21章 非凡と平凡の激突 下
クロスエッジが雷球による一撃によって戦線復帰できなくなり、一時は敗北を喫すかと思われた。しかしそこに馳せ参じたのは、彼の盟友でもあり新たなる魔法使いの一員でもあるアイだった。
復讐の猛炎に憑りつかれ、気炎を吐くアイ。そんな彼女と対峙し、涼し気な冷笑を浮かべるデースマース。
彼らの対決は、誰がどう見てもデースマースの勝利を疑わずにはいられない。例え攻撃魔法が無いとしても、熟練者である彼が敗北する道理などありはしないのだ。
クロとデースマースの勝負は、言うなれば非凡と平凡の激突だ。魔法界に名を轟かせる化物と、禁術を僅かに使えるだけの魔法使いでは、天と地ほどの彼我実力差が存在している。しかし化物が本来の力を使えず、更に味方の生存を優先したからこそ、ありえないはずの番狂わせが起きてしまった。
デースマースとアイの勝負は、これもまた非凡と平凡の激突。クロと比べてしまうとデースマースが矮小に見えているだけで、禁術を僅かでも使える時点で本来ならば非凡と呼ぶに相応しい。しかも相手は魔法使いになって僅か1ヵ月も経たない若葉マークの初心者なのだ。
……だが、前評判を覆してクロが敗北したように。
アイが勝利する未来もあり得ると、信じるしかない――。
「……くらえっ!」
アイが撃ち放つは銀なる刃。真っ正直というか馬鹿正直というか馬鹿というか、球界ならばストレートと呼ばれるような、敵に向かって真っすぐ飛ぶ一撃だ。
当然、素直な軌道の飛来物など取るに足らない。デースマースは一歩半の足捌きで刃を避け、お返しとばかりに電なる鞭を振るう。
長蛇の如くしなり波打つ鞭が、アイの張った障壁を真っ二つに切断しながら、彼女の左肩を勢いよく弾いた。衣服の残骸と共に、皮と肉が抉れ飛ぶ。
「……いいいぃいッッ……」
人生で一度も感じたことのないほどの疼痛に、アイは歯を食いしばりながら苦渋の声を漏らす。
元々負傷している左肩が抉られたのは不幸中の幸運だ。右腕を抉られていたならば、今ごろ杖も持てなくなって敗北していただろう。
「……ッ!」
鋭い痛みに揺れていた眼が、今一度デースマースに向けて照準を合わせた。痛みを享受すればするほど、彼女の中で燃え盛る復讐の念はドス黒く燃え上がり、冷静さを残忍さへと熱形成していく。
ただでさえ許しがたい相手だというのに、クロにまで危害を及ぼした。その事実がアイの怨嗟に薪をくべていく。
憎悪の薪炭材はそれだけではない。クロがやられている中、椅子に潰されて身動きが取れなかった自分にも腹が立つ。自分への不甲斐無さまでもを業腹へと変えて、アイは再び刃を発射する。
しかし悲しい哉、愚直なまでに真っ直ぐな刃は、攻撃魔法とは名ばかりの宴会芸に過ぎない。進路を曲げることができなければ、人慣れした猫すら狩ることができないのだ。
(あの時の感覚を……思い出すんだ……)
アイの脳裏に浮かぶのは数日前の情景。
鳳輔と共に空を駆け巡り、闇夜の制空権を我が物にしていたあの一瞬。
(断裂魔法に操作魔法を重ねるだけ! ただッ、それだけなんだッ!)
