27章 決戦
遥かなる天空の世界。静止した世界の中では雲一つ揺らがず、不気味なまでの静寂がどこまでも広がっていく。
「…………」
一騎打ちを申し込まれた俺は、その誘いに如何なる返事もできず――ハルの顔を見つめることしかできない。応じても拒んでも、俺たちの行く末は地獄でしかないのだから。
もう何も取り戻せないならば、ハルの思想に迎合して永遠の世界を謳歌するべきか? しかしそんな妥協の世界で、果たして幸せになれるのだろうか。
一番傍に居たかったハルはもう、俺のことを憶えちゃいないというのに……。
「決闘を申し込まれて尚、構えぬならば――」
彼女が杖を振るうのと同時に、その体と学園一帯に無色透明のバリアが張られた。
そして雲を突き抜けて、何かが浮上してくる。世界を揺らし、地鳴りの轟音を立てながら何かが浮かび上がってくる。
それは……富士山だった。彼女の膨大な魔力が山を根元から引っこ抜き、土塊を撒き散らしながら遥かな大天空へと浮上させている。
時の停止は、自発的な動作が不可能になる魔法。だから、外部から動かそうと思えば動かせるし、壊そうと思えば壊せる。
……敵を殺す為の道具にしようと思えば、可能になるのだ。
「――消え去れ!」
そして彼女は富士山をドリルのように高速回転させ、俺のほうへと打ち放つ。
「く……ッ」
咄嗟に障壁を発生させて防御した。
激しい点滅を繰り返しながらハルの攻撃を押し留めるが、その質量は委員長の放っていた火球とは天と地の差がある。
俺の障壁が突破される前に富士山を自壊させることはできたが、障壁には大きな亀裂が入り、もはや盾としては頼りない状態になっていた。
「頑丈だな。……だがその壁では無形物は防ぎきれまい」
彼女が腕を振るうと、俺たちの周囲を水が取り囲み始める。それは遥かなる海の雫、世界中に張り巡らされた海水だ。
彼女はその蒼き塊を空中へと浮上させ、この星に存在する海を奪い去った。それが空に昇り、天空に張り巡らされたその光景は、天と地が逆転したかのよう。
海を失った地球は、美しき星と呼べる代物ではなくて――ただただ緑と土色に塗れた、つまらない星でしかなくなる。
「やめろッ! このまま続ければ地球が本当に壊れちまう!」
「それが目的だって言ってんだろッ!」
そして十三億立方キロメートル以上の水が、障壁を纏った俺に襲い掛かる。
「ぐ……ッ!」
襲い来る水を防御することはできたが、先程発生した亀裂から水が侵入してきていた。
俺を取り囲む障壁内を、水が満たしていく。
……委員長が炎を顕現させたように、自ら物体を創造することは多くの魔力を消費する。
しかし現存している物体を動かすだけならば、威力に対し圧倒的にコストパフォーマンスが良い。……もちろん山一つや海半分を動かすことは我々のような化物でなければできないが。
これは敵陣に攻め込んだ時によく使う手だ。敵の住む国を兵器として利用すること、それは魔力の枯渇が重要視される戦場では特に有効な手段だった。
……その手段に対し、応手側は同じ行為で対抗することなどできない。自国を兵器とするなど、国を愛する者には取れない戦略なのだから。
だから、この世界を失いたくない俺も同様に、この世界を使って応戦することなどできない――できないのだが――このままでは水圧によって障壁が破られるか、亀裂から発生した水によって溺死するかの二択――!
「……バッカ野郎……!」
悩みに悩み……俺は杖を振るう。
先程彼女が引っこ抜いた富士山の跡地から、地下に存在するマントルを引っ張り上げる。そしてそれを融解させてマグマへと変換する。
生み出したマグマを海水へとかち当て、蒸発させていく。発生した水蒸気が世界を覆い、世界から酸素を奪い去った。俺は即座に無色透明のバリアを体に纏わせ、内側に酸素を発生させる。
やがてマグマも海水も消え去り、世界は水蒸気と海水から発生した塩分で彩られた。塩が光を浴びて世界を照らし、宝石のような光に塗れた世界が生み出される。
「視覚助勢!」
水蒸気によって塗り潰された視界を、魔法の力でクリアにする。そして酸素を失い音が届かなくなった世界で、僅かな音すら拾うようバリアに集音性を展開する。
――瞬間、轟音と共に接近してくる黒い影を発見した。
「くたばれッ!」
杖先を斧に変換させたハルが、弾道ミサイル以上の速度で突撃して来ていた。俺は破損していた障壁を収縮させ、表面積を減らして硬度を上げ、一撃を受け流そうとする――。
しかし、その瞬間、ハルの姿が崩れていく。彼女の肉体が分解され、塩分の塊へと変化していった。
「……囮かッ!」
そう気づいた時にはもう遅かった。下から高速で飛来してくる何かを認識するまでのタイムロスを発生させてしまう。
雲に大穴を開けながら、下界より東京タワーが飛来する。
空気の壁にぶつかりながら空へ向かうそれはさながら化学燃料ロケット、俺を目標に突き進む兵器だ。
「が……ッ!」
体にブーストをかけて回避しようとするが、その先端が俺の体を掠める。掠めた横脇腹からは血が噴き出て、俺の体を赤く染めた。
俺を殺しきれなかった東京タワーが宇宙へと向かい、地球の空間を突き抜けて遥かなる銀河の世界へ飛んでいく。
(――ハルはどこだ!)
