3章 空が紅く染まる時
転機が訪れたのは、あまりにも静か過ぎる夜のことだった。
いたいけな若さに身を任せた若者グループがバイクを乗り回すことなく、繁殖期を迎えた猫が悲鳴のような雄叫びを上げることもなく、大型車の爆裂排気音が響き渡ることもない、まるで雪がしんしんと降った夜みたいな静寂だ。
こんな日であってもハルは相変わらずで、服の洗濯を任せたら洗濯洗剤の代わりに食器用洗剤を使いやがる始末ではあったが、世間が静かなだけで自然と怒りが収まっていく。
そんな大げさなことを、と言いたくなる気持ちも分からなくはないが、俺の産まれを想えば分かってもらえると思う。
戦場暮らしだった頃は、空の黒ずむ深夜であっても炸裂音が響き、時折どこかから悲鳴のようなものが聞こえていたのだ。おまけに日中聞き続けてきた負傷者の呻きは、どれだけ布団を被っても耳の奥から消えやしない。
それを考えれば、今の生活のなんて落ち着くことか。俺が丹念に育ててきた中華鍋をハルがうっかり洗剤で洗っても業腹程度で済むね。
「こんな夜が毎日続けばなぁ……」
窓から外を眺めながら、思わず呟いた。月模様の天蓋は家事育児に疲れた心を優しく癒してくれる。
そんな俺の背後に、濃厚なめらかチョコスフレプリンを頬張るハルがやってくる。
「え、私が乾拭きと水拭きの順序を間違えて床が水浸しになる夜が毎日やってきてほしいの……?」
「あ! それも今日か! テメ、一日で三つもマヌケな大ミスしやがって」
「ふふ……四つに増える時もそう遠くないわ」
なんで得意げに胸を張っているのかは分からないが、できればメース国に帰ってもらいたいところだ。
「もういいからお前はあっちに行って、その見てるだけで胸焼けがしそうなプリンを豪快に食べてろ。俺、すねるから」
「ごめんて、おへそ曲げないで。ほら、一口あげるから。あ~ん」
「そこ耳」
なんてやり取りをしつつ、ハルと共に窓から外の世界を眺める。
都会の空には、ほとんど星など浮かんでいない(田舎に行ったことなど無いので満天の星空なんて見たことも無いが)。しかし、戦場から立ち上る煙にまみれていないだけで、俺たちにとっては貴重極まりない空模様だ。
ハルにだって、それくらいの感傷は感じられるのだろうか。バカみたいな表情でプリンを食っている様からは想像もできないが、こうして空を眺めているのだから、きっと多少なりも心に響くものはあるのだろう。
「お、動いた。外に出られないことを悟ったのかしら」
違うな。窓にへばりついたハエを見てるな。
家事指導だけでなく情操教育もしたほうがいいのかな、と思いながら空を見上げていると――。
「…………………………ッ!?」
突如、全身に走る悪寒。
背中の産毛が逆立ち、全身を巡る血が冷たく感じられ、声にならない声が喉奥から絞り出る。戦場で言えば死角から殺意を放たれた瞬間で、こちらの世界で言うなら何の気なしに見た壁に巨大なゴキブリが蠢いていた時のような感覚だ。
……この感覚は、強大な魔力同士がぶつかり合うもの。
この無人界で、魔法使い同士が戦闘を繰り広げている……?
