5章 ようこそ新たなる世界へ
「クロ! なんで今日に限ってマスクしてるの?」
「あのな、自分が昨日やらかした内容をおさらいしてみろ。お前のせいで指に歯磨き粉付けて磨いたんだぞ。そりゃ念のためマスクで口を隠すってもんだろ、謹んで深謝してくれ」
「あー、今のクロはおくちがこの世の終わりなのね。それじゃ道すがらに呼吸停止した人がいてもマウストゥマウストゥマウスできないわね」
「なんで三つ巴なんだよ」
翌日、小鳥もさえずる登校路。俺とハルはいつものように学校へ向かっていた。ちなみに歯ブラシについては先ほど道中でどっさり買ったので、学校につくなり校舎裏の部活動専用水飲み場で心の赴くままに磨きまくろうと思う。
昨日は一緒に夜更かしして水族館の情報を集めていたせいで寝不足気味だが、デートを取り付けたという事実がそれを上回るくらい元気を漲らせてくれていた。ハルも水族館に行けるという喜びで肌ツヤがよくなっている。
「まあそんな些末なミスに囚われていないで、ほら見てクロ、小鳥さんが小癪にも囀ってるわ。いい朝ね」
ご機嫌なせいでなんだか王女みたいなことをのたまうハル。ほんのちょっぴり口が悪いのはやはり俺の影響なのではないかと悩んでしまう。
「なにが些末なミスだよ、始末書を書け。というか小鳥なんて数匹で、ほとんどカラスばっかりじゃ……」
見上げた空には名前も良く分からない小鳥と、黒き翼を雄々しく広げるカラスと、高笑いしながら空を飛び回るアイがいた。
…………。
「ほら見てクロ、幻覚が見えるわ。いい朝ね」
「寝不足ってすげえなあ。帰って寝ようぜ」
一瞬だけ現実逃避してしまった俺たちだが、ニコリと笑顔を交わした後、ようやく事態に気づいて大声を上げる。
「アイ!!!!!!!!! お前! なにしてん!?」
驚きのあまり訛ってしまったが、お空のアイにはちゃんと通じたらしく、遠くでお元気いっぱいに手を振り、とどめとばかりに投げキッスをくださった。別にファンサが欲しいわけじゃない。
そして彼女は高度を下げ、俺たちの前にふわりと舞い降りた。
「やっほ! クロくんにハルちゃん! もしかしてあたしの姿が見えるの?」
翼でも生えているのならば突然変異を疑うが、彼女の体には何の変化も生じておらず、しかもその片手には魔法の杖を握っている。
疑いようもなく、魔法だ。
「お、お前、なん、なんで、なんなん」
「おかしいなー。不可視の魔法とやらをかけてるから、普通の人には見えないはずなんだけど……」
「とりあえずの説明を! 求める!」
何から問いただしたらいいか分からなくなった俺は、とてつもなく抽象的な言葉で説明を促した。
アイは側頭部をかしかしと掻き、どこから話したもんかというような表情を浮かべ、とりあえず俺たちに杖を付きつける。
「魔法に目覚めたのだ! 魔女アイだよ!」
「……魔女アイって語呂悪いわね」
ハルも相当動揺しているのか、ピントのズレた指摘しかできていない。
俺はハリケーンのような溜息を吐き、一度肺の中の空気をゼロにして、改めて自分に落ち着くよう言い聞かせる。
冷静になれ。こんな事態、敵国の王女と同居することになった当時の衝撃に比べたら普通だろう。同級生が魔法使いに変化することくらい、全然よくある……まあ、うん……よくある……かなぁ……?
