19章 業火の佳日
伝承によると――神成島に宿る神は、空へと意思を描く。
人々の繁栄を冀う時は虹色の炎を灯し、人々の咎を断罪せし時は迅雷を刻む。雨も雪も全てが神の意思、至当なる命運は空に知ろ示す。
この日に神成島を貫いた無数の神雷は、三千年紀の終わりを観測しても尚、語り継がれることとなる。人類が神の逆鱗に触れ、酬いを受けた証として。
神を不在とするこの世界においては、何とも皮肉な伝承だ。この日に在ったのは化物同士が雌雄を決す為、残虐を尽くした惨劇だけだというのに。
煉獄の業火が包みし島を、記録する者は誰も無し。誰も語らず誰も遺さず、後世には語り継がれぬ戦争が緞帳を開く。
かくしてこの日、神成島は戦場と化した。
アルドフッドとワムの親子喧嘩は、もはや人類同士の戦いと呼ぶにはおこがましいほど泥臭く、痛々しい有様だった。
小柄ゆえの身軽さを存分に活かし、八方から急所を狙い続けるワム。対してアルドフッドは機動力もクソもない原始的な膂力を振るい、ワムの意識を刈らんと攻め立てる。
二人の勝負は、キズナ児童ホームの狭い食堂では抱えきれなかった。今朝までは子供たちの絵が飾ってあるくらい平和だった『しょくじのへや』は半壊し、天井や壁に幾つもの大穴が開き、うらぶれた家具がことごとく破壊され尽くしている。
「ゴォ゛アア゛ァア゛ア゛ァアッ!!」
臓腑を震わす咆哮を放ちながら、獣と化したワムが低い姿勢で突っ込んでいく。死角から襲い掛かられたのだがアルドフッドの反応は素早く、瞬時に体を翻し、突っ込んでくるワムに向かってカウンターの一撃を放った。
――しかし、全力の拳を打ち放つことはできない。
相手を気絶させるという縛りがある以上、彼の放つ攻撃は手加減にまみれざるを得ない。加減は筋肉を強張らせ、攻撃の速度を低下させる。
そして、手心によって弱化した彼の攻撃は、ワムにとって容易に見切ることが可能であり――。
「ぐぅあッ!」
迫り来る拳を避け、ワムの爪がアルドフッドの右側頭部を抉る。体液と共に右耳が千切れ飛び、幾重もの飛沫血痕を描いて地面に叩きつけられた。
……これはもう、何度も見てきたような光景だ。アルドフッドが加減をする限り、このデジャヴは彼の死まで延々と続くだろう。
今やアルドフッドの体には幾つもの裂傷が刻まれ、地面にはバケツ一杯をひっくり返したような血が広がっている。普通の人間ならば意識を失っていてもおかしくない出血量だ。
「くっそ……ッ!」
手出しを禁じられた俺たちは、ただ歯噛みをしながら障壁で身を護り、勝負の行方を見守ることしかできない。
もしもの時は、アルドフッドの言いつけを破ってでも助けに参じようと構えているが――今のワムを、俺たちで捉えられるかどうか分からない。
彼女の化物じみた本性は徐々に強まり、強さを増していく。真に化物として覚醒してしまえば、半端な魔力しか有さない俺たちには太刀打ちできなくなるだろう。
今、ここで、ワムを殺さなければ。……解き放たれた化物が、人々を殺し尽くしてしまうのではないだろうか?
「……ッッ!??!」
そんな邪を脳裏に過らせた瞬間――世界が揺れた。
神の怒りに触れたかの如く、空からは夥しき雷が飛来する。
鼓膜を劈く轟音と共に、落雷が島の方々を蹂躙し、消し飛ばして……。
「なッ……んだ、これは……!?」
次に目を開けた瞬間、世界は地獄へと変わり果てていた。
真昼の世が、まるで夜中であるかのように、業火に包まれて煌々と照らされている。地上から立ち込める黒煙が空を黒く燻らせ、太平を遥か過去へと消し去っていた。
家が燃え、森が燃え、獣が燃え。……現世で悪を犯した者が堕とされる地獄のように、神成島は炎に支配されていた。
「……ねえクロ、よりによってこんな時に奴らの第二陣が襲来した……ってこと?」
「よりによってじゃない。最初から予定調和なんだろッ」
「クロスエッジ王子に同感です。……恐らく奴らにとってワムちゃんは、この時の為に送り込んだ時限爆弾だったのでしょう」
ワムを侵入させた目的はただ一つ。第二陣の突撃直前に暴走させ、内部を混乱させることだ。
事前に潜り込ませておけば情が湧き、暴走したワムに対して致命傷を負わせることが難しくなる。アルドフッドの性格を知っているからこその非道な手段だ。
こうなればもう、気絶させるために手加減するなんて甘いことを言っている場合ではない。その考えこそが敵の罠なのだ。なるべく疾く命を奪い、襲い来る第二陣に備えなければならないだろう。
……そんなことくらい、誰だって分かっている。分かっていても、合理的な判断は下せない。
一度日常に戻ってしまった兵士は、もう、戦場で得た冷徹さを取り戻せない……!
