4章 異変を望む者
クロとハルが水族館に心躍らせているのと同刻、アイの姿は薄暗い路地にあった。
断続的に点灯と消灯を繰り返す街灯が行く道を照らし、キジバトの鳴き声が闇の奥底から響き渡る。夜の22時ともなれば人通りも少なくなり、まるでこの世界には自分一人しかいないかのような感覚を得てしまう。その度にアイは連なる住宅の部屋明かりを見て、今この瞬間も誰かが生活していることを確認していた。
アイは年季の入ったマイバックを一つ手に持って、小走りでどこかに向かって進んでいく。
なぜこんな時間に買い物をしているのかと聞かれれば、「風呂に入った母親がシャンプー切れに気づき、買ってくるよう頼んだ」と答えるだろう。
なぜこんな薄暗い近道を進んでいるのかと聞かれれば、「仕事帰りで機嫌の悪い母親が長時間風呂から出られないと、後ほど八つ当たりをくらうから」と答えるだろう。
なぜそれでもご機嫌なのかと聞かれれば、「今日、鳳輔と大事な約束をしたから」と答えるだろう。
今日は10月の中盤、何の変哲もない平日だ。しかし何度か日めくりカレンダーをめくれば、彼女にとっては喜びの佳日となる。
『なあアイ、お前さ、もうすぐ誕生日だろ。その日って休みだけど、予定とか、あのあれ、なんかあったりするのか?』
その質問は、人生で何回目になるのだろう。この時期を迎えるたびに、鳳輔はアイにそう問いてきた。
そう、10月23日はアイの誕生日。毎年幼馴染と誕生を祝う、彼女にとっては切望の日だ。
今年も一緒に誕生日を過ごせる。それだけで彼女はご機嫌なのだ。
『あー……あとな、今年はいつもとちょっと趣向が違うから。いわゆるあの、お出かけじゃなくて、でで、デートというやつだから。違いはよく分からないけど』
しかも彼自身がハッキリとデートだと断定した。生まれて初めてのデートに内心は盛り上がりまくり、紙吹雪と共に祝福のラッパを鳴らしてしまう。
だから、彼女はどんな状況でも上機嫌なのだ。
……諜報員の記憶操作によって、委員長の計画を忘却してしまった彼女には、今年の誕生日がどれだけ貴重なものか理解できていないのだろう。
クロとハルがいなければ来るはずの無かった16歳の誕生日。彼女は例年通りそれを享受し、また一つ大人になっていく――。
「え…………?」
その時、アイの足が止まる。
薄暗い路地を歩いていると……急に、目の前に人が現れたのだ。
本当に急だった。暗くて姿が見えなかったとか、そういう視覚の難に関わる話ではなく……まるでテレポートしたかのように、突然そいつは姿を現した。
「お初にお目にかかる! 初めましてであるよお嬢様、我は高貴なる伝道者、デースマース・љ・ディアールと云う者。どうぞよしなに」
「………………」
身長は首が痛くなるほど高く、目算だが40歳を少し超えたような風貌。まるで創作物に出てくるドラキュラのように大仰なマントを着込み、夜の闇に溶け込むダークスーツで全身を覆う。その顔は至って軽薄そうで、人生に関わる悩みなんて一つもなさそうなくらい晴れやかな表情だった。
この人物のことは何一つ分からないが、ある一点だけは確信が持てる。
絶対に関わってはいけないヤバい人物だ。
「あ、あの、あたし急いでるんで……」
「ああ! そんなに生き急ぐことはないであるよ。若者は若者らしく牛歩の如き人生を歩むがよろし。のんべんたらりでスローな人生を選択できるのは若者と老人の特権、君も数年経てばあくせくと脇目もふらない人生が待っているのであろう!」
「……え、ええと」
ああ、この人はアレか。話が通じない系のヤバい人か。