とにかく、まずは魔法使いになった経緯を聞き出すか……。
「えーと、その……なんで魔法が使えるようになっちゃったんだ?」
「デースマースって人の仕業! えーと、これこれ。あげるよ、なんか持ってると運気落ちそうだし」
アイが鞄から取り出したのは一枚の名刺だった。非常にサイケデリックかつトリップ&アシッドな色合いで網膜が拒否しているが、そこには確かにデースマース・љ・ディアールという名前が綴られている。
しかし……љとは一体何なのだろう。王族は名前の真ん中にアルファベットを一文字入れるものだが、こんなよく分からない文字を入れている国など聞いたことがない。
「その……デースマースとやらは、一体どうやってアイを……」
「あれ? デースマースさんは『魔法のことを知ってる人にしか見えなくなる魔法だよ』って不可視の魔法を教えてくれたんだけど、クロくんたちに見つかっちゃったのって変だよねえ。もしかして二人とも、魔法のこと知ってたの?」
「えっ」
クリティカルなことを聞こうと思った瞬間、向こうからクリティカルなことを聞かれてしまう。アイは右手で頭を押さえながら、疑問符をボディランゲージするように、かくんと横に倒す。
俺たちは一般学生として溶け込まなくてはいけない立場で、間違っても魔法使いであることを知られてはいけない。この1秒にも満たない間で、己が魔法使いであることを隠した上で、魔法のことを知っている正当な理由を用意しなければならないのだ。
完璧な答えとしては、おそらく――。
「多分、『アイと同じ』だな」
しどろもどろになりそうだった内心を必死に落ち着かせ、できるだけ平静な口調でそう答える。
「えっ、二人もデースマースさんに会って魔法使いにされたの?」
「んー、私たちが会ったのはデースマースという人じゃなくて、マッサークルとかいう人だったわ。魔法使いにされそうになったけど、なんとか逃げたの。だから私たちはフツーの人間」
いい感じの名前が思いつかなかったからって人の親父の名前を使わないでほしい。
しかしナイスだハル、ちゃんと意図を汲み取ってくれたようで助かった。同じような立場だと知れば、アイは同胞を見つけたと思って口を滑らせるかもしれないし、自分たちが魔法使いではないということも説明できた。これ以上の回答はないだろう。
「そっかー。二人は魔法使いじゃないんだね」
「そうそう、ただ魔法の存在を知ってるだけの人間だよ。多分俺たちみたいに魔法を知ってる存在はレアだと思うぞ。魔法使いなんてもっとレアだ」
「うーん、そうなのかな」
ふよふよと低空浮遊をしながら首を傾げるアイに対して、「そうだよ」と魔法使いが周囲にいっぱいいるわけないだろ感を出しつつ念押しすると、隣のハルが嘘を吐く緊張のせいか水飲み鳥のように全身を使って大きく首肯した。バレるかもしれないからあんまり不自然な動きはしないでほしい。
と、その時。
「あーっ! アイ、お前、浮いてんじゃん!」
……なんていう、気の抜けた声が響き渡った。
声をかけられると思っていなかった俺たちは、驚きで一度肩を揺らしてから、その声の主の姿を確かめる。しかし、アイのことをお前と気安く呼ぶ者など限られているわけで――。
「あ、いや、浮いてるって言っても環境的なアレじゃなくて、物理的にだからな! 悪い意味のほうだと俺の方が浮いてるからな! ん? なんで浮いてんだお前!?」
鳳輔だった。
幼馴染が浮遊している現実を受け入れられないのか、何度も目元を擦ったり、頬をつねったり、俺たちに助けを求めるような視線を向けてきている。
「えっ、鳳輔、あたしの姿が見えるの?」
「えっ、なにそのセリフ、お前幽霊なの?」
恐らく何かを著しく勘違いしている鳳輔だが、確かにアイが疑問に思うのも無理はない。
今の彼女を見ることができるのは、魔法の存在を知る者のみ。鳳輔も諜報員によって記憶を操作されたので、魔法に関しての記憶は一切持っていないはずだ。
「鳳輔。あたし、魔法使いになっちゃった!」
「えっ、マジで? お前も……いや、お前が……?」
「うん、なっちゃいました! どーだ、昨日よりもよっぽど輝いて見えるだろー。ブランニュー朝霞愛美としてひとつヨロシク!」
……今、鳳輔、変なこと言わなかったか?
