23章 あなたを愛するスペースプローブ
「………………」
……痛いほどの静寂。
四方八方に広がる闇と、その中で仄かに瞬く星の海。
今自分が進んでいるのか、回転しているのか、落下しているのか。方向感覚の全てを喪失して、目の前がぐるぐると回りだす。
まるでその場で何回転もした後のように、吐き気が胃の辺りから込み上げてきた。卵形嚢や球形嚢、三半規管に地球とは異なる加速度が伝わり、様々な感覚の錯綜が舞い起こり――。
――違う、気のせいなのだ。銀河鉄道にいた時にはそんな感覚無かったじゃないか。これは方向感覚を見失ったが為の、一時的な混乱に過ぎない。
そう分かっていたとしてもアイの体は警鐘を鳴らし続け、右側頭部への頭痛を引き起こしながら、脳が圧縮されていくような感覚が強まっていく……。
「……行かなきゃ……」
自分の体に操作魔法をかけて、星々の並びを頼りに、鳳輔が消えていった方向へと向かって進んでいく。
……本当に進んでいるのだろうか?
変わらない景色と、風すら存在しない宇宙空間の中では、自分が前に進んでいるのかすら分からない。
それでも進んでいると自分に言い聞かせて、前へ、前へ……。
「鳳輔……、鳳輔……っ」
果てのない宇宙を進んでいくと、次第に呼吸が荒くなり、ガスボンベから酸素を吸っているかのような息苦しさが纏わりついてきた。
何の音もなく、誰の姿もない孤独感。
宇宙という、この世で最も大きな闇に包まれる閉塞感。
時の流れと共に、胸中を蝕んでいく絶望感。
……今の自分でさえ、その感情に潰されてしまいそうなのだから……鳳輔がどれほど絶望の淵にいるかは想像に難くない。
いや、きっと想像以上なのかもしれない。自分なんかには想像できないほどの絶望を感じているのかもしれない。
『本当に必要なのは、絶望の底にいるお前を、引きずり出してくれる奴だろうが!』
先ほど鳳輔が叫んだ言葉を思い出す。
絶望の渦中にいる鳳輔を助けられるのは、自分しかいないのだ。
今度は自分が鳳輔を助ける番だ。……だから、絶対に見つけ出さなければ。
……しかし、あまりにも宇宙は広大で無慈悲だ。
見つけてみせるという決意だけで叶うのならば、人類は今ごろ宇宙について知り尽くしているはず。ここは人々の叡智でも計り知れないほどの場所なのだ。
そんな中で、迷い人を見つけられるはずもない。
「鳳輔っ……鳳輔っ! 返事をしてっ!」
喉を嗄らして叫んでも。その音は誰にも届かない。酸素の存在しない宇宙空間では、音すらも存在を許されないのだ。
それでも、何度も何度でも彼女は叫んだ。
黙っていることなどできなかったから。
黙っていると、観念の気持ちが自身を殺そうとしてくるのだから。
……どこかにいる、きっと見つかる。
…………諦めなければ、また会える。
………………また、あの日常に帰れるんだ。
…………………………見つけさえすれば、きっと。
……………………………………鳳輔。
………………………………………………。
『おまえ、いっつもぶすくれた顔してっからなー。そりゃハブられるわけだ』
……誰?
『ただでさえ体がちっこくて舐められるんだからよ、せめて態度くらいは明るくならんとなー。ほら、話しててもブアイソーだと、みんな話したくねぇーって思うだろ?』
ああ、そうか。これは小学生の頃の記憶……。
『顔は悪くないんだからよー、笑っとけ笑っとけ。笑顔はいいぞ、金もかけずに少しの手間で好感度爆上がりだ』
体が小さくて、愛想がよくなくて、友達を作ることができなくて。
引っ込み思案で、可愛げが無くて、誰よりも不愛想で。
……それが、『私』。
お兄ちゃんの後ろに隠れて、人と距離を取ることしかできなかった、つまらない女の子……。
そして。
足が速くて、人と関わるのが上手で、サッカーが上手くて。
友達も多くて、下ネタが大好きなせいで女子からは最低とか言われてたけど、前に進むことに恐れが無くて。
……それが、鳳輔。
『……』
『ああこの、顔背けやがって。ホントに正善兄さんの妹とは思えねーなぁ』
初めての出会いは、どうだったっけ?