……と、まともに取り合っても暖簾に腕押しだと悟ったアイは、踵を返して今来た道を駆け戻っていく。それこそデースマースが言った如く、脇目もふらないくらいに――。
「……!?」
しかし2メートルほど走ったところで、アイは『空中にぶつかった』。
日本語として変なのは誰だって理解できるだろうが、彼女にはそう表現するしかなかったのだ。壁とゼリーの丁度中間くらいの弾力を持った何かに、彼女の身体はあっけなく跳ね返される。
まるでそう、魔法で見えない壁を作られたように。
「ああ! 恐れるのもむべなるかな、それくらいの警戒心がなければ人生を生きてはいけないでしょうなあ。しかしお嬢様、どうかこのデースマースの話を聞いてくれであるよ。聞きやがれ、と言っても良い。聞けよクソガキ、とも言えましょうか」
「だっ、誰か! 誰か助けてッ!」
「あー、ここ一帯はまさに今ぶつかった壁に囲まれていましてなぁ。この壁は防音防震防寒で安心設定でございます故。つまるところ助けを求めても誰にも気づかれないということであるよ。ご愁傷!」
「……っ!」
コツコツと靴音を立てながら、デースマースがアイに近づいていく。月明かりが逆光となって彼の表情が見えず、それがより一層アイの恐怖心を膨らませていた。
「ところでお嬢様、魔法という概念をご存じであるかな?」
「ま、ほう……?」
魔法なんてものは今どき子供でも知っている。
誰しもが一度は憧れて、誰しもがファンタジーの産物だと理解している、なんとも儚い概念だ。共通認識は『あったら便利そうなのに』とでも言うべきか、夢見る少年少女の妄想のお供にはお役立ち――。
「魔法は存在する、で、あ~る! どれ、ご覧あれ!」
デースマースが両手を広げると、大空いっぱいに真っ赤なバラと白いハトが現れる。床を駆け巡るくるぶしサイズの音楽隊と、踊り狂う等身大のピンクウサギ、真紅のティーポットからはリゼ・ティーが無に向かって注ぎ込まれていく。
こんな光景、熱を出した時の夢くらいでしかありえない。そんな現実が目の前にある、到底信じられないような白昼夢がまさに眼前で繰り広げられていく。
踊る動物、歌う小人。コンクリートの地面に咲き誇るラベンダーに、空から降り注ぐ色とりどりのマシュマロ。笑う向日葵、泳ぐキリギリス、世界はまるでアブナイお薬でも入れたかのよう……。
「どうであるか! これが魔法、素晴らしき原初なる力! もし歓喜の失禁を堪えきれないならご自由に!」
「……あなた、魔法使い……なんですか?」
「イエス、アイア~~~~ム! 我こそが多幸なる魔法使い、デースマース・љ・ディアール! あ、名刺あげる。私、こういう者でございます。今後とも何卒宜しくお願い致します」
「え、あ、頂戴します……」
渡されたサイケデリック色の名刺には、会社名も電話番号も何もなく、ただデースマースの名前が仰々しい行書体で書かれていた。
「時にお嬢様! いい年こいて魔法に憧れるいたいけな夢を抱いていたりはしないでしょうか。魔法で空を飛びたい! 魔法であの人を振り向かせたい! 魔法でスケスケになっていやらしいものを覗きたい! 我々はそのような浅ましい欲望を叶えて差し上げるのが生業でございまして。一言でいえば、魔法使いへの転職……いや、ジョブ・チェンジをさせていただく者であるよ」
「えっ……」
ただの人間を魔法使いにする、という夢にも見たことが無いようなことを言われ、アイは驚愕を露わにする。
もしも魔法使いになれたなら……なんて、よちよちの子供だった時代はよく考えたものだ。いつの日か現実を知って幼稚な夢を捨て去ったけれども、ああ、目の前に広がるのはその幼稚な夢の再演ではないか。こんなもの、夢にまで見た世界ではないか!