「…………………………」
しかし、そこでワムの動きが止まる。
何かを感じ取ったかのように空を仰ぎ、黒く濁った天を睨む。
このまま攻め続ければアルドフッドを打ち倒し、更に、俺たち全員を殺し尽くすことができるだろう。それこそが本来、彼女に与えられし本懐のはずだ。
だがワムは、雷の余韻が残滓として刻み込まれた空を見上げて……両の目から、血の混じった涙を流した。
黒く濁った瞳の中には、先ほどまでは差し込んでいなかった光が、ほんの僅かに浮かび上がり――。
「――――!」
瞬間、彼女の姿が消えた。
微かに網膜へと残った残像を追った限りでは――比肩する者なき脚力で飛び上がり、屋根に空いた大穴から逃げ去ったのだろう。
彼女の放つ獣の咆哮が、徐々に遠ざかっていく。悲鳴のような遠吠えは獄炎の彼方へと消え去り、やがて、煙に溶けて聞こえなくなった。
どうしてこのタイミングで退却した? と、疑問を呈したい気持ちは溢れるほどある。しかし答えなんて誰も持っていない、推察するだけ無駄でしかない。
急務は二つ、アルドフッドの止血と第二陣への備えだ。
「アルドフッド! 大丈夫か……!?」
地面に転がっていた杖を拾い上げ、アルドフッドに渡しながら問いかける。戦が終わって張っていた気が抜けたのか、彼は息を荒くしながら片膝をつき、自分に治療魔法をかけ始めた
「一般人にとっちゃ致命傷だが、俺にしてみれば擦過傷だ。……おう、おめぇらこそ怪我はねぇか?」
「私たちは大丈夫! ……だけど、このままじゃヤバいわよ……?!」
見渡す景色は地獄絵図、島が丸ごと燃え盛っているかのような光景だ。昨日の夜、優美なる花火が空に上がったとは思えない程、今の神成島は煉獄染みている。
もはや、この島には安全な場所など無い。誰もが平等に死の可能性を感じ、逃げ惑うことしかできないのだ。
「……どこからも魔精反応が感じられないってことは、ゼロの奴らはまだ攻め込んできてはいないようね」
ハルが杖に全神経を注ぎ、電探のように周囲数キロの気配を探る。もし敵が侵攻していたならば、島中から途轍もない魔力が感知できるはずだ。
「しかし奴らが攻め入るまで幾許もありません。応戦にせよ退却にせよ、判断は迅速に行うべきでしょう」
「まず今やらなくちゃならないことは何かしら? ……ワムちゃんの回収?」
「子供たちを逃がすことも必須だな。可能なら島の住民たちも逃がしたいが、全員を回収する前に敵が本格的に攻め入ってきそうだ」
各々が意見を出し、短時間中に侃々諤々の議論が交わされる。
顎を擦って思案していたアルドフッドが強く膝を打ち、音を掻き鳴らしながら立ち上がった。
「即決だ。全員を救出するには時間が足りねぇ、ガキを優先する。まずキズナ児童ホームのガキを別の島へ逃亡させっから、素人のアイと怪我人のナイリンもここで一緒に逃げろ。その後、残った者はワムを捜索しながら島の人々を可能な限り回収する。敵の討ち入りが確認次第、回収できた奴らと逃げろ。逃亡までの時間は俺が稼ぐ」
怪我は全然癒えていないが、闘志は欠片も折れていないのだろう。アルドフッドは地についていた片膝を浮かせ、しっかりと根強く立ち上がる。
「強制はしねぇ、ガキ共と一緒に全員逃げてもいい。その場合は俺一人でなんとかしてやらぁ」
「逃げはしないけど……でもっ、アルドフッドはどうするんだ!? 逃亡までの時間を稼ぐなら、化物染みた幹部2人ともう一度戦うことになるんだぞ……!」
「バカ、俺は奴らの標的だぞ。なぁ。どこへ逃げても追跡されて被害が増えるだけだろォが。なら地獄になっちまったこの島で、勝利か死かの博打をするしかねぇよな」
認めたくないが道理だ。敵の目的はアルドフッドの身柄と禁術の研究成果。最初から逃げる選択肢などありはしない。
しかし今のアルドフッドが幹部と戦えば、十中八九――いや、確実に敗北するだろう。奴らの軍門に下るか死を歓待するか、どちらかを選ぶことしかできないはず。
「……生憎ね。道理に則って知り合いの死を黙認できるほど、お上品な育ちをしてきたわけじゃないわ」
