最終章 婚星に願いを
世界に色があるということを知らなかった。
赤や青、白や黒があるということを聞かされても、概念を理解することができなかった。
まるでそれは超能力とか、神とか、魔法のよう。
自分には全く知覚できないのに、誰かがあると断言している胡散臭いもの。正直なことを言ってしまうと、雨も涙も血も全て同じとしか思えない。味や香りが異なるだけで、それ以外に違いがあることなんて信じられないのだ。
でも誰もが、色の存在を信じている。
まるで世界に騙されているみたいで。
本当は周りのみんなも、この闇の世界を生きていて……口裏を合わせて嘘をついているだけなんじゃないかって。
そう思いたかった。そう思うことで、自分を慰撫するしかなかった。
もし本当に、この世界に色や光があるのだとして。
どうして私にはそれが見えないのだろう。
どうして私ばかりが当たり前を享受できないのだろう。
私が何か悪いことをしたのだろうか。例えばそれは前世で犯した罪でもいい、自覚すらできない理不尽な罪でもいい。……どんな些細な事でも理由があるなら、無理矢理自分を納得させることができたはず。
でも、誰も私の罪を語らない。何も悪くないだとか、不運だとか、慰めの言葉ばかりを並べ立てる。
慰めて欲しくなんかない。ただ、自分を納得させたいだけなのに。
贖うべき罪がないというならば、どうして、世界はこんなにも息苦しいのだろうか。
どうして、自分が幸せになる未来すら、想像できないのだろうか……。
「…………………………」
徐々に萌芽していく意識は、未だに胡乱だった。
体が感覚を取り戻しても、自分が眠っていたことに気づくまで少しだけ時間をかける。……目が見えない星宮は、起床と共に目を開いて闇から抜け出す機会がない。現実も夢も黒に塗れ、視覚的な違いが無いのだ。
だから少しずつ脳が覚醒し、体を走る感覚が現実的であるかを確認しなければ、自分が目を覚ましたことに確信が持てなかった。
「……」
彼女は自分が目覚めたことには気付いたが――まだ記憶は朧気だった。
今日が何月何日かも思い出せず、今日の予定も、昨日寝る前に何をしていたかも思い出せない。麻酔明けのように現実感を失った世界の中で、自身が覚醒していくのをただ待つばかり。
なんだか、とても大切なことがあった気がした。とても驚いて、とても嬉しくて、とても不安で……とても現実的ではない何があったような、そんな気がしていた。
「朱莉」
千々に乱れる意識の中に、優しい声が響いてくる。
子供の時から聞き慣れていて、いつの日か名前を呼ばれると嬉しくなることに気づいて、意識してしまってからは少しだけ呼ばれるたびに恥ずかしくなる、そんなたった一人の相手。
「……瞬兄?」
星宮がその名を呼ぶと、流川は優しく彼女の手を握った。
まるで見えない彼女に自分の存在を教えて知るかのように、昔から2人が喋る時は、いつもその手を握っていた。
「大丈夫? ……痛くない?」
心配そうな声色を聞いて、星宮は少しだけ混乱しそうになった。どうして自分がそんな心配をされなくてはいけないのか、理由が思い出せない。
しかし、少しずつ――コーヒーに沈めた角砂糖が溶けていくかのように、記憶の底から数時間前の出来事が蘇ってくる。
『お邪魔するわ!』
『よう、今日も来たぞ。しかも朗報を持ってな』
事前予告も何もなく訪れた、若葉春と高坂黒。足音や雰囲気から、今回は彼ら2人だけでないことを悟る。病室と似たようなアルコール消毒液のような臭いがしていたから、きっと医療関係の人なのだと思っていた。
星宮が問うと、その人たちは2人が昔住んでいた場所から来た医者のようで。……日本にはまだ伝わっていない眼球移植手術をしに来たという説明をされた。
長々とインフォームドアセントを語られたが、話の内容はあまり耳に入ってこなかった。
