17章 もしも願いが叶うなら
死にたい。
カーテンの隙間から仄かに光が差し込むだけの、暗くて薄ら寒い部屋で頭を抱えて蹲っていた。いつもは柔らかな心地よさを与えてくれるベッドの上は、どこか空虚で他人行儀な空気に満ちている。窓の外から聞こえてくる子供たちの声が別世界のものに思えて、自分の居場所がどこにもないような感覚に陥った。
まるでこの部屋が世界から解き放たれて、宇宙を漂っているような感覚。
目を閉じれば全てが夢に溶けて、再び瞼を開けば数日前に戻っていてほしいという願望。
現実を直視するたびに胃の中で感情が暴れ、喉元まで胃酸が込み上がる不快感。
死にたい。
そんなことを思うのは、中学の時以来だった。
「……」
お兄ちゃんの死の真相を知って、自分でも制御しきれない義憤に駆られて、友達であるハルちゃんを傷つけて……もう、何をする気力も湧かなかった。
もしも願いが叶うなら、全てを無かったことにしてほしい。
魔法なんて使えなくていい、あのデートを無かったことにしてもいい。あの日常に戻れるなら、それだけでいい……。
「…………」
中学の頃はどうやって立ち直ったんだっけ?
ああ、鳳輔が坂浦を殴り飛ばしてくれたんだ。それで暴力沙汰を起こしたことで自信が無くなって、見るからに気落ちしてしまった鳳輔を慰めなきゃって思って、どうにか無理矢理立ち直れた。
……今度はどうやって立ち直ればいいんだろう。
いや……あの頃とは違って、今回のあたしは被害者じゃなくて加害者か。
だとしたら……どうやって贖えばいいんだろう。
「……行くしかないか……」
あまりにも重すぎる腰を上げて、力なく立ち上がる。長いこと抱えられていた膝は自重を支えることすら難しく、壁に手をつきながら扉へと進んでいった。
時刻は18時。病院までの時間を鑑みると、面会時間は僅かしか与えられないだろう。
それでもいい。まずは謝るところから始めなきゃならない。赦しが与えられようが与えられまいが、告解も無しに安穏と生きていられるわけもないのだから。
歩くだけで込み上がる吐き気を堪えながら、扉を開ける――。
*
月光に照らされた病室は霊安室のように昏く澱み、世界から音が失われたかのようだった。
しかし耳を澄ませば、天井吊り型のエアコンからコンプレッサーの振動音が聞こえてきている。目を閉じて感性を鋭く砥ぎすませば、夜の空を往く鳥の声や、遠くから聞こえる患者の声が耳に入ってきた。
世界はまだ終わっていない。なんだか少しだけ安心できて、少しだけ悔しくもあった。
「…………」
一歩、また一歩とハルちゃんに近づいていく。
そしてベッドの脇に立ち、安らかな寝顔を見下ろした。
自分が傷つけた末路を目の当たりにして、逃げ出したくなるような強迫観念に駆られる。金属音にも近い耳鳴りが脳内で警鐘のように鳴り響き、踏みしめている床が左右に揺さぶられているような気がしていた。
揺れる視界の中で、情けなく膝をつき、半ばハルちゃんの体に縋りつくような体勢になりながら――。
「……生きてた……」
吐瀉するように、そんな言葉が口から出てきていた。
手術が無事に終わったことは聞いていたし、命に別状はないとも教えられていた。しかしその事実をこの目で確認して、圧し掛かっていた重責がようやく一つだけ消えたような気がする。
最悪な世界の中で、最悪の結末だけは回避できたのだ。
だけど、もし目を覚ましたら、どんな顔で接したらいいのだろう。
ハルちゃんなら、これくらい気にしなくてもいいと言って笑いそうな気もする。でも、自分が笑い返せる自信がないのだ。
曖昧な表情を浮かべて、その場を取り繕うような乾いた笑い声を出して、だんだん気まずくなっていって……そのまま縁が切れてしまうような気がする。
どうすれば贖罪になるのだろう。どうすれば後腐れのない結末に至れるのだろう……。
「生きていたら何だと言うのでしょうか! その臓腑を抉った事実は変わらないというのに!」
「……」
背後から聞き覚えのある声が響いてきたが、振り返りはしなかった。その軽薄な声だけで誰か分かったのだから、見ているだけで腸が煮えくり返るような顔を見る義理もない。