しかしハルは無謀な単騎決戦を認めず、アルドフッドを残して逃走することを拒む。そして俺に視線を向け、同志であることを確認してきた。
弱体化した化物と言えど、彼我戦力差を縮めるには十分だろう。敵は化物2名と部下、こちらは化物1名と不完全な化物2名。上回りこそしないが、皆無だった可能性に六徳程度の勝算を上乗せするくらいはできるはずだ。
「ダメだ、残ンじゃねえガキが! 命を捨てる気かバカタレ、てめぇらの人生ってのは奇跡に賭けられるほど軽いのか!? 敗北と死は全然違ぇ、例え敗走しようがてめぇらは生き延びやがれ!」
然し、古強者は頑として認めず――。
「たっ……大変、ねぇ、みんな大変! 子供たちが大丈夫か見に行ったら……!」
アルドフッドの慟哭と同時に、廊下と繋がる扉を開けてアイが転がり込んでくる。いつの間に部屋を出ていたのだろうか、大火災に気を取られていたせいで全然気づかなかった。
アイは児童ホームの子供を抱きしめていた。まだ小学一年生くらいの、確かホームの中では一番幼い子供だ。
「……おいッ、どうした……!?」
傷口から血が噴き出すのも厭わず、アルドフッドがアイのほうへと近付いていく。
彼女が抱えている子供は、苦痛に耐えるかのように腕の中で丸くなり、熱を帯びた荒い息を繰り返していた。その体温は高熱と呼べるほどの熱を帯び、首元には赤色の丸い斑点が幾つも浮かび上がっている。
「この子だけじゃなくて、みんな同じ症状が出てるの! ここにいない子は全員! これって、まさか……!」
もしもこれが1人だけの発症なら、未発覚の持病やストレスによる体調不良を考えたりもしただろう。しかし何人もいる子供たちが一様に同じ症状を訴えているならば、それは単なる病気とは捉えられない。
それは、何らかの感染症を示す絵図なのだ。
「ありえねぇ……。この建物の周辺には俺が障壁を張っていたから、感染源なんざ入り込む余地がねぇ。辺鄙な診療所にゃ病人も滅多に来やしねぇからなぁ……」
それに、首元に丸い斑点が幾つも浮かび上がるなんて特徴的な感染症が流行っていたならば、ニュースで取り上げられないはずがない。まさかこの島が出現元になるとは考えにくいし、ましてやほとんど外出しない子供たちが真っ先に罹るとは考えにくい。
「……MDウィルスとは、難儀な感染症に罹患したものですね……」
ナイリンの低く唸るような声を聞いた俺たちは、一斉に声の主へと視線を向ける。彼女は高熱に喘ぐ子供の首回りや喉の奥を観察し、症状を確信して頷いた。
「一年ほど前にドスリタ共和国で奇病が発生したことを憶えていらっしゃいますか」
「ドスリタ共和国……確か民だけでなく大統領にまで奇病が感染して、国の上層部が全滅したアレか」
「えぇ……その時に死した者の首にも丸い痣が刻み込まれていたのです。国を大混乱に陥れたその感染症はMDウィルスと呼ばれ、一時的に感染確認地域への渡航制限を掛けさせるほどの問題に発展しました」
――曰く、MDウィルスは中学生以下の子供しか発症しない病気とのことだ。潜伏期間は約10時間ほどで、初期症状としては高熱、痙攣、譫妄、異常行動、胸部への疼痛、そして首元の球状の痣が確認されている。
そして重症化すると、感染者の脳と臓器が異常なほど膨れ上がり、内側から臓器に潰されて、最期には体表を突き破って死に絶える。体の内側から爆発するように死に花を咲かす残虐な病状は、自然発生したものではなく人工的に作り出されたウィルスとして非人道兵器の一種に指定されているようだ。
「そんなものを、こんな小さい子供にしかけやがったってのか……!?」
しかし問題なのは、いつどうやって拡散したかだ。この診療所は障壁で包まれていて外部からの侵入を拒んでいる。もしもウィルスを撒き散らしたいなら、その障壁を突破する必要があるが――。
「………………………………………………」
その時、脳裏に昨日の光景が浮かび上がる。
スカーレットの意向を無視した『アルドフッドの遺体』という文言。人質交換という一触即発な行為だというのに、幹部どころか部隊長すら来なかった奇妙さ。