ただハッキリしているのは、もしかしたら目が見えるようになるかもしれないということ。それだけではなく病弱な体も治るかもしれないということ。
『ほ、本当に……治るんですか……!』
『まあ治る可能性は高いわね。……でも、当然のことながら注意事項があるわ』
その代わりに言い渡されたのが、手術について口外してはいけないということと、治らない可能性があるかもしれないので過度に期待しすぎないこと。
藁どころか蜘蛛の糸にさえ縋りたい身なのだ、星宮が断るわけもない。
『……ところで、もし体が治ったとして最初に会いたいのは誰だ?』
『え?』
『いや、視界を取り戻して最初に見る光景になるだろうからさ。最初に会いたい人を聞いておこうかなって。両親でもいいし病院の先生でもいい、それとも……もっと別の、誰かさんでもいいぞ』
『………………』
星宮の答えを聞いて、クロとハルはやっぱりとでも言うように少しだけ笑った。
そしてクロたちの連れてきた医療系魔法使いが、杖の先から麻酔魔法を放ち、星宮の頭部を包んでいく。笑気ガスのようなどこか甘い芳香を感じながら、星宮の意識は少しずつ薄らいで、夢の在り処よりももっと深い場所まで沈んでいった。
意識の喪失を確認した後、魔法使い達によって病室の中に薄い膜のようなものが貼られていく。それは戦場の前線でも使われる簡易的な手術室、感染症や異物混入を防ぐ為の無菌室のようなものだ。更には外部へ音を漏らすこともなく、今やこの病室内で何が起ころうと外部へと知れ渡ることは無い。
病院内で異世界染みた手術が行われたとしても、誰にも気取れないのだ。
『ではこれより、タイムアウトを始めます』
医療系魔法使い達が手術前の最終確認を終え、各々杖を持って患者の傍へ立つ。クロとハルは病室の壁際で、そんな光景を眺めながらただ待つことしかできなかった。
無意識的に両の手を組んで、彼らは手術の成功を祈る。
……もしも、願うことに意味がある世界だというのなら。
祈りは、技術を持たない者達にとって唯一行使できる医療行為だった。
「……………………」
意識を失うまでの全てを思い出した星宮は、小刻みに震える手で自分の目に触れる。
指先に少しだけ弾力性の感覚が伝った。そして何度も自分の顔に触れて、両目を覆うようにして包帯が巻かれていることに気づく。
今はまだ、自分の目が見えているのか見えていないのか分からない。
「……手術、終わったの……?」
「そうみたいだね。……クロたちが言うには、心の準備ができたら包帯を取っても大丈夫だって」
「手術は……成功した……?」
「……それは聞いてないよ。もし成功しても失敗していても、朱莉と一緒に分かち合おうって思っていたから」
僅か数センチにも満たない包帯を解けば、その答えは出るだろう。いや、今でもきっと本気で目を開けばその瞬間に分かるはずだ。全盲の闇と包帯越しの闇は、全く異なる明度なのだから。
もしも、この瞼を開いても世界が変わらなかったなら――どれほどの失望を心に刻めばよいのか。治らない可能性があるから過度に期待しすぎるなと釘を刺されていたとしても、絶望に沈むほどの失望は禁じ得ない。
……しかし、失望の底が深ければ深いほど……成功していた時の喜びは計り知れないだろう。
もう運命は変えられない。変えられるのは、自分の気持ちだけ。
「……瞬兄。これ……外して?」
少しだけささくれた指先で包帯をなぞると、流川が緊張しているかのように大きく喉を鳴らした。
「……いきなり外して大丈夫? 焦らなくてもいいんだよ……?」
「ううん、いいの」
不安定になっている心を俯瞰的に見てみれば、自分とはなんと滑稽なものか。この目を開かずとも、既に答えを手にしてしまっているというのに。
病弱ゆえの頭痛も倦怠感も、気が付けば影も形もなく霧散している。こんなにも体の調子がいい日なんて何年遡っても思い出せない。そして一番の要因は、誕生日という名の犯行日を迎えてメランコリックになっていた心が少しも澱んでいないのだ。
