8章 恋する二人は浸りたい
時の流れが青空を黒く色付けし、花火を描くためのキャンパスへと変貌させる。
都会のように目映い明かりを灯さない夜の島は、天然のプラネタリウムに見下ろされていた。空に浮かぶ星々はまるで全てが一番星のように、遠巻きながらも青白い瞬きを纏っている。
たった数時間、海を渡って島を目指すだけで、これほどまでに空が変わるものなのか。都会の空しか知らない俺たちは、その雄大な景色にただため息を零すことしかできなかった。
「一気に賑わってきたわねぇ。さっきまで若者なんて全然いなかったのに、どこから出現したのかしら」
「若者はレジャーを楽しむために来てるだろうからな、寒い中わざわざ海に出てバナナボートにでも興じてたんだろ」
準備を終えた俺たちは、スタッフ用のテントの下で会場の様子を見ていた。
花畑に隣接する広場に並べられた椅子、その周辺に設営された屋台とテント、気が付けば満員になっていた駐車場。青空が浮かんでいた頃は誰も来ていなかったのに、空が黒ずむと同時に多くの来場客が姿を現していた。
訪れた人たちは千差万別。島民っぽい雰囲気の人たちや、大学生くらいと思われる若者、ダイビングにハマっていそうな日焼け跡の大人たち、幸せそうな親子連れ。
彼らは各々、椅子に座って話をしたり、広大なツワブキ畑の中を歩いたり、屋台の食べ物を頬張りつつ、空に花咲くその時を待っていた。
「ちょっと疲れちゃったねぇ。花火が上がるまで少し休もっか」
「んん……」
お疲れ気味のワムがぐったりと椅子に座り、ナイリンが偉い偉いと言うように頭を撫でている。島と言えども冬の夜は肌寒く、その足元では真っ赤なヒーターが緩慢に首を回していた。
ハルに連れられて実行委員会と関わっていたワムは、彼女なりに頑張っていただろう。まだ成人の男性は怖いみたいだが、なんとか婦人の方々とは拙くも話ができていたらしい。
普通の人にとっては小さな一歩かもしれないが、彼女にとってはバンジーで飛び降りるくらいの勇気ある行動だ。今はまだ僅かな歩みにしかならずとも、この一歩がいつか未来の財産となるだろう。
「花火がブッ放されるまで、あと15分くれぇってトコだなぁ。やるこたねぇし、お前らも席に行っていい頃だと思うぞ」
普通の人間にとっては首輪サイズにもなる腕時計を見ながら、アルドフッドが観覧席のほうを指さす。
積極的にボランティアへと参加した俺たちに与えられたご褒美は、観覧席の最前列という一番いいポジションで花火を見る権利だった。
席に向かって歩いていく中、ハルが俺の服をささやかに引っ張る。
「ねえクロ」
「ん?」
「まだ時間あるし、ちょっと歩かない?」
ちょっとだけイタズラっぽい表情で、ハルがツワブキ畑のほうを指さす。
そういえばこの島に来てから、ハルと2人で過ごす時間が全く無かった。友人と旅に来ているのだから当然ではあるのだが、いつもは2人の時間があるせいでなんだか物足りなさがあるのもまた事実だ。
俺は首肯し、アルドフッドに10分ほど歩いてくると言い残してから、ハルと一緒にツワブキ畑を歩きだした。
「綺麗なもんだな……」
夜のツワブキ畑は透き通るような蒼色にライトアップされ、葉の一枚一枚までくっきりと照らし出している。宝石のように単色へと染まる花々の通路を歩いていると、やがて、寄せては返す潮鳴りの歌声が聞こえてきた。
大海原から届いた風景音に耳を傾け、天を仰ぐ。
星の降るようなという形容を思い出すくらいに、神成島の夜空は天然の天象儀そのものだった。
これよりも明瞭な星々は何度だって見てきた。ハルと宇宙空間で殺し合ったこともあったし、銀河鉄道で果て無きコスモスを突き進んだこともあった。
しかしそれでも、地球から見上げる夜空は趣が違う。宇宙と夜空は似たようで異なる風景なのだ。宇宙では視界を埋め尽くすほど巨大な星も、この場所から見れば1ドットの白点にしか見えない。それが寂しくもあり、愛らしくもある。
「ほあぁ……」