脇腹の傷を魔法で止血しながら、彼女の姿を探る。
……彼女は俺よりも遥か上空にいた。大気圏を抜け、銀河と地球の境界線上で、天に向かって手を掲げている。
その視線の先では、太陽が蠢いていた。
遠近感を失うほどの巨大な星が、彼女の魔法によって鼓動のような動きを見せて――世界の気温が上がっていく。
「……嘘だろ……ッ!」
「地球ごと消え失せろ」
太陽が……地球に向かって高速で飛来する。
瞬間、急上昇する気温、干ばつする地球、枯れていく自然。地球の表面に火が点り、まるで太陽と化したかのように地球が燃えていく。
それでも学校だけは無事だった、彼女の張ったバリアが、ありとあらゆる外的要因から内部を守っているのだ。
……だが学校以外は地獄のような光景。世界を焼き尽くす炎が人の生きた証を消し去り、世界が終焉を迎えていく。
「……ッ!!!」
飛来する太陽を防ぐ手段はない。そして、地球を動かして躱す猶予さえ残されてはいない。
俺にできることなんて、己のバリアを強化して衝撃に耐えることくらいしかなくて。
太陽が地球に直撃し、地球が炸裂して宇宙空間へと破片を撒き散らす――!
「嘘、だろ……ッ」
太陽熱によって地球の破片さえもが黒炭と化した世界。もはや四方八方が宇宙空間に塗れ、かつてここに惑星があったことすら信じられない光景。
無事でいるのは俺とハルと、彼女が守る学校だけ。地球が存在した証はもう、宇宙空間を漂う学校しか存在しない。
それは最早、この世界の人にとっても、魔法界の人々にとっても受け入れがたい光景。
そうさ俺たちは化物、本気を出して戦えば世界の崩壊を招くとされた大災害。
彼女が本気を出せば、世界など簡単に破壊できる、俺たちの一騎打ちに巻き込まれて無事でいられるものなどありはしない。
魔法界の誰かが予言したように、この世界は終わる。一騎打ちによって滅び、何もかもが無に還る。
……俺たちが二人で過ごした家も……消えている……。
「……ッ!」
呆然の一瞬を付いて、彼女が急接近してくる。杖の先を矛に変えて、俺の体を切り裂こうと突進してきた。
俺は障壁を作ろうとし――防ぎ切れないと悟り、身を捩って間一髪のところで回避する。
「…………しぶといな」
彼女は、天も地も失った宇宙空間で俺を見下ろしていた。その息が上がっている様子はない。彼女の魔力にはまだまだ余裕があるようだ。
……恐らく……予感は本当だったのだろう。
委員長たちの戦いを見た時にも、そして焼却炉の扉を見つけた時にも感じた……彼女の魔力が俺を凌駕しているという予感は、きっと現実。
一騎打ちの結末は、俺の死によってしか訪れない。
「……………………」
俺は決して彼女に勝てない。そして世界を元に戻すことなんてできない。
なら、俺がすべきことは……俺が願うことは……。
「……ハル、今から俺は……最後の抵抗をするよ」
俺もハルと同じように杖の先を矛に変化させる。そして体に纏わせていた無色透明のバリアを限界まで薄くし、その魔力全てを矛先へと凝縮させた。
この状態でハルの一撃を喰らえば防ぎ切れず、俺は欠片も残らず消えるだろう。
しかし逆に、俺の一撃を喰らえばハルだって木端微塵になって死に絶える。
俺が死ぬか、ハルが死ぬか。……両方が生き残る未来を捨てて、今、彼女と本当に対峙する。
「この一撃を喰らえばお前は死ぬだろう。……だから、絶対守ってみせろよ」
俺たちの間にある実力差を、ハルだって感覚で理解しているのだろう。酷薄な表情を浮かべながら、俺のことをせせら笑う。
「お前こそ……ちゃんと当ててみせろよ。当てられるものならな」
戦場で研ぎ澄まされていた状態に逆戻りした今のハルなら、俺の放つ攻撃を悉く読みきり、全て回避してみせるだろう。油断も隙も死角も、今の彼女には万に一つもあり得ないはずだ。
ならば、今のハルには絶対に読めない手を出すしかない。
「ああ。当ててやるさ」
矛と化した杖を彼女に向け、数秒間だけ静止する。