仄暗くて閉塞的な世界を飛び出して、誰かが語る光の世界へと踏み出すには絶好の体調だった。
「ね、外して。……今ならきっと、幸せになれる気がするの」
「…………」
震える手を伸ばして、流川が星宮の包帯に触れる。後頭部に手を回して包帯を留めるためのサージカルテープに気づき、ゆっくりと、少しずつ、心の準備のために時間を稼ぎながら――包帯を解き放った。
留め具を失った包帯が星宮の膝に落ちていき、その切っ先が地面へと垂れ下がって、引っ張られるようにして包帯の全てが地面へと落下した。しかし星宮も流川も拾おうとはせず、ただ凍り付いたかのような時の中で静止していた。
「……」
数十年に一度しか開花しないリュウゼツランが開いていくかのように、彼女の瞼が少しずつ開いていく。
僅かに開いただけで、今まで感じたことのない刺激が目を襲い、思わず再び闇の中へと逃げてしまう。刺すような刺激を感じた星宮は、それでも瞼を開けようと前を向いた。
初めての光は、痛みだった。
初めての色は、白色だった。
初めての光景は……。
「…………」
愛する人の顔だった。
「……朱莉……見える、のか……?」
「……」
臆したような質問に答える代わりに、星宮は手を伸ばして流川の頬に触れる。
仄かな暖かさも、少しだけ骨ばった感触も、指先に触れる耳の形も……闇の世界で何度も確かめてきた、愛する人の顔。
貴方の顔がそこにある。色がある。命がある。
黒い髪の毛と、薄橙色の顔。深緑色の瞳と、薄桃色の唇。
色なんて知らなかった。でも昔、貴方に教えてもらったから分かるよ。
これが黒で、これが赤で、これが白で。
これが、世界の色で。これが、貴方の色で。
「……っ……」
ようやく――14年越しに世界を見ることができたというのに、彼女の視界は近視になったかのようにぼやけてしまう。涙腺から分泌した涙が眦を伝い、ベッドの上に幾つもの染みを作って、それでも涙は止まらない。
何度しゃくり上げても、何度目元を押さえても、悲しくないのに、愛する人の顔が見たいのに、どうしたって涙が出てしまう。
涙を流しながら蹲る星宮の体を、同じように涙を流す流川が抱き締めた。
その身体を掻き抱かれた星宮は、どうしても震えてしまう声で小さく呟く。
「……ようやく……」
「……うん」
「ようやく、会えたね……」
「そうだね。……うん、やっと会えた」
かつてなく相手の体温を感じて、星宮は安心したかのように目を閉じる。そして言葉にならない思いを、心の中で囁いていた。
…………貴方のことをたくさん知っていたつもりだった。優しいところも、少しだけ背伸びしたがるところも、その手の温もりも、微かに漂う温かな香りも。子供の頃から共に生きてきて、誰よりも貴方のことを理解していると思っていた。
けれどもきっとこれから、もっとたくさんのことを知ることができるだろう。
貴方がこんな顔をして泣くなんて、貴方がこんな顔をして喜ぶなんて、今までずっと知らなかったのだから。
視力を手に入れても、温かさと優しさは何一つ変わらない。でも視力を手に入れたことで、より深く貴方を知ることができる。
例えば貴方が泣いているところを見られたくなくて少しだけ顔を背けていること。見つめられると焦ったように目を逸らしてしまうこと。照れると無意識的に自分の髪を弄ってしまうこと。病弱な私が倒れても支えられるように腕を近くに置いてくれていること。
今まで私に隠そうとしてきた子供っぽい一面も、今まで私が見ることができなかった優しい一面も、全部たくさん受け取って。
私は、ようやく、貴方に本当の恋をしたんだよ。
「……あ」
その時、流川が小さく声を上げて、星宮の体から離れていく。不意に温もりを失って、思わず星宮が目を開けた。
