Interlude ~化物の恋~
あと何回、こうして月夜を眺めることができるのか。
きっと普通の人よりも数少なく、夜空に飽きる前に死に果てるだろう。
死を迎える瞬間は、明日にでも訪れるかもしれない。例え明日を生き延びたとしても、明後日か、それとも来週か、来月か。
少なくとも、自分が平穏な老後を過ごすことなんてできないと確信を持てるほどには、人生のリミットは迫ってきていた。
「…………」
俺は――グラシディア・アルドフッドは、自宅のバルコニーから空を見上げていた。
氷山に囲まれたペスパス国は、夜になると人体に悪影響を及ぼしかねない程の寒波が吹き荒れる。夜中に外をうろつく命知らずなどいないし、窓を開けることすらしないだろう。
しかしそんな中、屋外で空を見上げられるのは、ひとえに俺が化物だからだ。ウォッカを一杯引っかけて体を温めれば、これくらいの寒風など意にも介さない。
「…………はぁ」
……世間は俺のことを、死すら寄り付かない無敵の英雄だと思っているだろう。
未だかつて負け知らずで、敵を殲滅する姿は鬼神の如き。崖っぷちの劣勢に追い込まれたペスパス国を救った傑物として、誰もが俺の死のことなんか考えたりはしない。
でも、そんなもの、外野からの期待に過ぎない。
例えどんなに化物染みた魔力を持っていても、人はバカみたいにあっさりと死んでしまうのだ。例えば俺だって、死角から致命傷を負わされれば命を脅かされるだろう。戦場に君臨する限り、その危険性が無いとは言えないのだ。
かつて、相当に昔の話だが――シロガラ国の王子として生まれた兄弟2人が、化物とも呼べる全能の魔力を持って戦場に君臨していた。
誰もが彼らの敗北を予見できない中……彼らは敵兵に囲まれ、凄惨な末路を迎えた。
どれだけ力を持っていようが結局、戦争は数によって形成されている。化物だっていつかは壊れてしまうのだ。
だから、俺もいつか、壊れて消えてしまう……。
「……いつまでも外にいると、貴方でも風邪をひきますよ?」
不意にかけられた声は、とても暖かで、優しい色に満ちていた。
バルコニーへの扉を開け、妻のサラサが俺の元へやってくる。上物のストールに身を包んでいるが、この極寒の中、それだけでは到底体を守り切れていないようだった。
俺は慌ててサラサに近づき、その身体を包み込むようにして抱き締める。
「俺ぁ化物だから平気だ。……それより自分の風邪に気ぃつけな」
「もう。また自分のことを化物だなんて……」
初めて出会った時から、サラサは俺が化物であると認めようとはしなかった。
それだけではなく、国の英雄であることも、ペスパス国の軍人であることも認めようとはしない。
彼女はずっと、俺のことを普通の人間として扱ってくれていた。
「また、何か悩み事?」
「ん……まあ、そうだな」
「体は大きいのに、心は弱虫なんだから。……すぐに悩みこんでしまうのが悪いクセ」
「そういう性分なんだよ」
化物染みた魔力や嫌になるくらいデカい図体のせいで、豪胆な人間だと思われることが多かった。戦場を蹂躙する男なのだから心も強いのだろうと、恵まれた体格なのだから芯の通った人間なのだろうと、決めつけや偏見にも近い穿った見方で人格を見誤られてきたのだ。
子供の頃からそんな扱いだったから慣れてはいるが、誰にも心根を理解されないのはそれなりに辛いことだった。世の中の誰もが、俺の弱い心になんか気づいてくれないと、半ば観念にも近いような心持だったのだ。
誰にも理解されなかった機微に気づいてくれたのは、サラサが初めてだった。
彼女だけが化物の内面を見て、その弱さを慮ってくれたのだ。
「それで? 今日は何を悩んでいたの?」
「…………つまらないことだ」
後頭部をがしがしと大雑把に掻きながら、吐き捨てるように、けれども優しさを込めて言った。
「周囲からの期待って重ぇなあってだけだよ。化物だとしても俺だっていつか死んじまうってのに、誰も俺の敗北なんか考えちゃいねえ」
化物は死なない、英雄は死なない。……何の根拠もない世迷言を、この国の誰もが妄信している。この世界に絶対なんてないし、死なない生物なんていないというのに。
しかもタチが悪いことに、それを心の支えにして生きている奴らさえいる。
彼らに生きる理由を与えるためにも、明日も明後日も、俺は百戦錬磨の化物を演じなくてはならないのだ。
「化物だからって、勝つことが当たり前なんて……ありえるわけがねぇのにな……」
今まで負けたことが無いなら、次も勝つだろう。これまでの無敗の裏に隠された研鑽と精進を知らない者は、軽々しくそんなことを口にする。
負け続けることは簡単でも、勝ち続けることは何より難しいのに。
「……さっきも言ったでしょ」
サラサが俺の頬に手を添え、小さな宇宙のような瞳で覗き込んでくる。
「あなたは化物なんかじゃない」
そして、まるで幼子に語り掛けるかのような口調で言い切った。
数秒、時が止まったかのような沈黙が流れる。ペスパス国の寒空を過ぎ去っていく風の音だけが嫌に耳に残っていた。
「……憶えてる? 初めて会った日のこと」