その時、アイが撃ち放った刃の軌跡が変わる。大きく弧を描いて、外から迂回しつつデースマースの首を狙う。
「ぬおぁッ……!?」
突如、歪な角度から放たれた一撃に、デースマースは蹈鞴を踏みながら回避した。
そうだ、その感覚だ。アイは自分の中に生じた手ごたえを理解し、再び感覚を研ぎ澄ませる。
極限状態での戦闘が、彼女の能力を引き上げる。鉄火場での経験値は通常時とは比べ物にならない、能力を一段も二段も上へと押し上げていく。
気づけば、アイの周りを幾枚もの刃が旋回していた。白銀なる軌跡が彼女を包み込み、銀河鉄道を纏う空気を切り裂いて、悲鳴のような風切音を奏で始める。
化物には敵わない、非凡にも敵わない。
然し平凡が、王道たる進化にて、異なる才覚に迫っていく――。
「消えろッ、デースマース・љ・ディアールッ!」
アイが振り下ろした杖と共に、数多の刃がデースマースへと迫り行く。
「舐めるなッ、クソガキがッ!」
しかし敵は非凡が故に。襲い来る刃を、鞭を振るいて叩き落とす。獣の雄叫びのような鞭声が幾重にも奏でられ、刃は無残にも銀河鉄道の屋根へと突き刺さった。
成長の兆しを見せた一撃さえも、熟練の兵には敵わない。積み重ねた経験の差は、瞬間的な才覚の萌芽程度では覆ることなどありえない――。
――しかし熟練の兵は、もう一人いる。
「ようやく隙を見せたなッ!」
全ての刃が叩き落とされた瞬間、突如クロが無理やり体を動かして杖を突き出し、その切っ先をデースマースへと向ける。その目には殺意という絶対の意志が込められていた。
「――――!」
放たれた異様な殺気を受けて、デースマースの顔色が見て分かるほどに変貌した。鳥肌が立ち、唇が青ざめ、汗が噴き出て、髪が逆立つ。
それは歴戦の化物にしか発することのできない殺意の力だ。幾千もの兵士と戦い、その殺気を一手に引き受けてきた化物だからこそ、常人では計り知れないほどの殺気を打ち出せるのだ。
「喰らって塵になれッ!」
その一言を受けて、デースマースが思わず障壁を張ってしまったのも無理はない。
クロが魔力切れだと理屈では分かっていても、たった1%でも魔力が残っている可能性があるならば、是が非でも直撃を免れなければならないのだ。
それほどまでに化物の神髄は未知数。例えデースマースであろうが恐れて備えなければならない、大いなるバランスブレイカー。
そしてその隙を見逃さない未熟者がいた。
クロに気を取られた一瞬を突き、余剰魔力を推進力として、通常よりも迅速な刃を放つ。
「しまっ……!」
手玉に取られたと気づいても、もう遅い。
アイが放った刃が雷霆の鞭の根元を切断し、そのまま宇宙の彼方へと吹っ飛ばして行った。
「っ……」
武器を失ったデースマースが鼓膜を振るわせるような舌打ちを放つ。
炎球もない、雷球もない、炎雷による鞭もない。……煙突から奪取した燃料によるエネルギーは、クロとアイによって全て失ったのだ。
「今だっ、責め立てろ!」
「……ッ!」
クロの号令を受け、アイが存分に刃を振るう。
「勢いづきおってぇッ……」
デースマースは杖を掲げると、その先端部に魔力を込める。クロやハルがかつて戦闘時に使用していた、杖の形を変えて凶器とする魔法だ。
だが悲しいかな、奴は今まで杖を凶器にしたことなど無い。見よう見まねで試しては見たものの、杖の先に小さな棘が生えた程度で、あまり有用そうには見えなかった。
それでも彼は棘付きの杖で刃を弾こうと試みるが、鞭ほどのリーチもなくて重みのある凶器を自在には扱えず、その身に刃痕を刻まれていく……。
「武器など無くてもッ、ぐ、ううぅおお……!」
無論、デースマースも渾身の力で抗う。鉄道の天井に空いた大穴から椅子やガラスなどを浮き上げ、アイに放つことで反撃をしていた。
しかしそれらも全て回避されてしまう。片腕の自由を失ったとはいえアイの機動力は未だ顕在、回避行動に支障がない。
対してデースマースの回避は拙いものだ。クロとの戦闘でふくらはぎに攻撃を受けたのが効いており、回避能力を著しく低下させられていた。
自身が敗北した場合に備えて、最初に機動力を削いでいたクロの功績と言えるだろう。
(糞、糞、糞ッ! こんなところで奥の手まで使わざるを得ないとはッ! 我の崇高なる魔力は貴重な善行の種だというのにッ!)
内心、デースマースが吼える。
しかし一転して冷静さを取り戻し、杖にあらん限りの魔力を込めていく。
自身の脳に眠るドス黒い術式を引きずり上げ、杖を媒介に、その毒々しい黒の光を解き放つ……!