再び広がった視界の中には、窓のほうを見て動きを止めている流川の姿があった。一体何を見つけて声を上げたのか、その理由が気になって視線の先を追うと――。
「……わあ……」
今度は星宮が声を上げていた。
今宵――窓の外に広がっていたのは、全てが黒ずんだ夜の闇だった。黒の緞帳が落ちきって、光の消えた世界からは全ての色が失われていた。
子供の頃から世界は美しいと言われ続けていたが、初めて見た世界は闇に沈んでいて――星宮にとっては少しだけ肩透かしだった。きっと朝が来て世界に光が差せば、彼女も世界の美しさを知るのだろうが、その頃には心も落ち着いて今ほどの感動を味わえないはず。
……でもそれは、先ほどまでの話。
今の夜はもう、澱まない。
窓の外に広がる夜空に、幾つもの流星が流れ落ちていく。白く透き通った線が軌跡を残しながら、闇の彼方へ吸い込まれていて。それが何本も何本も、幾線も幾線も、星夜の空を埋め尽くすかのように刻まれていく。
それは誰かが絵に描いたような、空一杯に広がる流星群。
今や世界は流れゆく星に包まれて、見上げれば銀河の靄のようなものまで浮かんでいる。人間の想像力の限界を超えて、この果てなき空は大流星の群生地。手を伸ばせば届きそうなほど、どこか空が近く感じて。
黒くて蒼い空は、まるでオーロラを敷いたかのように様々な色へと変わっていた。透明な白や蠱惑的な紫色、仄かな緑と岩石のような赤褐色。誰かが描いた大げさな宇宙のように、空は一大のパノラマそのものとなっている。
「これ、は……」
星好きの流川にとっては現実を疑いたくなるような光景だった。こんな自然現象はかつて一度も、それどころか今後永遠に発生するはずがないだろう。それくらい現実感が無くて、幻想的で、起きながらに見る夢のよう。
しかしそんな奇跡さえも、彼にとってはどうにか受け入れられるものだった。
大好きな人の体が治るなんていう最大の奇跡が起こったのだ。世界や宇宙がどうなろうと今さら疑うわけもない。天変地異なんかよりも、よっぽど起こり得ない奇跡を手にしたばかりなのだから。
「……」
2人は言葉なく手を繋ぎ、闇夜に広がる一夜の芸術を眺めていた。言葉もなく視線を通わせることもなく、それでいて強く手を握り合いながら、いつまでも、いつまでも。
――そんな2人とは遠く離れた、高槍山の上空付近にはハルの姿があった。
天使を思わせるかのように空を舞い、手に持った杖の先からは天の川のような白い粒子を飛ばしている。風に誘われて空に舞う粒子は、杖先からの光を浴びて様々な色に変わり、闇夜というキャンパスに様々な色彩を描き込んでいく。
彼女が杖を振るえば流星が降り、空の色が変わり、星が煌びやかに瞬いて。世界で一番雄大な画布に、人間のスケールでは描き切れない程の流星群を表現していった。
空間に絵を描き、相手を惑乱するための幻想魔法。戦場で使えば敵を欺くだけの魔法は、この平和な世界においては、誰かの為のプレゼントにだってなり得る。
星を愛した一人の少年に、世界を初めて見た一人の少女に、忘れられない一夜を捧ぐ。
気づけば空一面が星と色彩に覆われて、どこを見回しても美しき情景が広がるばかり。魔法仕掛けのプラネタリウムは月さえ彩って、たった2人の為の星月夜になっていた。
「……気持ちは痛いくらい分かるからね」
どこか郷愁感を纏った表情を浮かべながら、ハルが小さく呟いた。誰にも届ける宛てのない独り言が、極彩色の空に透けて消えていく。
かつて彼女は――この世界に来たばかりの頃、星宮と同じように全てを諦めていた。
人として造られていない自分には幸せになる権利など無いと、人として生きることなど許されるはずが無いと決めつけ、再び戦火の渦中へ戻るその時を待ち続けていた。
その手を握って、外の世界へと連れ出してくれたのはクロだ。同じ化物扱いをされていた彼が、彼女のために凄惨な過去を振り切って、この世界の楽しさを教えてくれた。