確か、そう、縦割り班活動でお兄ちゃんと鳳輔が同じ班になって、そのあと学童とかで顔を合わせる機会が多くて……その流れで私とも絡むようになったんだ。
その時の私は、全然友達ができなくて。お兄ちゃんさえいればいいって思っている根暗な子供だった。
だからクラスメートとも仲良くできなくて、教室ではいつも一人ぼっち。
できれば仲良くできればいいと思っていた。でも、仲良くなんてできないと思っていた。
環境に合わせて自分を変えられるのは、精神が成熟してきた思春期以降のことだ。小学生だった自分には己を取り繕うことすらできなくて、根暗でつまらない自分でいることしかできない。
だから、ずっとそんな毎日が続いていくんだ。
『だぁーからぁ、トモダチ作るには話しかけやすさが大事なの! 妹さんさぁ、お父さんとかお母さんが仏頂面の時はなんか話しかけづらいなー、怒ってるかなーってなるだろ? それとおんなじ! も、マジに言うと、お前いつも怒ってると思われてるぞ』
怒ってなんかないもん。そう言いながらも、私は不愛想な顔をしていた。
『お前さ、オレがいつもエッチなネタ言ってるのが何でか分かるか?』
『……そういうのが好きだからでしょ』
『いやそうだけど、それだけじゃなくてさ、居場所ができるじゃん。下ネタっぽい話の流れになったらオレのオンザステージ作れるじゃん。別にオレは話がオモシレー奴じゃないから、フツーに話してると大しておもんねぇ奴だけど、下ネタに特化すれば、あの、なんだ、ヤクワリ……的なのを持てるだろ?』
そんなこと、今まで考えたことも無かった。
私は私だ。周りの誰かと比較する必要もない、私という確かな存在なんだ。それを周りに合わせて変えるのは、私という存在を否定するようなものじゃないか。
まるで、私が失敗作みたいじゃないか。変える必要があるような欠陥品だと断言されるようなものじゃないか……。
……でも、本当にみんな、そうなんだろうか?
誰もが自分を変えずに生きているとでも言うのだろうか……?
『あー、まー、オレの場合はスキマを狙ったコスいアレだけどさ。とりあえず笑顔がイイんだよ、笑うヤツはどこでもやってけっから。あと元気な。ていうかお前、チビじゃん? ……嫌な顔すんなよ、それはホントじゃん。いやほら、小さいのって長所だろ、小さくて元気な子って可愛いし。もう興奮するね』
……ああ、でも、お兄ちゃんだって変わった気がする。
昔はただのわんぱくな子供だったのに、下級生と関わるにつれて人助けに目覚めて、今では『良いこと』をするのが生き甲斐になっている。周りからも『良いこと』をするのが大好きな『良い人』だと思われている。
それだって変化だ。過去の自分を捨てて、新しい価値観を得たということだ。
『ほら、一回笑ってみろ。笑わないと言うならば、もはやおさわりと呼んでも差し支えない違法なくすぐりをお見舞いするぞ』
……いつになったら、この優しくない世界が変わるのだろうか。ずっとそんなことばかり考えていた。
でも、私が変わらなければ世界は変わらないのかもしれない。
それぞれがそれぞれの頭の中に世界を持っていて、その意味合いを定義していく。
誰かから見た世界は、周りの人間に笑われるような厳しい世界。しかし誰かから見れば、誰もが笑顔を交わし合えるような優しい世界。
万華鏡のような世界を、私たちは歩いているのかもしれない。
それが本当なら……自分を変えてみるのも、いいのかもしれない。
もしかしたら世界は……私が思うより、もう少しだけ……優しいのかもしれないから。
『……』
少しだけ、笑顔を増やしてみた。
少しだけ、他の人と話す機会が増えた。
少しだけ、人に話しかける努力をしてみた。
少しだけ、周りの人の態度が柔らかくなってきた。
……そんな少しだけを、何度も繰り返していく。時々失敗してしまうけど、その度に自己嫌悪と反省を重ねながら、少しだけ、少しだけ、階段を上っていくように何かを試していく。
『妹さんさ、最近登校したらちゃんと挨拶してるじゃん。いいよ、スッゲーいいよ。前より話しかけやすくなったってみんな言ってんぞ』
時々鳳輔に会うと、そんな風に褒められる。
それがなんだか嬉しくて、くすぐったくて。
『おー、最近カワっちと一緒に帰ってるみたいだなー。いいじゃん、友達じゃん。あとは元気だな、愛美に今一番必要なのは元気。もうちょい腹から声出してみ。リアクションも気持ち多めで。そしたら元気なちびっ子っつー一番美味しいポジションに入れるぞ』
最初は自分の世界を少しだけ変えてみることが目的だったけど。
いつしか、鳳輔に褒められることがモチベーションになっていた。
『なんか元気感が出ない? あー、そーなぁ、まだアイはどこかカタい感じが残ってるしなー……。んじゃ、とりあえず自分を私って言うところから変えてみたらどうだ。元気っ子って自分のこと、あたしとかうちとか言うだろ。形から入ってみたら気分も変わるかもしれねーぜ?』
……きっと、あなたは気づいていなかったでしょ?