「……!?」
その異様な閃光に、クロが身じろいだ。彼は光と共に与えられるその感覚を知っている、体を喰い荒らされるような発狂しかねないほどの不愉快な感覚を覚えている。
異様な感覚と共に、クロとアイの腕が灰色に染まっていった。
記憶に新しい『魔力の行使を禁止させる魔法』だ。今、デースマースはその禁じられた術を解き放ち、敵対する者たちの魔法を完全に封じた。
しかし当然、今まで使ってこなかったからには相応のデメリットがある……。
「……っぷはァッ! ……ぜぇ、げほッ! げほっがはッ!」
禁術を解き放ち終えたデースマースが、数十キロを走らされたような苦悶を露わにし、嗚咽と咳を零しながら喘ぐ。その顔色は敵ながら心配になるほど悪く、もはや死人と呼んでも差し支えない程だった。
見れば、彼の手は大きく罅割れ、皮膚の欠片を痛々しく零している。手だけではない、腕にも、脚にも、仰々しい罅は広がっていた。
(やはり、魔力の枯渇か……!)
予想を確信に変えながら、クロは単なる棒と化した杖を強く握りしめる。
今までデースマースが禁術を使わなかったのは、自身の魔力が足りているかが不明瞭だったからだ。もしかしたら魔力が足りず、かつて委員長が消え去ったみたいに、砂と化して存在が消え去ってしまう可能性もあった。
だが何とか耐えきった、彼は賭けに勝ったのだ。
無論、その代償は大きい。極限にまで魔力を消費した彼には、もう魔法を使う余裕などない。実質、敵も味方も、誰も魔法が使えない状態だ。
もはや、彼らに残されたのは、原始的な暴力のみ――。
「この罰当たりなクソガキがああぁああぁぁぁァァァアアアァァッ!」
全ての魔法が封じされた世界で、デースマースが狂気を剥き出しにしながらアイへと肉薄する。
そして手に持った杖を振り下ろし、アイの体を強打した。
吹っ飛んだアイの体を踏みつけ、腕力任せに何度も杖を振り下ろす。突き出した棘が彼女の体を引っ掻き、皮膚を裂いて痛々しい裂傷を与えていった。
「人の善行を無碍にしやがってッ! 善良なる我への冒涜だッ! 魔法すら使えなかった猿風情が増長するなッ! 死ねッ! 脳漿ブチ撒けろッ!」
「……ッ、……ッ!」
何度も殴打されるアイが、自身の杖を振り上げて反撃を試みる。しかし喧嘩すらしたことが無い彼女の攻撃は弱々しく、デースマースは避けるまでもなく易々と左肘で受けた。
そして再びデースマースが杖を振り上げる。このままアイの頭蓋が割れ、脳味噌が漏れ出すまで殴り続けるだろう。アイは両手で頭を守っているが、その防御もいつまで続くか分からない……。
クロは彼女を助けようと試みるが、体を起こそうとしても足が動かない。
だから、希望を託して腹の底から咆哮する。
「アイを守れ、鳳輔ッッ!」
彼の叫びと、屋根の大穴から男が飛び出てくるのは全くの同刻だった。
その男が体を捻り、腰を使って力を貯める。既に彼はデースマースの背後を取っている、思う存分に渾身の力を叩きつければいい。
「人の幼馴染に、手ぇ出してんじゃねええええええええええッ!」
そして鳳輔は、己が持てる全ての力を込めて、デースマースの横腹を殴り飛ばす。
彼の拳に躊躇いなど宿らない。かつて坂浦を殴った時に嵌まってしまった、暴力の自責という枷はあれど――もはや厭わないのだ。
好きな人が傷ついて、殺されそうになっている。
今はただ、それだけが理由。
「ぐおへぇアッッ!」
全く以て気取れなかった不意打ちを喰らい、デースマースが内蔵でも吐き出しそうな絶叫を上げる。胃の中で胃液が津波を起こし、渦巻き、その口から噴出した。それだけでは飽き足らず、もんどりうち、転げ回り、白目を剥きながら暴れ散らかす。
全ては因果だった。
先ほどまでずっと、鳳輔は椅子の下敷きになって身動きも取れない状態だったのだ。しかし先ほどデースマースが椅子を浮遊させてアイに投擲した瞬間、その重石が外れた。
自由になった彼が屋根を上った時、見えた光景は悲惨の一言で――自身の暴力性に怯えていた時の気持ちは、もはや思い出せない。
全てから解き放たれた鳳輔が、吐瀉と唾液に塗れるデースマースを見下ろして拳を固めた。