情緒とか感傷とかの概念が薄そうなハルでさえ、その圧倒的なパノラマ感に間が抜けた声を上げている。
そのまま、1分、2分と、言葉の介在しない時間が流れていく。
沈黙は賛辞よりも雄弁に、この一面を称賛していた。
「……ねえ、クロ」
空を往く飛行機が神成島の上空を横切り終えるほどの時間を経て、やがてハルが俺の名を呼んだ。その指先で己の裾を摘み、手持無沙汰な様子で遊ばせている。
「もっと常夏のアイランドを想像してたんだけど、冬の島って思ったより寒いのねぇ。私の可愛い指先が引き千切れそうだわ。このままでは凍傷になってしまう、私かわいそう」
「……」
果たしてかわいそうかは定かではないが、無駄に指先を擦り合わせて白くけぶらない息を吹きかける様を見て、言いたいことはありありと伝わっていた。
席で花火を待つみんなと俺たちの間には、数多くの観光客が壁となっている。それを確認した俺は、必要最小限の動きで腕を伸ばし、ハルの手を握りしめた。
凍傷とは無縁なほど暖かいハルの指先を感じながら、視線をあらぬ方向へと向ける。手を繋ぐなんて不慣れな行為、ハルの姿を見ながらできるわけもない。
「……いひひ」
ハルの喉奥から聞こえてくる小さな笑い声も、聞こえないふりをした。
空は相変わらずの貴石のような星空を描き、ツワブキは絵画のように美しいのに、なんだか今はその優美な光景に集中できなかった。手のひらを介して伝わる脈動とか、己の胸元から聞こえてくる鼓動とか、いつもは気にならないはずの唾液を呑み込む音とか、気に留めたことすら無い歩調とか、そんなことばかり気にしている。
気にすれば気にするほど、いつもの自分とは遠ざかっていくというのに。
でも自分の鼓動を意識してしまえば最後、もう、平常心ではいられない。
「私ね、どこでもいいから島に行ってみたかったの。ほら、メース国は内陸だから島の領土なんて持ってないでしょ。だからどんなもんだろうって、ずっと憧れてたの」
「そう、だな……確か同盟国も内陸国ばっかりだったもんな」
ハルが紡ぐ言葉はいつも通りで、まるで手なんか繋いでいないかのよう。
しかし言葉には乗らずとも、俺の手を強く握りしめるその力だけは本物だった。
「……なんかね、クロと一緒にいると、私の夢がどんどん叶っていくね」
「まあ、叶えたのはダウナさんだけどな」
「それでもクロがいなきゃ、ここに来ることも無かったでしょ?」
それはそうだ。俺が彼女を連れ出さなければ、きっと彼女は暗い部屋に閉じこもり続けていただろうし――そもそもの根幹を語るなら、俺がいなければハルが無人界に来ることも無かっただろう。
無論、逆も然りだ。ハルがいなければ、俺がこんな日々を過ごすことも無い。その点で言えば気持ちは同じなのだ。
「クロは叶えたい夢とか無いの? どんなのでもいいよ、動物園に行ってみたいとか、植物園に行ってみたいとか、遊園地に行ってみたいとか」
「それ全部お前の夢だろ」
俺の夢。……夢というよりは願いと言うべきか、望みと言うべきか。
今こうして手を触れ合わせているこの人と、恋をしてみたいというささやかな夢。
でも今のこの場で言えるわけもない。万が一にでも告白に失敗してしまえば、神成島旅行が一気に気まずくなるだろうし、家に帰ってからの雰囲気も余所余所しくなるのだから。
……言えるわけもない。でも、それなら、一体いつが伝え時なのだろう?
恋の種が心に芽生える限り、いつだって想いは伝え時なのだろうか。
「……あ、そっか。そういえばクロにも夢があるんだもんね」
考えがまとまらないうちに、ハルが勝手に答えを導き出していた。
「前に話したもの、いつか絶対に戦争を止めてみせるって。まあ私の夢でもあるけどね」
「ああ……そうだな」
あの懐かしきダンスパーティーの一瞬、俺とハルは戦争を止めることを誓った。止めてからどうするか――そこが同じなのかは分からないままに。
普通の男女として恋をしたいというこの想いは、果たして彼女も願ってくれているのだろうか?