その日のことが忘れられないから、その時の感動が生きる理由になっているからこそ。
かつての自分と重なる星宮を、幸せにしてあげなければならない。
「おーい、ハルー。あんまりやり過ぎると、また魔力を使い過ぎてるってけたたましく怒られるぞ」
地上から浮かび上がり、ハルの隣へとやってきたのはクロだった。
医療系魔法使いとアフターフォローについての話をしたり、急に眼球が発生したことに星宮の家族や病院関係者が驚かないよう記憶や資料の改竄を依頼したりと、裏方残務に追われているせいでどこかお疲れの様相を見せている。
「任せて、正統な説教には非合法的な開き直りで立ち向かうのが私の流儀だから」
「大人しく首を垂れておけよ」
首を回して骨を鳴らしながら、クロが幻想の夜空を見上げる。
この景色を2人は見てくれているだろうか、感動してくれているだろうか。病室にいる2人を想いながら、少しだけ彼は表情を綻ばせた。
「しかしまあ……2人しか見えないように設定したとはいえ、これは少しやりすぎかもな。星宮の中の夜空の基準がブチ上がるぞ、離乳食を終えた子供にグラブジャムンを食わせるような刺激だろ」
「まあまあ、初めて見る世界なんだし少しくらいサービス過剰なほうが盛り上がるじゃない! 多分一生の思い出になるわよ、病室から一番綺麗に見えるように描いたから私には全体像が見えないけどね」
「なんだったらちょっと代わってやろうか? 俺が続き描いとくから、ハルは病院近くから全体像を見てきたら。俺、これ以上事務作業したら反吐がいっぱい出ちゃうし」
「いいの!!? なにクロ急に優しいじゃない、ドレインキッスしてあげる!」
「え、なにそれ体に良くなさそう」
遥か彼方の想い人たちへ、この幻想の絵画が届くように。
杖という魔法の筆を翳して、世界を彩る。
世界は美しいものなのだと、まだ知らない誰かへどうか伝わるように。
一夜限りの幻想が、千夜一夜の闇を越えてきた少女へと贈られる。
……そんな想いは、確かに届いていた。
「……………………」
いつまでも、流川と星宮は魔法の夜空を見つめていた。
繋ぎ合った手はそのままで、まるで世界が静止したかのように、二人きりの天体観測は続いている。日向雨の如く降りしきる星はいつまでも止むことなく空を裂き、二人の瞳に一線の影を刻んでいく。
何よりも灼たかで美しい光景を見て、星宮はかつてクロに言われた言葉を思い出していた。
「……ね、この前の流星群の時さ……私が元気になれるように祈ってくれたのって本当?」
「えっ」
突如として語ったはずの無い過去に言及されて、流川としては驚く他ない。しかしすぐに流出元が誰なのかに思い至り、勝手に恥ずかしいことを教えないでよと言わんばかりの顔で真っ白な壁を見つめた。
「……まあ、そう。ほら、朱莉が丁度体調崩してたから、それに星が降ってたから。……願いを言うだけならタダだし、まあ、言うだけね……」
言い訳染みて子供みたいな言葉を聞いて、星宮が淑やかに小さく笑う。まるで年上のお姉さんが素直になれない子供を見て微笑ましく思っているかのようだった。
「ありがと。……うれしい」
「……ん」
「でも、ご利益あるもんだね。本当にお願い叶っちゃった」
正確に言えば、星が叶えたというよりはどこぞの魔法使いたちが叶えたと言うほうが正しいのだろうが、それでも願いが叶ったのは事実だ。
いくら願っても、どれだけ望んでも、叶わなかった夢。切望の果てに得た答えは、星に願うことなんていう子供でも信じないような方法。
突拍子もなく、現実味もなく、それでいて詩的で、ロマンティックな夢の叶え方だった。
「これだけ星が降っているなら、もっとすごいお願い事も叶っちゃうかもね」
「そりゃいいねぇ、ハルちゃんみたいにお金でも願ってみる?」
「うーん、そういう即物的な願いは星に嫌がられそうだよね……」