「デースマースさんよぉ! 見りゃ分かるぜ、魔法を使えなくしたんだってなぁ! でも残念だったな、こっちには稀代の暴力男が控えてんだよ! 悔しいなら魔法の一つや二つでも使ってみろッ!」
「ぐ、ぐぐ……」
使えるもんなら使っている! どれだけ彼がそう叫びたかったことか。
ここは既に暴力が支配する世界。クロもデースマースも魔法という便利な概念によって素手の喧嘩などしたことが無い、アイもか弱い女子供だ。
今この場を制圧しているのは他の誰でもない、鶴ヶ島鳳輔なのだ。
なんたる皮肉なことか。魔法が使えない人間を猿と呼んで見下していたデースマースが、魔法に頼り切っていたからこそ、今や断崖にまで追い込まれている。
「このッ、魔法すら使えないッ、無能な猿めがァアアァッ!」
自身の窮地を悟りながらも、デースマースは吶喊しながら杖を振り上げる。
「無能で結構!」
だが当然、鳳輔に片手で止められてしまう。そしてカウンターとばかりに拳を腹に減り込ませられ、再び嘔吐感が腹から喉にかけて駆け上っていった。
「魔法なんて力、持っていても幸せそうには見えねえからな! クロやハルちゃんは化物扱いされてた! 正善兄さんも死んだ、アイも傷ついた! お前が魔法使いにした奴らだって幸せそうには見えねえぜ! 魔法なんて俺はいらねえよ、人を不幸にするだけじゃねえかッ!」
鳳輔の拳が風を切り、デースマースを打ち抜いていく。
その一発一発に怒りを込めて、しかし、復讐という己すら焼き焦がす概念は纏わせない。
全ては大切な存在を守るための拳だ。
「なあ、アイ! どうだよ、気分いいか!?」
血飛沫をその顔に浴びながら、鳳輔は愛すべき幼馴染に向かって問いかける。
「お前、こいつに復讐したかったんだろ!? どうだ、お前の憎い相手が一方的に殴り倒されてるんだぜ! 気分いいに決まってるよな? ……本当に復讐を望んでいたのなら!」
問いかけられて、アイは思わず自分の顔に手を当てる。
その顔に高揚の色は浮かんでいない。もし目の前の男が復讐すべき相手だというのならば、その身がボロ雑巾にされているこの光景を見て、少しでも歓喜の念が籠るはずだ。
しかし今の彼女はつまらない映画を見ているような仏頂面で、溜飲が下がることもないし、胸が空くこともない。むしろ本人は気づいていないが、不快感のような得も言われぬ感覚が胸中に広がっていた。
どうしてなのだろう、彼女は自身に問いかける。
兄の仇を取っているはずなのに、どうしてこの身は打ち震えないのだろう……?
「別に復讐が悪いとか、止めろとか言うつもりはねえぜ! 禍根を誰かに押し付けなきゃ生きていけねえヤツがいることは分かってる! でもな、俺にはお前がそういうタイプだとは思えねえんだッ!」
復讐にも二つの姿がある。一つは人生を好転させるために障害を排除する意味での復讐。もう一つが、ぶつけどころのない怨嗟の感情を晴らすために原因を滅茶苦茶にしてやりたいという意味での復讐。
善悪の良し悪しを除けば、前者はまだ前向きな復讐だ。その仇討ちをやり終えた時、その人物の世界は好転するのだろうから。前に進む為の好意なのだから、どういう末路を辿ることになるにせよ、本人としても満足したまま終えられるだろう。
しかし後者の復讐は違う。報復の後に訪れるのは虚無感と喪失感だ。復讐を終えた後の展望が何もなく、全てをやり遂げた後も前に進めない、相手を自分と同じ絶望に沈めてやりたいという依存にも近い空虚な反報……。
アイの気持ちを理解している鳳輔は、彼女が後者であることを悟っていた。駄々のような怒りをデースマースにぶつけたくて、自分と同じ傷と相手に刻んでやりたくて。それが終われば自分を責めて、後ろ暗さが友人関係にも影響して、人との関りを避けていくだろう。
自分はあんなことをしてしまった人間だから……なんて理由と共に、一人になっていくに違いない。
奇しくもそれは、暴力事件によって自責の念に駆られていた鳳輔に近い姿だった。
だからこそ、彼にはアイの気持ちが痛いくらいに理解できる。そして同時に、今までの自分の姿が、どれだけ見すぼらしくて滑稽なものだったのかを、今すぐに消えたくなるくらいに実感しているのだ。