あたしの目指していた姿が、クラスのみんなと仲良くなれる自分じゃなくて……あなたの好きなタイプになっていたことを。
どんな人が好きなんだろうって、どんな自分になれば好きになってもらえるだろうって。
毎日寝る前にあなたのことを考えていたなんて、きっと知らないでしょう。
ねえ、鳳輔。
この時から、ずっと好きだったんだよ。
こんな自分のことをずっと気にかけてくれて、毎日が楽しかった。
中学に上がって、幼馴染夫婦だと周りから囃し立てられて、恥ずかしかったけど本当は嬉しかった。
家族がバラバラになって、虐めにも遭って、それでもあなたに頼ってはいけないと思って、大丈夫だよって無理して笑顔を作ってた。
だって、あなたが虐めに巻き込まれてしまうのが、一番怖かったんだもの。
自分が追い詰められるだけなら別にいい。あなたが苦しい思いをするのが、一番嫌だったの。
でも、あなたは結局、あたしを救ってくれた。
辛かったけど、悲しかったけど、嬉しかった。
……そして自責の念で自分を押し潰しているあなたを見るのが、本当に、本当に、苦しくて。
そんな日々を壊してくれたのは委員長。けれど彼女の計画で、全ての歯車が狂いかけて――。
クロくんとハルちゃんに出会って、本当に、今まで一番楽しい毎日が始まったんだ。
「……」
帰りたいよ。
あの毎日に、帰りたい。
大好きな友達がいて、大好きなあなたがいる、本当の幸いの日々に。
果てもなく宛てもない宇宙空間を漂いながら、祈るように呟いた。
夢中で捜索していたからかもしれない、もしかしたら意識を失っていたのかもしれない。記憶は薄れて、あれからどれだけの時間が経ったのかも分からなかった。
見える景色は何も変わらず、ただ雄大な闇が広がるばかり。
この闇の中に、あなたの姿は、ない。
『いつまで書類作ってんだよ、学園祭はまだ先だろ。いいから帰ろうぜ』
『あー、もーちょっとだけ待ってー。生徒会に催促されててね、これだけ済ませちゃいたいの』
脳裏にはかつての思い出が過っていた。何の変哲もなく、特筆すべきところなんて何もない、いつか忘れ去られてしまうような瞬間だ。
それでも今は何よりも愛おしく、何よりも取り戻したいあの日々。
『え? お前応援に来てたのかよ。それなら事前に言ってくれよ、教えといてくれたら乾坤一擲のオーバーヘッドキックを披露したのに』
『小学生の時にそれして頭から落ちて泡噴いてたでしょー。いーのいーの、鳳輔は応援されると力が入ってミスるタイプなんだから』
それはまるで走馬灯。
15年間の思い出が、死に際の回想のように流れていく。
……なんだか、もう、永遠に会えないかのよう。
永遠の別離を惜しむかのように、かつて辿ってきた人生が浮かんでは消えていく。
「……っ」
腕を振ってそれを霧散させようとした。しかし湯気のように形を変えながら、在りし日の思い出は流れ続ける。
二度と取り戻せない日常を、その目に焼き付けるように……。
自分の意思とは関係なく、瞳から涙が零れ落ちていく。
「……っ、鳳輔……っっ!」
一筋の涙はやがて大粒となり、頬を濡らしてしゃくり上げさせる。いつしか自分は子供のように泣きじゃくり、何かを乞うように想い人の名前を叫んでいた。
流れる涙が障壁をすり抜けて、宇宙空間に粒となって零れ落ちる。それは闇の世界に浮かぶ宝石のよう。それが幾つも幾つも、軌跡を描くかのように、自分の後ろに続いていた。
純然たる闇の中で、涙はひと際の光を浴びて輝いている――。
……いや、輝いているのは涙だけではない。
どこか歪な星型多角形を描いた小さな星が、涙と共に揺らめき、太陽の光に照らされていた。
「……え……?」
それは、とてもとても小さな星。
僅か1ミリ程度にも満たない、如何なる生命すらも住みつかない星だ。
しかしかつて、その星の中には生命があった。これは単なる抜け殻でしかない。
その抜け殻は、地球ではこう呼ばれている。
星の砂、と。
「……あ……っ!」
目を凝らさなければ見えないが、この宇宙空間に星の砂が点々と続いていた。それは自分の流した涙と同じく、軌跡のようにどこかへ向かって伸びている。
考えるよりも早く、星の砂が導く先へと向かっていた。
もしも鳳輔が、あの日の思い出を抱えながらここに来ていたなら。
思い出のプレゼントのことを、片時も忘れていなかったなら。
この道は想い人へと続いていくのだ。
幾つもの星の砂が続いていく。それを追いかけて宇宙を泳いでいく――。
……ねえ、鳳輔。あなたに伝えたいことがあるの。
小学生の頃から、ずっとずっと伝えたかった一言。
今度はもう逃げないから、聞いてほしいの。
本当は、ずっと……この世界の誰よりも……。
「……あっ!」
星の砂の続く先。
永遠の宇宙の中に漂う鳳輔の姿を見つけ出す。
思わずその名を読んでしまうが、宇宙では言葉など届くはずもない。
だから言葉の代わりに、両手を広げて、あなたに伝える。
その姿に気づいてくれたあなたは、安堵したような、歓喜するような、そんな表情を浮かべながらも同じように両手を広げた。
だから、躊躇なんかせずに、あなたの体を抱き締める。
2人の障壁がぶつかり、溶け合い、1つとなった。互いに言葉を伝えられるようになって、告げる言葉は――。
「……ただいま」
遥かなる帰還を示した言葉だった。
より一層この身を強く抱きしめながら、あなたが告げる言葉はやはり――。
「おかえり、アイ」
ただいま、大好きな人。
そして。
ただいま、大好きな日常。
……ようやく、帰ってきたよ。