お前も……って、まるで魔法使いがアイ一人ではないみたいな言葉だ。
しかしすぐに引っ込めた以上、口が滑ったとみるべきだろう。今の言葉を追究しても、言い間違いとか聞き間違いとかで誤魔化してくるに違いない。
また何か変な魔法グループと関わりを持っているんじゃないだろうな。疑わしいのは品性だけにしてほしい。
「で、鳳輔はどうして魔法について知ってたの?」
曇りなき眼でアイが尋ねると、鳳輔は言い訳を考えるかのように視線を右上に向けて、なんとも言えない表情で言う。
「多分、アイと同じだな」
「えっ、鳳輔もデースマースさんに会って魔法使いにされたの?」
「んー、俺が会ったのはデースマースという人じゃなくて、田中とかいう人だったな。魔法使いにされそうになったけど、なんとか逃げたんだ。だから俺はフツーの人間」
鳳輔もあからさまに嘘をついているようで、俺たちと同じような言い訳で事なきを得ようとしていた。偽名が思いつかなかったからって普遍的な苗字を用いるのはいかがなものか。
「へー、みんな魔法使いに誘われてたんだねえ。そういうグループでもあるのかな、人間を魔法使いにしようの会みたいな」
「いやあ、どうなんだろうなあ。ははは」
嘘と誤魔化しに塗れた3人が渇いた笑いをセッションすると、アイも楽しそうに笑う。
一見すると楽しそうに談笑している4人だが、それぞれ腹の底には拭いきれない違和感がこびりついているのだろう。尤も、アイは何も考えていないかもしれないが。
「さて! あたしたち全員が魔法について知ってるなら話が早いね。早速魔法で遊ぼう!」
そんなことを言いながらアイが杖を掲げると、その切っ先から幾何学模様の光が広がり、俺たちの体を包み込む。覆われた感触としては、文献で言うところの運動会の障害物競走で使うネットを頭から掛けられたような感じだ。
その魔法の正体は、自分でも何度か使用したことがあるから知っている。他人に姿を見せなくするための不可視の魔法だ。
「さ、大空に案内するよ! 楽しいよ、魔法の世界!」
「え?」
いやちょっと待って、と言う暇もなく、俺たちの体が軽やかに浮かび上がる。
最初は腕一本分くらいしか浮かなかったが、やがてぐんぐんと高度を上げていき、学校よりも高く――やがて、ヘリコプターと同じくらいの高さまで昇っていった。
見下ろす世界はまるでミニチュアの模型みたいで、行き交う人々が人間とも思えなくなる。以前も無人界の空を舞ったことはあるのだが、世界が静止していたり魔力を失って落下していたりとロクな場面ではなかったので、まじまじと平和な世界を見下ろすのは初めてだった。
思ったより、世界は美しい。
「あはっ、あははははッ! この全能感、自由感! これがッ、魔法の世界!」
アイは赤褐色の髪をたなびかせながら、自由を謳歌するかのように朝空を飛び回っている。
地を這う陸上生物として産まれたからには、一度くらい鳥のように空を飛ぶことを夢想するものなのだろう。俺もハルも幼き頃から当たり前のように飛んでいたので知らなかったが、今まで魔法を使えず生きてきたアイと鳳輔には刺激的な出来事のようだ。
太陽を目指しているかのような急上昇をし、体を翻して地面に向かって急降下。地球の体表へと直撃しかけた瞬間に身を捩り、ほぼ直角に近い方向転換をしてから地を這うように猛スピードで飛び去って行く。
上昇も降下も旋回も、全てが彼女の思うが儘。街道に出て車と並走して、高速道路のド真ん中を飛び抜ける。鳥を見つければその周囲に纏わりつき、飽きれば速度を争った。
そんな俺たちの姿を、誰も気に留めようとはしていない。見えないのだからそもそも気に留めることすらできないのだ。