沈黙の果てに訪れたのは、ここまでの流れを断ち切るような言葉だった。不意に出会いのことについて言及されて、話の変わりように少しだけ狼狽える。
「憶えてるが……それがどうした?」
「初めて出会った時から、私は、あなたが普通の人間だって思ってたよ」
サラサとの出会いは――1年ほど前。
ペスパス国の北部と南部を繋ぐ機関車が反政府派にジャックされた事件があった。サラサはその時の人質の一人だ。
犯人グループは、政府が要望を飲まなければ人質を一人ずつ殺していくなんて声明を大々的に出していた。実際に奴らはサラサを殺そうともしていたらしい。
……丁度、北方基地から南方基地に移動するために電車に乗っていた俺が、犯人グループたちを一網打尽にした時が初めての出会いだった。
「本当の化物には、誰かを救うことなんてできないの。何かを壊して何かを傷つけて、自分の力を誇示することでしか生きることができない哀れな存在。戦いの中でしか生きられない化物は、戦場で愉快そうに笑ってみせるの」
昔少しだけ聞いた話だが、ペスパス国が首都陥落の危機に瀕していた時に、サラサの住んでいた町は敵の侵略活動を受けたことがあったらしい。
きっとその時に、彼女は戦争の狂気や、それに憑りつかれた人々の不憫な姿を見てきたのだろう。
「でもね、あなたはそんな化物とは違う。誰かを助けられた時、嬉しそうな顔をしてるもの。……誰かを助けることで喜びを得られるなら、それが人間である証左だよ」
「…………」
「周囲の人たちが何を言ったって気にしなくていい、あなたを化物だと思っている人たちの期待なんて背負わなくていいの。人を化物扱いするくせに、勝手に期待を寄せるなんてどう見たって傲慢でしょ」
「……ああ、そうだな」
なんだか潤んできた目を閉じて、俺は小さく頷いた。
戦いの中でしか生きられない者が化物で、誰かを助けようと思える存在が人間。
そう断じられて、なんだか肩の荷が下りていくようで。
「だから死ぬのはダメだよ。『俺だっていつかは死ぬ』なんて言ってたけど、死ぬならお布団の上で、人間らしく老衰で死ぬこと! 戦場で死ぬなんて許さないからね」
「難しいこと言うなぁ。毎日敵の攻撃を受け続けてるんだぞ」
「それでもダメなの。……約束だからね」
子供にやるみたいに、彼女は俺の手を取って指切りをしてくる。華奢な彼女とガタイの良すぎる俺が差し出す小指は、爆竹とダイナマイトほどにスケール感が違い過ぎていた。
それでも、契りを交わす。
「……化物は死なないって周りの人が勝手な期待をしてくるのは無視していいけど……夫は死なない、っていう私の期待は背負ってくれるよね?」
「お前がそう願うなら、良夫として叶える他ないわな」
俺が笑いながらそう言うと、彼女も同じように笑って返してくれる。
たったそれだけのことが、何よりも嬉しくて。
「じゃあ俺からも要望。……俺ぁ絶対戦場から帰ってくるから、家でちゃんと待っててくれ。俺より長生きして、元気に生きて……いつでも俺の帰りを待っててくれるか?」
「えー? しょうがないなー、甘えんぼさんの願いを聞き入れてあげましょうか」
もしも俺に幸せの定義を決める権利があるならば、この一瞬こそが相応しいと断言するだろう。
10年後も、20年後も、やがて往生する間際も、俺は今日のことを思い出す。
そして、その度に、人生の指針を思い出すだろう。
誰かを助けようと思える存在が人間。
きっとそれこそが、化物を人間に変える魔法なのだ。
数年後、妻サラサ、娘ヴィオ、相棒スカーレットが惨殺される。
その日を境に、戦場に立つアルドフッドの姿は変わってしまった。
まるで慟哭を暴力に変換したかのような猛攻に、敵だけでなく味方までもが彼への畏怖を隠し切れずにいた。
彼への見方が変わったのはペスパス軍だけではなく、ペスパス国に住む市民たちも同様だった。戦場に君臨する分には頼もしいが、人間として相容れない化物としての認識を強めていく。
やがて戦争が終結した時、アルドフッドに与えられた安穏は存在しなかった。
彼は市民にとっても悍ましい、人とは思えない存在だ。誰もが彼を人間として扱わず、戦争が終わった今、無用の長物として扱い始める。
彼にとっての居場所はなく、さりとて往くべき場所もない。
人生を預けた伴侶も、その間に産まれた子供も死に消えたのだ。
そしてダウナ・ローティエンションの暗躍と共に――彼の消息は途絶えた。
……あれからずっと悩み続けてきた。
化物と人間が身分違いの恋をしてしまったことが過ちだったのではないか。許されない恋路に手を染めてしまった自分に対する罰であり、その十字架を背負いながら生きていくしかないのではないか。
許されない恋に溺れてしまった末路は、愛する者たちの惨殺。この上ない報いを胸に刻みながら、今日も俺は生きていく。
何のために生きていくのか、本当は分かっていない。贖罪のために生きていくなんて戯言、自分を慰める欺瞞でしかないのに。
今日も過去の自分が問いかける。
人の真似事をして、恋をしてしまったこと自体が間違いだったのではないか、と。