願いを叶えてくれる存在にお金を欲するなんて、御伽噺で言えば最後に痛い目を見るパターンとしか思えない。
星が喜びそうな願いは、もっとこう、どこまでも情緒的で空想的な……。
「…………………………」
するりと、流川の手から星宮の手が滑り落ちていく。
半ば無意識的に胸の前で手を組んで、どこまでも広がる幽玄な星空を見つめながら、星宮は小さく口を動かした。どこか強張る唇と喉の渇き、背中に伝う汗と体を震わせる鼓動。こんなに緊張する機会なんて、手術の直前くらいでもなければそうそう無かった。
でも、今なら。
「……もしも願いが叶うなら」
今の自分なら、何だってできる気がした。
「大好きな瞬君と恋人同士になれたらいいな」
伝えたい相手ではなく、夢幻的な星空に向かって願った。
時間の流れを忘れたかのような病室の中は、愛の言葉を受けて、よりいっそう時と切り離されたかのよう。まるでこの一瞬が切り取られて写真と化してしまったかのように、感情も動悸も高鳴りも、どこまでも続いていく。
されど気まずさの無い、入眠前のような静寂の中に、流川が小さく息を吸う音が混じり込む。
「………………星に願う時は、消える前に3回唱えないと意味がないらしいよ」
「……ん、そうなんだ。……意外とルールが厳格なんだね」
「何でも願いをかなえてくれるなら、それくらい厳しくないと大変だからね」
星に見惚れていたのか、それとも相手の顔を見ることができなかったのか。夕焼けを浴びたかのように顔を赤くしながら、流川は星空を見つめてそう言った。
しかし、ようやく、今こそ。……星宮に視線を向ける。
「でも、僕は流れ星ほど厳しくないから」
視線を感じた星宮が、星から目を逸らして流川を見る。
二人の視線が合う。顔の赤さも、少しだけ手を震わせているのも、心に秘めている想いも、全てが同じだった。
「朱莉の願いは、僕が叶えるよ」
その目を見据えながら、告白への返事をして――一瞬、流川が視線を泳がせた。まるで今自分が言い放った言葉に足りない何かを探すかのように、思考に波濤を起こしながら視線を惑わせ、そしてようやく見つけ出す。
「僕も……朱莉のことが、大好きだから」
足りなかったのは想いの言葉。相手の想いを受けるだけではなく、自分の胸に抱える気持ちを言語化して、想いを通じ合わせる通過儀礼だ。
好きと言われて嬉しかったなら、好きを伝えなければならない。たったそれだけのことで、こんなにも気持ちが満たされていく。
「……」
生まれて初めて愛を伝えられた星宮は、もう冷静さを取り戻すことなんてできなくて。
嬉しい気持ちや恥ずかしい気持ち、なんだか泣きたくなるような気持ちが全て混ぜ合わさった混沌の心に揺さぶられ、どうしたらいいか分からなくなっている。
……それでも、平静を欠いた心でも、伝えなければならない言葉があった。
「……私、これからたくさん勉強する。運動だって可能な限り頑張ってみる」
「いい心がけだけど、あんまり無理しないでよ。病み上がりなんだから」
「ううん、頑張らなくちゃいけないの。本気でみんなに追いつかなくちゃいけないから」
脳裏に過るはハルとの会話。
もしも体が治ったら、流川に相応しい人になるために本気で努力をするという決意。
今までは機会すら与えられていなかったが、これからは幾らでも頑張ることができる。夢を目指して、普通の人になることができる。
許されないと思っていた恋を、夢見ることができる。
「……それでね、いつか自分のことを許せるくらい普通の人になれたら……その時に、夢を叶えて欲しいの」
「………………」
直接的に話したことは無かったが、流川にも彼女の心が少しだけ分かっていた。同年代に比べている己を許せなくて、何をやるにも及び腰になって、普通の人になりたいという心情を理解していた。
だからこそ、彼は優しく笑う。
恋が成就することが一つの夢ならば、それは彼女のもう一つの夢なのだから。