二人の間に張り詰めたような緊張感が走り、頬に汗が伝う感覚が異様な不快感を与えて、自分の魔力と相手の魔力が混じり合ったかのような奇妙な感覚が全身に流れて――。
「……ッッッ!」
その瞬間、俺はハルに向かって杖を全力で投擲していた。
まるで時が止まったかのような感覚は、この世界の時間が停止しているから感じるものではない。魔法使いにとって在り得ない一撃は、ハルだけではなく俺の時間すら限りなく鈍くさせていた。
その攻撃を見たハルが、目を見開いて、迫り来る矛の切っ先を目に焼き付ける。
だってありえるはずがない。杖を失った魔法使いは魔法を使えず、相手に対して抵抗することができないのだ。それは自らの首を差し出す行為と同義、自らの死を懇願しているのと同じこと。
この一撃を避けることができれば、勝利することができる。……そう確信したハルは、ギリギリまで杖を観察していた。
それは絶対に杖を回避するため? ……きっと違うだろう。
自ら武器を手放すなんて蛮行に、何か裏が隠されているような気がしたのだ。
本当にこの攻撃を回避していいのか、それこそが相手の狙いなのではないか……そんなことを案じながら、彼女は杖を見続けて、見続けて、見続けて――気づけない。
俺との記憶を失う前の彼女なら、きっと気づけたはずなのに。
「ふんッ……!」
罠に気づけなかったハルは、何も問題がないことを悟り、俺の放った杖を回避した。
その一瞬が、致命的……。
回避後、体勢を立て直した彼女が目撃したのは……俺の周辺に8つの獄炎が浮かんでいる光景だった。それは一つ一つが日本を超える巨大さを持った、威力のみに特化した攻撃だ。
「………………!!!!」
その攻撃の威力を悟ったハルが、音もなく絶句した。
……俺が投げ放った杖は囮だ。アイから受け取り、内部の損傷によって使い物にならないと断定された杖だった。
ハルの海水に溶岩をかち当てて、水蒸気によって視界を奪ったあの一瞬、俺は手に持った杖と懐に忍ばせておいたアイの杖を交換したのだ。そこからは懐に忍ばせた杖で魔力を行使していた。
俺との記憶を失ってしまったハルには、俺が二本の杖を所持していることが分からない。
もしも記憶があったならば、俺が投げ放った杖が囮だと理解して、あっさりと弾き飛ばしていたはずだ。
しかし記憶が無いからこそ、その杖に何か罠がある可能性を案じ、回避という一番安全な手段に頼ろうとした。
そして、回避さえすれば勝利すると油断してしまったから、俺に最大の一撃を放つ時間を与えてしまう……。
「こっちが本命だッ!」
虚を突かれたハルに向かって、4つの獄炎を撃ち放つ。
それは先ほども述べた通り、今の俺が放てる最大級の攻撃だ。
そしてこれも先ほど述べた通り、喰らえばハルだって死に絶える一撃。
「くッ……」
彼女にできることはたった一つ、その身に堅牢な障壁を纏わせて、俺の一撃を耐えることだけだ。耐えきることができれば彼女に反撃の機会が生まれ、勝利をもぎ取ることが叶うだろう。
「こんな火力でッ、私を殺せると思うなァッ!」
これもまたずっと述べてきたことだが、含有魔力はハルのほうが高い。
故に、彼女が防御に徹してしまえば、俺が最大の一撃を放ったところで防御されるのは確定的。そして獄炎を防御しきった瞬間、彼女の反撃が俺の命を奪うだろう。
だから俺は、自らの意思で獄炎を消し去った。
「……!?」
思いもよらない状況に、ハルが一瞬動きを止める。
その隙を縫うようにして、俺はハルに向かって突撃した。今度こそ本当の杖を変形させて矛にして、亜音速を超えた速度で、彼女の障壁にその切っ先を突き立てる。
俺の繰り出す矛と、彼女の顕現させた障壁が衝突して、極彩色の閃光を放ちながら火花を散らした。
俺の全てをかけた一撃と、彼女の障壁は反発し合い……お互いを拒絶しようとしていた。
これはどちらが先に破れるかの勝負。打ち負けたほうが死を迎える……!