窓ガラスの反射越しに私の顔を見ながら低く笑うデースマースは、大層ご機嫌そうに鼻歌を奏でる。どこか音程のズレたハミングが病室内に気色悪く反響した。
「友達を傷つけるってどんな感覚でありますかね? 我は友達なんぞ作ったことが無いので、ぜひ心境を事細かに教えてもらいたいところ」
「何の用ですか」
不愉快な質問を切り捨てるように、苛立ちを込めた声でそう聞いた。
意味のない問答だ。この男の要件など、仲間になれと誘いをかけてくること以外にあるはずが――。
「ハルモニア王女を殺そうと思いまして」
「………………!」
あまりにも無視できない一言が飛び出してきて、思わず振り返ってヤツの顔を見てしまう。
胸糞悪いニヤケ顔を浮かべるデースマースは、魔法使いには似合わない果物ナイフを手にし、ペンでも回すかのようにくるくると弄んでいる。そしてナイフの切っ先をこちらに向け、料理の説明をする従業員のように誇らしげな顔で悪魔の計画を語りだした。
「シナリオはこうです。鶴ヶ島鳳輔に想いを寄せる朝霞愛美は、想い人を取られるのではないかという被害妄想に駆られて、友人であるハルモニア王女を刺殺しようとした。しかし一度では殺しきれず、こんな夜分遅くに果物ナイフを持って止めを刺しに来た――と」
「な……ッんだ、その、バカげた妄想……!」
「ジェラシーによる恨み辛みが綴られた日記は偽装済み、無論筆跡は貴女のものを模倣しました。あとはこのナイフに貴女の指紋を付ければ、世間的に見れば痴情の縺れによる殺人事件ですなあ。ああそういえば、周囲の人間を脅迫して、以前から男女のいざこざがあったと証言させなくては」
手遊びの一環か果物ナイフで花瓶の花を切り落としつつ、昨晩読んだ面白い小説の内容を語るかのように、ヤツは反吐が出るような事件概要を口にする。
思うが儘に罪の所在を弄り、歪んだ結末をパッチワークする下劣な手口。……そのゲスな遣り口のせいで、お兄ちゃんの過去は今も尚、世界のどこかで語り継がれている。
「……そうやってッ、お兄ちゃんの事件も偽装したっていうのッ!?」
「偽装とは人聞きが悪い。本人に罪を被らせてあげたのですよ」
「善行とかのたまっておきながら、殺人や偽装なんていう悪事に手を染めて……! 一貫性のない行動だと自覚がないの!?」
「? なにを申しているのやら。善行のためには悪事が必要不可欠! 悪事は善行の素と言ってもいいでしょう、二つは表裏一体なのですよ!」
「…………っ」
この男はお兄ちゃんとは全然違う……。
お兄ちゃんも善行をすることが好きなタイプだったけど、そこには「悪事は絶対にしない」という矜持があった。いや、お兄ちゃんじゃなくても、誰しもが善行と悪事は相反するものだと理解しているだろう。
だけどこの男は違う、善行のためには悪事も已む無しという狂人だ。誰かを助けるという満足感が欲しくなれば、誰かを容赦なく車で轢いてでも、救いを求める存在を作り出すだろう。
善行をしたという事実だけを求めて、それ以外の全てを度外視した最低の異端者でしかない。
「さて! 決断の時でありますよ。我は今からハルモニア王女を殺します。では、この時に貴女が言うべき言葉は?」
「……」
分かってる。これは全部嘘なんだって。
この男にハルちゃんを殺すつもりなんてない。ただそれが脅しの一種になるならばと、言うだけ言ってみているだけなのだ。
しかし今の状況では、それがこの上なくクリティカルな脅迫。
ハルちゃんを傷つけて入院させた自分が、ハルちゃんを見捨てるような選択をできるわけがない。例え空虚な駆け引きだと理解していても、絶対に口に出せない一線が確かにある。
それに……拒んで拒んで、幾度となく拒み続ければ、デースマースも痺れを切らして強硬策に出るだろう。そうすれば今度こそハルちゃんが殺されるかもしれないし、クロくんや鳳輔にまで危害が及ぶ可能性だってある。
ここが自分にとっての行き止まりなのだ。
そして、この行き止まりこそが、自分の求めていた場所。
ようやく分かった気がする。