鳥になったような爽快感と、透明人間になったような解放感。
幼き日に魔法を夢見た子供たちにとって、それは夢のような時間であった。
「おーい、アイ! 悪いんだけど、俺の高度だけ少し下げてくれねえか? もうちょい角度を変えればお前とハルちゃんのパンツが見えそうなんだこれが」
前方にいる鳳輔が呑気なことを言って、アイに杖でしばかれている。だいぶ滑空にも順応してきているようだ。
そんな二人を眺めながら、隣のハルに声を潜めて話しかける。
「なあハル、初心者に浮遊魔法かけられるのって怖いな。免許取りたてドライバーの自動車に同乗してる気分だ」
「生殺与奪を握られてるのは無人界でも変わらずおっかないわね。……それよりクロ、こちらの世界の人を魔法使いに変える輩が現れたって知ったら、魔法界は相当混乱するわよ」
「……だな。つい1ヵ月前に亡命者の存在が明らかになったばかりなのに、立て続けにこんなことが起こるのはヤバいよな」
「『無人界は一騎打ちで滅びても問題ないくらい取るに足らない世界』……って魔法界は認識しているようだけど、実際のところは問題だらけの世界なのかもね。色々な犯罪が秘密裏に行われてるアンダーグラウンドなのかも」
……そうだ、よく考えれば……どうして魔法界は、無人界を軽んじているのだろう?
魔法が無くともこんなに発展していて、立派に人間の繁栄を支えられる星だというのに、なぜ魔法界は『滅びてもいい世界』なんて認識を持っているんだ?
こちらの世界に魔法という大きな要素が無いにしても、色々見本となるべき一面はあるはずだし、なんなら貿易をしてもいいくらいだというのに。
誰かが……無人界と魔法界の間に立って、何かをしているのだろうか?
魔法界の関心が無人界に向かないようにして、こちらの世界で何かを進めているとでもいうのか……?
「それと、見た? アイの持ってる杖の刻印」
「ああ。……円状のマークが彫られていたな。委員長一家が持っていた杖と出所が同じってわけだ」
謎の刻印が彫られた杖の存在。それも、その報告を昨日受けたばかりと来た。
この奇妙な連続性は、果たして偶然なのだろうか。それとも何者かによる意図が絡みついているのだろうか……。
「とにかく、あとで祖国と諜報員に報告だな。……また色々なところがザワつくぞ、こりゃ」
「ん……うん」
何を考えているのか、ハルはせっかく空に浮いているというのに浮かない顔をしていた。
どうした? と言う代わりに彼女の顔を覗き込むと、言うかどうかを悩みつつ、ハルは小さな声でもにょもにょと言う。
「えっと、その、さっきクロが渡された名刺を見て思ったんだけどさ……もしも、もしもさ、こちら側の人間を魔法使いに変える連中が……」
「……?」
「……ん、ごめん、やっぱいい。もう少し考え抜いてからしゃべる」
「おう……」
魔法の存在しない世界に現れる魔法使い。
それは……今はまだ表面化していないものの、やがては大きな問題を引き起こすだろう。
魔法という大規模な凶器を、個人レベルで所有することがどれだけ危険なことか。
丸腰の人間が溢れるこの世界で、常にマシンガンを携帯しながら闊歩しているようなものなのだ。
もしもこのまま魔法使いの数が増えていったならば、そして彼らが徒党を組んで何かを企もうとしたならば。
国家転覆くらいは、きっと容易にできるはずだ。
今はまだ、魔法という新しい力を玩具にする段階。思う存分楽しんで、酔いしれる。
しかし忘れてはならない。
その力は、かつて世界の時を止め、アイの夢を壊そうとしたものなのだ。
彼女がその記憶を思い出すまで、あと数日。
そして、
この中の誰かが、血の海に沈むまで、あと――。