……本当にその一撃が本命ならば、だが。
「ハル、忘れたのか? 俺の創り出した獄炎は8つだぞ」
「……!?」
先ほどハルに撃ち放った獄炎は4つだ。……残り4つはどこへ行ったのだろうか。
それは、ハルが障壁で身を守っている隙に、あらぬ方向へと打ち出され――遠くを迂回し、彼女が理想の世界と呼んだ学園へ向かって接近している。
「ば……ッ!」
彼女にとっては許容しがたい出来事だろう。
あの学園こそがハルの望んだ世界、その場所を守るために今こうして戦っているのだ。あの学園を失ってしまえば、戦う意味も、生きる意味さえも失うことになる。
「……いかれたかッ、お前ッ! あの世界にいる人間が全員滅びてもいいというのかッ!」
「いかれたんじゃねえ、信じているんだよ! お前は化物と呼ばれたかもしれねえが、戦場に君臨して数多の仲間を守ってきたじゃねえか! お前なら守り切ってみせるだろ、お前の信じる理想の世界を!」
「……守るさ、守ってやるさ! お前を殺して! 私の世界を守ってやる!」
「絶対だな! ……守れよ、最後まで!」
彼女が学園に張ったバリアは、太陽の激突にさえ耐える超弩級の代物だ。しかし俺の放った槍の一撃を耐えるために魔力を注いで障壁を張っている今、そのバリアは確実に薄まっている。
彼女が自らに障壁を張り続ければ、きっと俺の攻撃を弾き返すだろう。そして俺の矛は――杖は破壊され、俺はバリアすら使えなくなり、酸素を失って死を迎える。
だが彼女が学園を守りたいのであれば、学園に纏うバリアに魔力を注がざるを得ない。そうすれば彼女の障壁は耐久性を失い、致命的な一撃を受けて絶命するだろう。
己か、世界か。彼女はどちらかしか守れない。
「……このッ……この野郎……!」
「さあどうする、お前はどっちを選ぶ!? 犠牲になるのはお前か世界か! お前が望む未来はどっちだッ!」
迷っている時間なんてなかった。
獄炎は後僅かで学園を破壊するだろう。彼女に残されたのはたった数十秒だけだ。
「シロガラの化物! 貴様はッ、あの学園を破壊したいのかッ!?」
「なわけねえだろ! 俺だってあの場所を守りてえよ!」
「……本当だなッ」
「一度くらい俺を信じやがれ! かつてのお前はもっと素直だっただろうが!」
俺の意思を確認して――彼女は短い時の中で、決断する。
「……私が死ねば、バリアは消える……。宇宙空間に投げ出されて……学園内の人間たちも全員死ぬだろう……!」
「そうだな、そうかもな! それで!?」
彼女がその身に張った障壁が点滅する。その役目を終えようとしているかのように。
「……だから……!」
学園に張られたバリアも点滅する。彼女の障壁に呼応するかのように。
彼女は悔しそうな顔をして――俺に向かって叫んだ。
「……お前があの世界を守れッ!」
彼女の魔力が学園に注がれる。身を纏っていた障壁が薄まり、学園を包み込むバリアへと転換していく。
だから、彼女と俺の間を遮るものは、頼りない薄壁一枚で――。
「お前ならその未来を選ぶと思ったよ、ハル」
俺の矛が、彼女の障壁を破壊する。障壁の破片が舞い散って、太陽の光を浴びてプリズムのように光を放つ。
そんな幻想的な世界の中――俺の一撃が彼女に迫る。
――俺とハルの体が衝突し――。
この壮大な宇宙空間に――花開くかのように、鮮血が舞っていった――。
「…………え…………?」
彼女は――きっと、理解できなかっただろう。
その身に血を浴びて、自分のものだと疑わなくて――でも痛みなんて来ず、ただ感覚のないままにその身を赤くさせているその現状を。
彼女が痛みを感じないのも当然だ。
だって、血を溢れさせているのは俺なのだから。
「お前……」
俺の持っていた矛は――ただの杖に戻っていた。
障壁をぶち破った俺は、彼女の体を貫くわけではなく、衝撃を殺し――彼女の体を抱きしめていた。
痛みなんて与えるわけもない、優しい抱擁を彼女に送る。
でも、彼女が掲げていた矛が俺の腹を穿ち、抉っていた。
……彼女の意思とは関係なく、俺は自ら彼女の持っていた矛に突っ込んでいた……。
「どうして……攻撃を、止めた……?」
「……最後に、こうしたかっただけだよ」