「ハル、気づいたか」
「ええ。……中々の熟練者ね。これほどの魔力を持つ手練れは、うちの国にもあんまりいないわ」
あのハルでさえもマジになり、今まで無人界では浮かべていなかった真剣な表情を見せている。
スリッパを履くことすら忘れてベランダに出ると、時折、空が紅く明転しているのが確認できた。
紅い雷など聞いたことが無い。強いて言えば空に立ち上るレッドスプライトか。それが際限なく空中に広がっているのだから、無人界の科学では説明できそうもない現象だ。
「このまま見過ごすってのは、ありえない選択肢だよな」
「そうね。無人界に魔法使いがいるなら我々の国家にとっては大問題よ。調査する他ないわ」
無人界が軽んじられていたのは『魔力』という強大な力が存在せず、取るに足らない世界だと思われていたからだ。魔法がない代わりにこちらは科学で発展しているが、魔法界の者にとっては、魔力で簡単にできることを科学で小難しく再現している阿呆としか思われていない。
それ故に、魔法すら使えない猿未満の存在、人では無い生き物が巣食う世界……『無人界』という名称が付いたほどだ。
だが、魔力を扱う者がいるなら話は別だ。こちらの世界で魔法使いが量産されたなら、それは魔法界にとっての脅威になり得る。
そう。現在の戦力差は、『無人界には魔力が存在しないから』という前提によって成り立っているのだ。もしそれが偽りだと判明したのなら、次元間の均衡は脆くも破れゆくだろう。
「行くぞ。……気を抜くなよ」
俺たち二人は、一応の警戒としてマスクで顔を隠しつつ、玄関から外へと飛び出していった。
未だに空は紅く明転し、僅かな炸裂音が天から響いてくる。雲の隙間からは黒色の火花が舞い散り、連綿と続く黒雲をささやかに照らしていた。
空を見上げる俺の裾を、ハルがぎゅっと握り締める。
「クロ! ……あの雲の辺り、誰かいるわ」
「なに……?」
ハルが天空を指さしながら言うが、俺には何も気取れない。時折見える漆黒の残像だけが俺に感じ取れる精一杯だった。
そんな俺の動揺にも気づかず、ハルは目を細めながら、空を睨んで魔力を読み取ろうと集中している。
「1、2……いや、3人……。多分、魔力の色的に……男が1人と、女が2人かしら」
「……お前、そんなことまで分かるのか……?」
「なんとなくだけどね。間違ってるかもしれないから、あんまりアテにはしないで」
例えそれが間違っていたとしても、そもそも何かを感じ取れているだけで異常なのだ。
同じ化物である俺には何も感じ取れないのに、ハルには何かを察するだけの力がある。……その事実だけで、祖国であるシロガラ国にとっては絶望の報せとなるだろう。
二人の化物には、少なからずの優劣が存在する。その事実が、このような形で顕在化してくるとは思いもしなかった。
「……!?」
その時、天空に一筋の亀裂が映り込む。それと同時に地が揺れ、木々を揺らしていった。
高密度の魔力同士が激突し、衝撃波を発生させ、周囲一帯を震撼させたのだ。震度4の地震並に地面が揺さぶられ、思わずハルが俺の腕を抱く。
この激動は、戦場で何度だって味わってきた。
互いの将同士がぶつかり合い、トドメの一撃が放たれた瞬間。戦闘に決着が着いた時の感覚だ。
現に空は静寂を取り戻し、いつもの夜が帰ってきている。
「……終わった、のか……?」
待てども眺めども、空は静かに雲を流していくだけ。戦闘を繰り広げていた者たちの情報を得られないまま終戦に至ったらしい。
だとしても、このまま踵を返すわけにはいかないのだ。
「クロ、少しでもいいから情報を集めたほうがいいわ。あれだけ派手な戦闘をしていたのだから、何かしらの痕跡が見つかっても不思議じゃないもの」
「だな。杖、肉片、魔法痕……なんなら衣服の切れ端でもいい。わずかな手がかりでも逃すわけにはいかん」
できれば勝者側の痕跡が欲しいが、見つかるとしても敗者側のものだけだろう。誰かの殺害後に自分の痕跡を消すのは、無人界でも当たり前のことだ。
