3章 相変わらずのバカ二人
「クロ! 掃除用のと間違えてクロの歯ブラシで排水溝を磨いちゃったんだけど、王女らしからぬ本気の土下座で謝罪するから是非ゆるして! もしくは無償でゆるして!」
「すげえ交渉術」
どう足掻いても許されようという気概のセリフを吐いているのは、同居人であり俺の好きな人でもあるハルだった。
時刻は夜22時、そろそろ食後のまったりモードも解除して寝る準備を進めなければという時間帯に、今日も今日とてハルは大ポカをやらかしやがる。
……まあ、自発的に排水溝を磨こうとしたことだけは褒めてあげてもいい。こいつが家事をやりたがるのは、俺に楽をしてもらいたいからという気持ちが根本にあるのだから。
「いいよ、俺は和を以て貴しと為すからそのくらい許す。ちゃんと新しい歯ブラシ出しといてくれよな」
「新しい歯ブラシないの、ストックがキレてたわ。あとクロもこれからキレる気がするわ」
「よく分かったな。ちなみにどんな惨たらしい体罰が襲い掛かってくるかも予測できるか?」
「んー……頭なでなでしていい子だね~っていう罰を与えてくる気が痛い痛いいたたたたた」
赤ちゃんに飲ませるミルクくらい温い体罰を要求してきやがったハルをソファーに引き倒し、先ほどテレビで知ったばかりの足ツボマッサージをくらわせてやる。
「ここは裏内庭って言ってな、速攻でゲリが止まっちゃうすごいツボなんだぞ。嬉しいね」
「いたたたゲリじゃない時にゲリに効くツボを押されるとなんかおっかないから痛い痛いいたたゆるしてゆるして、なんでもするからゆるして」
「えっ、マジ?」
思わぬ甘言が飛んできて、ハルの足をパッと放してしまう。
「はー、はーっ……。クロのばか、田舎のおふくろさん泣いてるぞ!」
なぜ立てこもり犯に使うべき精神攻撃をくらっているのかは分からないが、それよりハルの放ったあの一言だ。なんでもしてくれるだと、好きな人に言われてこれほど心が躍る一言も無いだろう。
「ハル、なんでもするんだよな? もちろん女に二言はないよな」
「二言がダメなら三言ならいいのかしら」
「いんちきとんちで逃れようとするな。今夜の歯磨きをオシャカにしたんだから罰くらい甘んじて受け入れてくれ」
「え、今のが罰じゃないの? じゃあ今の激痛は何?」
「足ツボはリフレクソロジーと呼ばれる健康回復を狙った医療類似行為にあたってな、世間一般的には攻撃に該当しないのであしからず。ちなみにツボを押されて痛むのは血行不良や筋肉疲労など本人の抱えた病巣に左右されることが多いので、痛みを施術者のせいにされると全国津々浦々のマッサージ師から反発の声が上がり、より一層メース国の支持率が落ちるとされ……」
「あーあーうるさいうるさい、情報量の波で小賢しく煙に撒こうとしないの。もーいいから要求を一つおっしゃいなさいな」
「来週の土曜日に水族館行くぞ」
ぴた、とハルの動きが止まる。古墳から出土する形象埴輪のように目と口を真ん丸にし、脳の稼働が一時停止しているのか、ちょっとマヌケな顔のまま俺を見つめてきていた。
そんな状態が1分ほど続き、これ心臓止まってないか?と俺が救急車の呼び出しを検討し始めた頃、ハルが小刻みに振動しながら「す、すすす、すすすすす」と穴の開いた障子のような音を口から出しはじめて、
「 水 族 館 ! ? 」
ご近所トラブルに発展しかねない声量でお叫びくださった。
「え今水族館ってゆった水族館ってゆった!? 言ったよねクロ聞いたよね私おめでとう私! 水族館行くんだよね水族館行くよね水族館来るよね! お茶とか用意したほうがいいかな!?」
「水族館は来ねえ」
「とにかく水族館行くんだよね!!! わーい!!!」
「ひえっ」
両手を広げながらハルが突進してきたので、思わず身を捩って避けてしまい、勢いのままハルが壁に激突した。
「……今、避けたな?」
「いや、あの……コリジョンルールがあるから……」
お前のことを好きになった今、抱き着かれるとこっぱずかしいんだよ!と言いたいのをぐっと堪え、興奮状態のハルを座らせて、お互い正座で真正面から向かい合う。
「ほらこの前、あのダンスパーティーの時、一緒に水族館とか色々行こうって言ったろ?」
「ああ。向こうの世界に戻ったとしてもずっとお前と一緒にいたいよ、ってクロが言ったダンスパーティーの時の」
「おま、お前あのやめてくんない。テンション上がっちゃったときの発言ほじくり返すのあんまりやめてくんない」
「いひひ、ちゅきちゅき」
何故か今日一番のフレッシュネスな笑顔を浮かべながらピースをしてくるハルと目が合わせられない。あとふざけてちゅきちゅき言うの普通にちょっと嬉しいからやめてくれます?