「今のお前が絶望の底にいることは分かってる! 苦しいよな、家庭を滅茶苦茶にされて、友達にまで傷を負わせて! その原因であるコイツに復讐したくなる気持ちはよく分かるぜ! ……だがなッ、コイツを自分と同じ絶望に引きずり下ろすことが、お前にとっての救いになるのか!?」
一発一発に在りし日の自責を込めて、一撃一撃に新たなる決意を込めて。
反撃する力すら失いつつあるデースマースに、己の全てをぶつけていく。
「そんなの違うだろ! ……本当に必要なのは、絶望の底にいるお前を、引きずり出してくれる奴だろうが!」
瞳に映るのはかつての情景。人生で一番自分を責めていたあの時、委員長の言葉に救われて、少しずつ前に進んでみようと思えた瞬間。
『人から逃げるな。君も幸せになるべきなんだ』
あの時に言われた一言が、今の自分に繋がっている。絶望の淵に引っかかっていた自分を引き上げてくれたのは、誰かを救おうとする気持ちだった。
今度は俺がそんな人間になりたい。鳳輔は、心からそう思った。
「お前が、どれだけ絶望の中にいても! 俺はお前の傍にいる! お前がまた笑えるようになるまで、ずっと声をかけ続けてやるッ! ……だから、復讐なんて自責は止めちまえ!」
渾身の一撃がデースマースに叩き込まれる。
平衡感覚を失い、意識が朦朧として、奴は膝から崩れ落ちてしまった。歯で内頬の肉を切ったのか口からは血が流れ、濁った目は朧げだ。
「でも……帰れるのかな……。あたし、ハルちゃんを傷つけて……本当に許してもらえるのかな……っ」
『許すに決まってんでしょうがっ!』
雷鳴のように鋭利な叫びは、アイの持つ杖――その柄に取り付けられた発信機から響いていた。声の正体を悟ったアイの体が慄くように震える。
『こんなもん、化物と呼ばれた私にとっちゃ引っ掻かれたようなものよ! 気に病む必要なんかあるわけがないっ!』
通信越しだというのに、その声には熱量や体温まで伝わりそうなほどの思いが込められていた。
遥か何十万キロメートルもの距離を越えて、ハルの想いが宇宙へと行き着いていく。彼女は軋む音が届くほどに発信機を全力で握り締めながら、悠遠を隔てた友へと叫び続けた。
『もし立場が逆だったらどうしてた!? アイは私のことを許さずに怨み続ける!? そんなわけないでしょ、1ヵ月程度の付き合いだけどそれくらいなら分かる!』
「ハルちゃん……」
『もしもアイが私のことを許すと言うなら! 私だってアイを許すに決まってる! ……だからっ、さっさとその変人を殴り倒して……っ』
腹の底から出した声は裏返りかけて、彼女は言葉を一度切り――。
『私たちの日常に帰るわよッ!!!』
そう言われた瞬間、アイはなんだか泣きたくなった。
もう二度と戻れないかもしれないと思っていた。そもそも戻るべき場所なんて、もう無いと思っていた。
しかし、遥か遠くの青い星。
アイの帰る場所はそこにある。
帰りたい、彼女の心がそう慟哭する。
「……うん、帰ろうっ!」
帰るんだ、幸せだったあの頃に。
膝をつくほど満身創痍のデースマースに向かって鳳輔が駆けていく。
因縁も復讐も過去も自責も、全てを断ち切って終わらせるために、最後の一撃を放つのだ。その身を捩じり、拳に全ての力を込めて、地を這うように体勢を低くして痛烈なるアッパーを打ち抜こうとする――。
「……!」
その瞬間、クロは目撃した。
片膝をついているデースマースが後方に手を回し、鋭く尖ったガラス片を握り締めていることを。そして奴の目がまだ死んでおらず、その眼光が健在なことを……。
手から血を滴らせながら奴が握るガラス片は、銀河の光を浴びて鈍く輝き、人の肉を切り裂くには最適な形状となっていた。
既に鳳輔は、乾坤一擲の攻撃を放つしかない体勢になっている。デースマースはそれに応戦し、ガラス片を突き出すだろう。
デースマースの苦し紛れの一撃が、鳳輔に永遠の傷跡を残すかもしれない。もし末梢神経を傷つければ運動障害へと繋がるかもしれない。もし首の頚動脈を切り裂かれれば死へと繋がるかもしれない……!