……諜報員の魔法によってアイの記憶が操作されていなければ、彼女が魔法に対して目を輝かせることも無かっただろう。本来の彼女にとって魔法とは、委員長が計画した『時を止める凶器』そのものなのだ。
魔法についての記憶を改竄されてしまったから、彼女はこの光景から目が離せなくなる……。
「あ、あたしも、魔法使いになれるんですか……?」
いけないと分かっている。
こんな夜道に現れたアブナイ男に、関心を寄せてはいけない。見えない壁を作って逃げられないようにしてくる相手など、猛烈に拒絶しなくてはならない相手だ。
それでも、このアミューズメントパークのような光景に、心を掴まれてしまう。
そしてもう一つ、先ほどデースマースが言い放った言葉だ。
『魔法であの人を振り向かせたい』
それは……何年も幼馴染という関係性から脱却できなかったアイにとって、垂涎の言葉。
自分の罪を悔いているせいで、恋愛沙汰に消極的になってしまった幼馴染を振り向かせられる魔法のような……いや、まさに魔法。
……そう、彼女自身も気づいていない。
どれだけ恋の矢印を向けても、相手の自責で無為になるそのストレスに。
そのストレスはもう、限界に達しているということに。
ようやくデートという一歩前進の約束を取り付けても、その溜まりに溜まった欲望の煮凝りは、彼女の心を圧迫し続けているのだ。
「なれるとも! さあ我の手を取って、新たなる世界へいざ行かん! 世界はバラ色に輝いているのであるよ!」
デースマースが手を差し出し、さあ握れとでも言うように上下に振ってみせている。
その手を掴めば、これまでの日常は一変するだろう。
「……」
怪しさは十分にある。この男を信じる理由など無い。
でも、この人の目を見ていると、なんだか頭がぼーっとして……あれ……なんで、あたし……この人を怪しいと思ってたんだろう……こんなにいい人そうなのに、善意で声をかけてくれているのに……手を握らないほうが失礼だよね、そうだよね……。
アイはゆっくりと手を差し出し、デースマースの手を優しく握る。
その瞬間、デースマースの顔が妖しい笑顔へと変貌したが、とろんとしたアイの目にはそんなもの見えていない。今の彼女に見えているのは、極彩色に包まれたお花畑の白昼夢。
ふわりと二人の身体が浮き上がり、高く高く、住宅街より、大型スーパーより、摩天楼より、もっともっと高い場所へと上がっていく。
もうすぐ満月になろうとしている月を背にして、二人は向かい合う。
「さあ、お嬢様。これを手にするであるよ」
デースマースが懐から差し出したのは、まだ作られて間も無さそうな新品の杖だ。彼が腰に差している大型の杖とは違って、なんだか妙な刻印が彫られている。
ゼロというべきか、オーと言うべきか、とにかく円状の何かが刻まれていた。
「さあ、お嬢様! 新たなる世界へ貴方をご招待しましょう! ここからは楽しい楽しい魔法の世界であるよ! お覚悟はよろしいか?」
「…………………………」
ふわふわと視線をさまよわせるアイが、半ば無意識的に首をカクンと前に倒す。肯定の意はあるのだろうが、彼女自身の物心で判断しているとは言い難いだろう。
その蠱惑的な魔法は、1ヵ月前にこの世界でも使用されていた。
委員長がハルに使った、欲望を増大化させる魔法だ。あの時ハルは『この世界にいたい』という感情を増大化されて、あのような凶行に走ってしまった。
そして今、アイは『魔法を使ってみたい』といういたいけな子供心を増大化されて、それ以外のことを考えられなくなっている。
もう、彼女は逃げられない……。
「ではッ! 行ってらっしゃいませッ! このお代はいつか必ず回収するであるよ! あーッはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはッ!」
そして彼の杖から、ドス黒い光が拡散されていき、その光がアイの身体を包み込んで――。
誰にも聞こえることの無い絶叫が、夜の帳を揺らした。