「で! この1ヵ月間、チケット代を捻出するために節約に節約を重ねたのだ。その成果が実り、今ここに一万円の浮きがあるのだ」
俺が携帯アプリの家計簿を見せつけると、家計簿の見方が分からないであろうハルが首を傾げながら拍手した。
「というわけで来週の土曜は朝から水族館な。体調崩すなよ」
「うん! 今週はおなかしまって寝るね! 代わりにクロがおなか出して寝てね!」
「どちらかが犠牲にならなきゃいけないのか?」
喜びのあまり若干幼児退行しているハルは、少数民族の雨乞いのような万歳を繰り返し、やがて疲れたのか携帯で水族館の見どころについて調べ始めた。
俺も一緒に携帯の画面を見て、ハルと水族館の予習をする。
「見てクロ、マンボウ! マンボウいるって! マンボウ!!」
「マンボウがお前の何を刺激しているんだよ、怖くなるくらいはしゃぐな。それより海獣類のページ見てみろ、海の中で遭遇したら失禁確定のケダモノたちが黒い目でこちらを見ているぞ。かわいいね」
「あー、私、海獣類ダメなのよね。なんか怖い、話が通じなさそう」
「普通のお魚相手なら話が通じると思っていらっしゃる……?」
寝る準備のこともすっかり忘れて、ハルと二人でうきうきと水族館のページを見漁っていく。
一つの画面を二人で見るには相当近づかなければならず、気づけば普通のクラスメートではありえないくらいの距離感になっているが、ハルは全く気にせず画面の中で出たり引っ込んだりしているクマノミに夢中になっていた。
今はこれでいいのだ。急にドギマギされたりオギオギされても対応に困るので、残りの時間が多いわけではないが、今はまだこの距離感でいい。
……ん? なんか以前も似たようなことを言って現状に甘んじていたような?
「みてみてクロ~、コブダイ~。すごい頭ね、時々男子のズボンがこんな感じになってるけどアレ何かしら?」
「溢れ出る男子のリビドーについての話はいいからコブダイの生態系について語ろうぜ。コブダイは性転換する魚でな、最初は全員メスだがサイズによってオスになるんだぞ。あと名前からしてタイっぽいけど別にタイの仲間じゃないんだ。これくらい豆知識を言えば話を逸らせたかな?」
「お、すごい雑学ね」
「俺、雑学だけは得意だからな」
「確かに雑だもんね」
「会話成立してなくね?」
こんなふうに、変わり映えの無い平穏が続いていく。
委員長の一件が無ければ今頃、俺たちは魔法界で戦火の最前線に君臨し、杖を交えて命の取り合いをしていただろう。こうしてバカ話に花を咲かせることができるのも、色々な因果の巡り合わせだ。
「それより! 見るのよクロ、シャチよシャチ! 名前がシャリみたいで微笑ましいわね」
「お前ちょっと腹減ってるだろ」
数ヵ月のロスタイムを、悔いの無いように楽しく生きていく。
それが今の俺が掲げる目標だった。