いや少なくとも、この治療方法のない宇宙空間で大量出血するような傷を負わされれば、その時点で高確率の死だ。
血塗れの顔を歪めて、デースマースが妖しく笑う。
あの表情は分かる、自身の勝ち目が無いと悟った者が、退場する間際に渾身の嫌がらせをしてやろうと目論む顔だ。そんな悪戯心のような感情が、鳳輔の死を手繰り寄せていく。
時間が凝縮され、全てが永遠の刹那と化した世界。
まるで自身の死に際を悟った時のように、世界の時間が遅くなっていく。その世界の中でようやく、鳳輔はデースマースの握り締めたガラス片に気づいた。しかし手痛いカウンターを喰らうと分かっていても、攻撃を止めることはできないのだ。
停止した時間の中で――聞こえるはずのないデースマースの嘲笑だけが響いていてた。
奴を止めなければならない。しかしクロの体は動かない。アイは満身創痍で、鳳輔は既に攻撃モーションに入っているため止まらない。
奴を止めなければならない。しかし誰もそのすべを持たず、ただ成り行きを見守ることしかできない。クロはその手の魔力探知機を壊れるくらいに握り締めた。
奴を止めなければならない。もしもこの土壇場で、奇跡を起こせる者がいるとすれば――。
「奴に杖を投げろッ、アイ!」
「……!」
クロの叫びに呼応して、疑うこともなくアイが杖を投げつける。
杖は空気を裂きながらデースマースに向かって命中するが、直撃したところでダメージは与えられない。生死を分ける一瞬なのだ、木製の杖が当たったところで怯むわけもないのだ。
しかし、その杖には位置情報を示す発信機が付けられていて――。
「やれッ、ハルッ!!!」
その瞬間、デースマースの体が灰色に染まっていった。
ガラス片を後ろ手に隠したまま、彼の体が僅かたりとも動かなくなる。腕も足も、指先も眼球さえも、彼の全てが停止した。まるで彼の時間だけが止まってしまったかのよう。
だがその思考だけは止まっていなかった。デースマースは、自分の体が一切動かなくなったことを自覚しながら――迫り来る鳳輔の拳を眺めることしかできない。
(これは……っ)
灰色に染まったデースマースの姿を見て、クロは在りし日のことを思い出していた。
たった1ヵ月前、大いなるフェンネル国の末裔が企てた陰謀によって、世界が静止した時のこと。学園外の全てが灰色に染まり、時間という概念を失ってしまった。今のデースマースの姿は、それと酷似している。
そう、時を静止させる魔法だ。アイの杖に取り付けられた発信機の座標を辿って、地上から宇宙へと禁術の一撃が届けられた――。
確証はない。しかし、クロには2人の姿がはっきりと見えていた。
空に向かって魔法を飛ばす、ハルと委員長の姿が……。
そして、走馬灯を見る時の如く圧縮されていた時が爆ぜた。体の自由を失ったデースマースに、鳳輔の拳が迫る。
「うおおおおおぉおおぉあぁああぁあああああぁぁああッ!」
あらゆる想いを拳に乗せて、過去との因縁を断ち切る一撃を。
今、確かに、鳳輔は撃ち放つ……。
「ぐぶぉェアッッッ!」
聞くも悍ましい断末魔を上げながら、デースマースの体が軽々と吹っ飛んでいく。
そして地面を転がり、最後まで手にしていた杖とガラス片を手放して、1メートル半ほど吹っ飛び――白目を剥いて仰臥した。
もはや意識は断ち切られ、戦闘に復帰することは叶わない。
ゴングも無く、タオルの投入も無いが。
その無様な様子は、確かに彼らの勝利を示していた――。