しかし、敗者側の痕跡であっても、今の俺たちにとっては珠玉の情報。そこから芋蔓式に個人情報を引きずり出し、こちらの世界に魔法使いがいる状況を把握できるかもしれない。
「無人界で大暴れしていやがる魔法使いか。……くッそ、帰還まで大人しくしていればいいハズだったのになぁ……」
「そんな魔法使いがいるって分かったら、メース国もシロガラ国も大騒動ね。無人界に調査員を大量に送り込むはずよ」
「その調査員同士が、こっちの世界で戦争の続きを勃発させなきゃいいがな……」
複数の国の調査員が同時に調査に乗り出すことはよくあることだ。大体は互いを見てみぬふりをするのだが、メース国とシロガラ国という歪な関係性ではそうもいかない。
三千年間で育まれ続けてきた亀裂は想像以上に深く、兵士同士が相まみえた瞬間、そこは戦場となるだろう。
元々、化物二人の決闘によって崩壊するはずの世界ではあったが……友人のできた今となっては、むざむざ見捨てるなんてできるはずも――。
「誰だッッッ!」
俺は虚空の闇に向かって叫ぶ。突如として大声を出した俺に驚き、ハルが喉奥から小さな悲鳴を上げていた。
「な、なに、どしたの」
「今……誰かが俺たちを見ていやがった。あれは多分女だ、俺たちと同じくらいの年の……」
「女の子?」
ハルが辺りを見回すが、そんな人物は見つからないようで、怪訝そうに首を捻るばかりだ。現に今の俺も見つけられないのだから、見間違いだと言いたくなる気持ちも分かる。
しかしあの時、確かに俺たちを見ている奴がいた。……気のせいなんかではない。どんなツラをしていたかまで、しっかりと憶えている。
そして重要なのは見られていたことだけではない。俺たちの会話が聞かれてしまったかもしれない、ということだ。
(俺たちの正体が魔法使いだとバレてしまったら、どんな不利益を被るか分からない……)
今の俺たちは杖を持っていないので、何かの魔法が使えるわけではない。だから一般人に今の会話を聞かれても、ちょっと夢見がちで頭の中がメルヘンな若者だと思われて終わりだろう。
しかし、会話を聞いていたのが魔法使いだったなら……?
もしそれが、先ほどまで戦闘を繰り広げていた、熟練の手練れだったなら……。
「ありえない話ではない、か……」
……クロが気取った女。それは見間違いではない。
確かに、物陰からクロとハルを見つめる女が一人いた。
「………………」
彼女の名前は朝霞 愛美。鳳輔の幼馴染で、クロたちの隣のクラスに在籍している女子生徒だ。
彼女は今の話をすべて聞いていた。そして二人が『魔法使い』であると、ハッキリと理解していた。
いや、それどころではない。メース国とシロガラ国――その無人界ではありえない国名を聞いて、彼らが魔法界から来た存在であることも悟っている。
(転校生2人の正体が、魔法界から来た魔法使いとはね……)
彼女の手には、焦げ付いて傷だらけの杖が一本握られている。その傷跡は直近に刻まれたばかりで、未だに黒い煙を燻らせていた。
(計画の障害になるかもしれない、か……)
同時刻、鶴ヶ島鳳輔も息を潜め、朝霞愛美の様子を窺っていた。
その手に杖は握られていないが、代わりにコインのようなものを握り締めている。そこに記されているのは、黒ずむ王冠の紋章だった。
それはフェンネル国という、かつて魔法界に存在したが、メース国とシロガラ国によって滅亡させられた国家の紋章だ。
彼はそれを後生大事そうに握り締め、どこか悲哀の込められた目で、幼馴染である愛美を監視し続けていた……。
そして、そんな彼ら四人を、テナントビルの屋上から眺めている者がいた。
彼女の名前は東松山 咲希。クロたちと同じ学園に通う、高校3年生の先輩だ。
彼女の視線は、特にクロとハルに向けられているようだった。
その目には敵愾心など含まれておらず、好奇心や興味――いや、親愛の色が浮かんでいる。
「僕の学園にようこそ。幸運な転校生たち」
彼女はあらん限り両手を広げ、新たなる同胞の現われに歓迎を示す。
「君たちは……幸せになる権利を与えられたんだよ」
思惑の渦巻く中、クロたちは痕跡を探し続け――結局、何も見つけることはできなかった。