兄を失ってから、何のために生きてきたのか。何のために魔法使いになり、何のために今日を迎えたのか。
……復讐を遂げるために、ここまで生きてきたのだ。それが過去をズタズタにされた自分の願い。
憎き宿敵を目の前にして、ようやく理解する。
自分の中で渦巻いていた、永劫に晴れない負の感情。楽しい日々の合間にも不意に思い出し、脳を侵食する昏い情動。自分がどれだけ幸せな瞬間にいたって、兄の死と家族の崩壊を思い出しては心に陰りが生まれ続けた日々。
この男を殺せば、ようやく全てから立ち直れる気がする。
「……分かった。あなたの言うことに従う」
まるで三日月を横に倒したような口で、奴は溢れんばかりの笑顔を浮かべる。長く抵抗していた相手ほど、その心を屈服させた瞬間は心地よいものなのだろう。
内心を悟られてはいけない。殺意をおくびにも出すな、苦々しい表情で感情を覆い隠せ。
そして機を待つんだ。焦らず冷静に成り行きを見守って、そして隙を見せた暁には――。
この男を……殺してやる……。
「ではッ! 参りましょう! 我が所有するアジトへ!」
奴が高らかに宣言すると、窓の外が黄金色に輝いた。天から金色の光が差し込んで、この病室を眩く照らしている。
黄金の軌跡が真一文字に描かれたその様は、薄明光線と呼ばれる現象。薄明光線は天使の梯子と評され、空から天使が舞い降りることを指している。
しかし雲の合間から降りてきたのは、天使ではなく蒸気機関車だった。黒光りするボディに天光が差し込み、あまりにも神秘的な一枚絵と化している。それは昔の絵本で見た銀河鉄道にそっくりだった。
それと同時に、黄金の羽が世界に降り注ぐ。燐光を発しながら降り注ぐ天使の羽は、美術館の絵画を思わせるほど芸術的で美しい。
朧月夜だというのに朝日のような玉光が煌めいて、この病室内を灼たかに照らしていた。
あまりにも幻想的な光景に魅入られ、ただ目を見開いて身を任せることしかできない。もしもこんな状況でなければ両手を合わせて何かを祈ってしまうほど、目の前で繰り広げられる全てが人間の許容範囲を超えていた……。
そして銀河鉄道は、病室の窓の前に停車する。
音を立てながら乗車口を開き、新たなるしもべを迎え入れようとしていた。
「さあ行きましょうぞ! 我らが塒へ、大いなる天の国へ!」
デースマースが恭しく手を差し出し、紳士な仕草で招き入れようとする。あたしはその手を無視し、自分の足で銀河鉄道へ向かって進んでいった。
自分はこの場所に戻って来られるだろうか。
もう一度みんなに会えるだろうか……。
そんな疑惑を胸中で霧散させながら、銀河鉄道に乗り込んでいく。
「あーッはっはっはっはッ! これぞ善行、良き導き! なんという人格者! 我はまた悩める愚者を救ってしまったッ! くはッ、はーッはははッはひゃふひひひひっくっかかかかかかッ!」
耳障りなデースマースの高笑いと共に、二人を招き終えた銀河鉄道の扉が閉じていく。
そして銀河鉄道の中に硝子の呼子が鳴らされる。次いで汽笛が高く響き、銀河鉄道が幾度と無く揺れ始めた。腹の中に二人を入れたまま、前輪が前に傾いていく。
一度振り切ってしまえば一目散、銀河鉄道は韋駄天のように速度を上げ、大空へ飛び立つ。やがて線路のしがらみからも抜け、宝石箱のように星々が瞬く天空へ、銀河鉄道は脇目も振らず走っていく。
雲の合間を、闇の空隙を潜り抜けて。迷うことなく一天を駆け、やがて窓からの景色は更なる黒鳶に変わるが、それでも月夜の空へ昇っていく。生まれ過ごした街が遥か眼下に見える、あれほど愛した街は、今や精巧なミニチュアであるようにしか見えない。
そして、薄明光線の残滓を空に残しながら、銀河鉄道は消えていった。
黄金の光が消え去り、誰もいなくなった病室内。
横たわるハルの瞼が、音もなく開いていく。
未だに体は動かず、声を発すことすら叶わない。しかし確実に意識を取り戻し、そして、天空に消えていく銀河鉄道の姿を確かに見た。
「……?」
今の彼女に、それが何なのかは分からない
しかしなんだか、とても大切なものを失ったような虚無感が胸中に渦巻いていた――。