それらの符号を紡ぎ合わせると、まるで、俺たちにハルを奪還してほしいかのようで……。
「まさか、感染源はハルか!」
「え、私……?」
「昨日! あいつらはお前を易々と奪還させただろ? 最初から奪還させることが目的だったんだ、お前をウィルスの媒介とするために……!」
MDウィルスの潜伏期間は10時間ほどで、感染からの経過時間も合致する。中学生以下しか発症しないのでハルが保菌者になっていても気づかれない。
昨日の第一陣の目的は、障壁の内側に菌を送り込むための媒介者を拉致するためのものだったのだ。
「……ナイリン、MDウィルスってのは大人しくしておけば自然に癒える類の病気なのか?」
「いえ、治療魔法による処置が必要です。時間の経過と共に病状は悪化し、72時間も経過すればまず間違いなく死に至るでしょう」
当然のことだが魔法界で発生したウィルスなので、無人界での病院では処置できないのだから、医療系の魔法使いを探す他ない。しかし無人界に住んでいる医療系魔法使いなんて、アルドフッド以外心当たりがないのだ。
子供たちを助けるためには、アルドフッドの力が必要だ。ここで彼が殺されてしまえば、子供たちは口に出すことすら憚られるような死に様を晒すことになるだろう。
……いや、待て、それだけじゃない。
「ねえクロ、これ……私たちも逃げられないんじゃないかしら……?」
「………………ああ」
発症は中学生以下、しかし保菌に年齢制限はない。感染者と共に過ごした俺たちもMDウィルスに感染しているだろう。
今、俺たちが島の外に出るということは――MDウィルスを外部へばら撒くことと同義。伊豆諸島の小さな島から波及して、殺人ウィルスが全国でパンデミックを起こすだろう。しかも、もしかしたら、奴らは島民にもウィルスを感染させているかもしれないのだ。
アルドフッドがウィルスの成分を分析し、治療を終えるまで、誰も外には出られない。
「アルドフッド、事情が変わった。奴らを撃退する他に道はない」
「あぁ、遺憾だがそうみたいだなぁ。しかし勝機など僅かほども無いぞ」
「いや……たった一つだけある」
恐らく、シロガラ国やメース国に連絡を入れてもすぐには兵を動員できないだろう。中立国家だって同様のはずだ。オリジンの団長であるダウナとは島に来る前から連絡がつながらない。
援軍に頼ることができない俺たちに残された唯一の希望、戦力差を大きく埋める望み薄の一手。
到底無理かもしれないが、黙して死を待つよりは可能性に賭けるほうが有意義だ。
「ワムを正気に戻し、共に戦ってもらう。……生き残るにはこの手段しかない」
それは恐らく、許されざる一手だろう。
ワムは化物であることを嫌い、人間になりたいと願っていた。そんな彼女を化物として戦力に加えるのは義理が通らない。
しかし、嫌われて済む問題なら幾らでも嫌われよう。その罪を贖うためなら土下座でもなんでもしてみせよう。
全滅を免れるために、今日この島にいる『人を目指した化物』は、一時的に本性を曝け出すしかないのだ。
「……クロスエッジの兄ちゃんよ、俺がここから離れすぎると障壁の強度が下がっちまう。ワムを探しに島を駆けずり回れば、奴らが攻めてきた時にガキ共を人質に取られるかもしれねぇ」
治療魔法であらかたの怪我を治し終えたアルドフッドが、手のひらを開閉させながらそう告げてくる。
「俺ぁここでガキ共を守る。ワムの捜索を任せてもいいか」
「ああ、任せてくれ。……絶対に見つけて、あいつを元に戻してやるからな」
杖を構え、視線を通わせる。
戦場に君臨する以上、いついかなる別離も今生の別れとなり得る。そのまま数秒、俺たちは万感の眼差しを交差させ――。
互いに、各々の戦場へと駆けていく。
俺とハル、そして護衛としてついてきたナイリンはワムの捜索へ。
アルドフッドは障壁の死守。白兵戦では戦力外となるアイは病気の子供たちと共に障壁の内側へ。
刻々と迫る第二陣の討ち入りまで、残り、幾許も無く――。