「………………」
恋に踏み切れない不慣れな化物、そんなことは分かっている。普通の人間なら踏み出せるラインを跨げない臆病者だって自覚している。
それでも臆病者なりに、ワムのような一握りの勇気を。
「……ん」
繋いでいた手を一度だけ離して、何かを求めて空を彷徨うハルの手を再び掴む。
指と指を絡め合わせて、手のひらをくっつけて、恋人同士のように。
「……」
さすがのハルもこれには驚いたようで、先ほどまで軽快に動いていた口が止まっていた。
観光客たちの喧騒すら聞こえず、時計の秒針が音もなく進んでいく。世界に二人っきりになったかのように、今やハルのこと以外が心に届かない。
風と共に流れゆく寒波にまみれても、心臓から放射状に広がる熱が体を温もらせていた。吐いた息が白く染まるのではないかと思えるほどに、零した吐息には熱が灯る。
ぎこちなく、慣れない静寂は続けども、どちらも手を離そうとはしなかった。
「………………………………さっきワムちゃんに聞いたんだけどね」
永遠に続くかと思われた深閑の果てに、ハルが囁くように呟いた。
「化物にも幸せになる権利があるって、クロに言われたんだって」
「……」
「なんかね、多分、多分だけど、私バカだから気のせいかもしれないけど」
「……おう」
「私、化物って呼ばれてたけど、ちゃんと今幸せになれてる気がする」
「…………それは、」
喉が痞えて、咳き込んで、臆したくなる心を押さえつけて。
「俺もだよ」
と、本音を吐露した。
偽らざる真意と溢れる想いを述べて、繋いだ手と手はより一層寄り添っていく。
再び訪れた静謐は、どうしてか、先ほどまでよりもよっぽど気まずくない。
寒風にも耐えるような熱源を抱えて、手のひらに伝わる小さな柔らかさと仄かな暖かさを静かに感じながら、どこまでも続きそうな天涯を仰ぎ見た。
……例えばこれが幸せだと言うのならば、自分の人生をかけてでも求める価値のあるものだと思う。
この身を挺して戦争を止めてでも、許されないと言われる恋であったとしても、どうにか永遠にしたい未来。
俺は今、俺たちは今、その片鱗に触れている。
「……クロに相談があるの」
「相談?」
「うん。……私たちばっかり幸せになるわけにはいかないかなって」
その一言だけで、ハルが何を言わんとしているかを感じ取ることができた。
「ワムちゃんに幸せってものを教えてあげたいの」
心の底から笑うことを知らず、誰かと心を通い合わせる喜びも知らず、自身の境遇に身を委ねて諦観を続けることしかできない少女。
その姿をかつての自身と重ね合わせた時、その面影は驚くほどに似通っていた。
「……昔の俺たちそっくりだからな」
「うん。……私たちが幸せになれたのなら、今度はあの子に教えてあげたい。それしか今の私にはできないもの」
今がどれだけ幸せであっても、過去の懊悩は消え去らない。
しかし同じ境遇の少女を幸せにしてあげることができたなら、在りし日の自分たちを少しは肯定出来るかもしれないのだ。
「ほら、前に委員長に話したでしょ。今の自分が幸せなんだったら、今度は子供たちが同じ幸せを味わえるように先生になったらいいって。それと同じようなものよ」
言いたいことは重々分かっている。
先ほどのワムは幸せになるための第一歩を踏み出しただけで、まだ少しも笑えていない。これから長い時間をかけて心の傷を癒していくとしても、その道中で精魂尽き果ててしまうかもしれない。
今、幸せがどんな形なのかを教えてあげること。……それが、ワムに未来や希望を与える行為なのだ。
「でも幸せっていってもなぁ……俺たちの例を鑑みても参考にはならんぞ。ワムはあまり人と関わりたくないタイプ、俺たちは普通の生活をしたかったタイプ。同じように学校に行って友達を作って――みたいなことをさせても、今のワムじゃ負担になるだけだ」
「そこはご存じ、知将のハル様が作戦を考えているわ! ちょっとその単一指向性のお耳を貸してごらんなさいな」
遠回しに耳が遠いと言われている気もするが、さぞかしご聡明であろう恥将ハルの口元に耳を近づける。
こしょこしょとこそばゆい感覚を得ながら作戦を聞いていくも、次第になんだか背中へじっとりとした汗が浮かんでいく。
ハルが口にした案は、どう考えても後でナイリンに怒られそうなものだった。叱られるだけならまだしも、二人揃って屋外で正座させられそうな内容だ。
「悪くない案だと思うけど、でもその、ナイリンにバレないように関心を惹く役目はやっぱり……」
「万が一バレて怒られてもいいようにドMのクロが適任ね」
俺の性癖を勝手に開陳するなと言いたい気持ちはあったが、策の発案者をコトの中心から外すわけにもいかないので俺が最適なのだろう。
「……最終的にバレるのは明らかだから、その時はハルも一緒に怒られてくれよな」
「任せて! 私、怒られ慣れてるから!」
いつも怒っている張本人に胸を張るのはいささか無反省な気もするが、とにかく話は纏まった。
俺たちは深く頷き合い、花火が打ちあがる前に行動を起こそうとするも――。
「……」
「……」
互いに足を動かさず、手を離すこともなく、再び静寂の間に包まれていた。
花火が打ち上がるまで、あと3分足らず。携帯を構えながらツワブキ畑を歩いていたカップルたちも、屋台の食べ物に舌鼓を打っていた観光客たちも、そろそろ空を意識し始めて各々が空を見上げている。
そんな中、俺たちは再び口を閉ざして、足元で咲き誇るツワブキを見続けていた。
「…………」
この小さな心臓を残り180回ほど鳴らせば、大空に一夜限りの大輪が開花するだろう。
あと少し、あと少しだけ。
時間が無いのは分かっているが、もう少しだけこのままで。
冬空の下でも熱を帯びる手を結んだままで、俺たちは互いの鼓動だけを感じていた。