「……待つのは、いや?」
「嫌なわけないよ、待つのは嫌いじゃないからね」
一度は離れた手を再び繋いで。
彼らは今夜限りの星空を見上げて、言葉なく、互いの心を重ね合わせた。
「ずっと、待ってるからね」
……一つの夢が叶った先には、まだ道が続いていた。
夢は到達点ではなく中間地点でしかなくて、新しい夢がいくつも繋がり、果て無き道を作っている。
それは、更なる幸せを手にすることができる証明だ。夢の成就が幸せの最高到達点ではなく、もっとたくさんの夢を叶えて幸せになることができる。
例えばそんな世界なら、人は幸せになるために生まれてきたと断じてもいいだろう。
少なくとも今、断言できることはたった一つ。
これからの彼らが生きる世界は、幸せの結末へと繋がっていく――。
闇夜の中、一台の車がひと気のない高速道路を往く。
遥か遠くの繁華街は未だに光に溢れているが、少し離れてしまえば世界は闇に染まる。2人のために拵えた流星群も既に掻き消え、空にはみすぼらしい月と星がぽつぽつと点在するばかりだ。
車を運転する諜報員は、使い古した電子タバコを静かに吸いながら、一瞬だけバックミラーに視線を向ける。
ミラーに映っていたのは、後部座席で眠りこけるクロとハルの姿だった。いつの間にか眠ってしまった二人は互いに寄り添い、どんな夢を見ているのか、満足気な表情で夢の世界へと落ちていた。
二人が眠ってしまうのもやむを得ないと言えるだろう。イシャクを追い詰め、緊張しながら手術を見守って、後始末のために記憶の改竄などの裏方処理をして、夜空に一大の流星群を描いていたのだ。全てをやり遂げた今、疲労困憊になってもおかしくはない。
「……………………」
しかし、そんな二人を見て、諜報員は苦々しい表情をするばかりだった。
……イシャクがのたまっていたように、二人は兵器として運用されている存在だ。人間と呼ばれることも無いし、戦場で戦うことだけが存在意義の化物でしかない。
こうして人間らしく生きて、知り合いのために戦うなんて、想定された運用ではないのだ。
……いや、もっと言えば、こうして二人が仲良くしていることが間違いでしかない。
クロの祖国のシロガラ国と、ハルの祖国のメース国は、魔法界で三千年もの戦争を続けている。彼ら二人だって魔法界にいた時は、何度だって戦場で殺し合いをしてきた間柄だ。
止むを得ない理由でこちらの世界へ来ることになって、帰還までの一時的な間だけ日常生活を送っているが……本当は、仲良くなってはいけない二人なのだ。
「………………戦争の為にこんなガキを運用するなんて、イカレてますな」
誰に向けた言葉ではなく、独り言に近い唾棄を零して、諜報員はハンドルを強く握った。
誰もいない高速道路は、ヘッドライトに照らされているものの濃い闇に包まれている。
まるで、後部座席で眠りこけるクロたちの行く末のよう。
どこまでも深い闇の中を、目の前だけしか見えず、不安定な中進んでいくしかない。
「……やはり、滅びるに相応しい世界でありますな……」
いつか、もうすぐ、戦場へ帰った時。……彼ら二人は、再び殺し合わなくてはならない。
だからこれは、ほんの短いラストラリー。死を間際に迎えた二人が、最後の贈り物を手に入れているだけに過ぎない。
……しかし、二人が幸せな結末を迎える可能性が一つだけある。
まだ誰も気づいていないが、全てはあの時、5ヵ月前の9月に起きた大事件に答えが記されていた。
今は懐かしき、世界が静止するあの日のことを。
夢の中で、クロたちは思い出していた……。
恋する二人は許されないシーズン0 ~婚星に願いを~ 終わり
次回 恋する二人は許されないシーズン1 は本日より毎日投稿です
ここまでお読みいただきありがとうございます。よろしければ星1つでも評価を頂けますと励みになります。よろしくお願いします。




