないんじゃない……!?」
声に焦燥を含めながらハルが訪ねてくる。ナイリンもベリアスも同じ意見のようで、似たような表情で俺へ視線を向けていた。
先ほどまで――化物の本能に訴えかけるために、俺の指示で『音』と『光』に関する魔法を放っていた。音響魔法、閃光魔法、炎魔法、雷魔法など、とにかく獣が恐れそうな魔法を中心に繰り出し、ワムの反応を窺っていたのだ。
結果はあまり芳しくない。俺たちの繰り出した魔法よりも、むしろ空で巻き起こっている化物同士の戦いが気になるようで、ワムは何度も視線を天へと向けていた。
「おいガキ、限界だ! 俺のやり方でやらせてもらう!」
俺の指示が的外れだったと判断したベリアスが、杖に魔力を込めていく。抱えた狙撃銃の銃口からはエメラルドグリーンの燐光が漏れ出し、装填された弾丸の種類を組み替えていた。
ゴム弾から実弾への換装。……いくら化物染みたワムでも、実弾をマトモにくらえば身動きが取れなくなるだろう。
「待て、逸るな! ワムの状態がある程度分かった、あと一つだけ試させてくれ! それで戻らなきゃ――」
俺がベリアスの決断を食い止めようと、声を荒げたその時だった。
臓腑を震わせるほどの大爆発が天空で巻き起こり、生じた爆風が燃ゆる木々を揺らす。虚空で鎬を削る化物同士が、爆発の出力を一段階上げたのだろう。風と共に訪れた轟音が俺たちの耳を劈き、平衡感覚をぶれさせる。
「……ヴヴア゛ア゛ッ!」
その爆音にあてられたのか、ワムが苦悶の嘶きを零しながら一歩ふらついた。そして天の化物たちを見上げ、高く高く、狼の如き咆哮を全力で打ち出していく。
そのまま一歩、二歩と千鳥足のような足取りで歩を進め――瞬間、四肢の筋肉が膨張した。
地面に足跡の凹みを刻みながら、ワムが天高く跳ぶ。そして近くの樹に掴まり、霊長目のように樹々を乗り継いでどこかに向かって消えていく。
「……くっそッ! どこへ行くんだ、ワム……!」
「クロ、早く追わなきゃ!」
「ああ!」
ハルに急かされ、どんどん遠ざかっていくワムを追おうとするが――。
突如、あらぬ方向から悲鳴が聞こえた。声の方向に視線を向けると、侵攻を始めたゼロの兵士たちが神成島の島民を発見し、捕獲魔法による縄で身柄を拘束しているのを目撃する。
相手は泣く子も黙る狂人軍団だ、捕獲された島民が無事でいられるわけがない。無辜なる人々を救えるのは俺たちだけ、今ここで救出を試みなくてはならないだろう。
しかし、そうなればワムを追うことはできず――。
「……ベリアス! お前がワムを追ってくれ!」
ハルとナイリンに手招きをし、捕獲された島民たちを指し示す。
ダウナとベリアスの話を聞く限り、彼らは指5本分程度しかゼロ相手に危害を加えられない。そうなれば兵士たちと相対するのは俺たちの方が適任、ワムの追跡を任せるべきだ。
「なあガキ! 俺のやり方で捕獲させてもらうが、いいんだな!?」
「今から最後の手段を試す、それがダメなら好きにしてくれ!」
それ以上の問答を打ち切り、俺たちは各々往くべき方向へと向かう。ベリアスはワムを追い、俺たちは杖を構えながらゼロの兵士たちへと駆けていく――。
「ねえクロっ、大丈夫なの!? 何、最後の手段って!」
「ハルは兵士を無力化することだけに集中しろ! ……ナイリンっ、頼みがある!」
「……忌憚なく御用命ください」
「音響魔法、使えるんだよな!? それで俺の声を拡声させてくれ! アルドフッドに呼びかける!」
ワムの自我を取り戻す最後の鍵。
それは恐らく、アルドフッドが握っている――。