彼女の体を抱きしめながら、その頭に優しく触れる。
……俺は委員長と違って、人の欲求を操作することなんてできないし、彼女の脳を蝕む衝動を消し去ることなんかできない。
ただ、できることは一つだけ。
「……思い出してくれ、ハル。俺たちの過ごした日々を」
俺はここで死に、彼女が望む永遠の世界は続いていくだろう。
でもそこに俺の記憶はない。……俺との思い出なんて存在しない。
だから……ただ、それを思い出してもらいたかっただけ。
それが彼女を止められない俺の、唯一の願いだった。
掌を経由して、彼女の脳に、俺の記憶を伝えていく。
戦場で初めて彼女に出会ったあの日を。
この世界に来たばかりのあの日を。
まだ彼女が世界の楽しみ方を知らなかったあの日を。
彼女を初めて外に連れ出したあの日を。
穏やかに過ごしたあの日を。
学園生活の楽しさを知ったあの日を。
初めて仲違いしかけたあの日を。
眠りに落ちるまで語り合ったあの日を。
学園祭を楽しんだ今日を――。
彼女と過ごした毎日を……忘れてしまった彼女に贈る。
なあ、ハル。
今のお前は忘れているかもしれないけれど。
二人で一緒に過ごした楽しい日々は、確かにあったんだよ。
「本当は俺だって……行きたかったんだ……」
抉られた傷跡はあまりにも深刻で、血だけではなく俺の中身まで飛び散らせていた。
俺の視る世界が赤黒く染まっていき、世界の明度が薄らいでいく。
「水族館とか……動物園とか……お前と一緒に……行ってみたかった……」
「……お前は……」
「もっとハルと……色々なところに行って……楽しい思い出を作りたかったな……」
「お前は……私の何なんだ……?」
痛みすら薄らいで、意識すら消え去りつつあって。
死へと続く道は予想よりも遥かに安らかで、静かなものだった。
「言えなかったけど……言う勇気がなかったけど……本当は……お前と一緒にダンスパーティーに出たかったんだ……」
「…………………………………………私………………は…………」
彼女を抱きしめていた腕が力を無くして……俺と彼女の体が離れていく。
霞んだ視線の先にいるハルが泣いているように見えたのは、今際が見せた幻覚だろうか。
「……泣くなよ、これからお前の楽しい世界が始まるんだろ……? 人を殺し過ぎた俺は地獄へ行くだろうけど……お前は仲間たちのいる世界で……永遠に学園生活を楽しむんだろ……?」
「………………」
「……名前を呼んでくれ、ハル。さいごに……いちどだけで、いいから……」
だってお前は、楽しそうな予感に気付いた時、いつだって俺の名前を呼んでいたじゃないか。
だから、どうか俺の名前を呼んでくれ。
……これから始まる世界が、お前にとって楽しい世界であることを、証明してくれ。
「…………………………嫌だっ!!!!」
彼女が流した涙は、宇宙空間に漂った。光を浴びて輝いて、それが繋がって――。
涙の軌跡を残しながら、彼女は俺に近づいて……強く抱きしめる。
「私は……クロのいない世界なんていらない……!」
涙と血が世界に舞う、きっとここは幻想の世界。
「どんなに素晴らしい世界があったって、クロの向かう先が例えどんな地獄だとしたって……私は、クロのいる地獄がいい! クロと一緒にいられる世界がいい!」
「…………ハル…………」
「私の望みは、ただそれだけだから……!」
……彼女は……全てを知って、選択した。
彼女の中に存在する『永遠に楽しい世界に居たい』という思い。俺の存在を忘れていた彼女はその思いに囚われ、それ以外の全てを拒絶していた。
でも……俺の存在を思い出して……そんな俺を失いかけて……彼女は選んでくれたのだ。
俺と共に居られる世界を。
『……ハルちゃんね、言ってたよ。クロくんがいて良かったって。……いつもありがとうって思ってるって』
かつて彼女がアイに語ったその言葉が。
……本当のことであるという、その証左を。
(それだけで……満足だ……)
彼女の感情を呼び起こすには、俺の存在を思い出してもらうだけでは足りなかっただろう。
俺を失うことによってでしか、きっと彼女の心を変えることはできなかったはずだ。
だって当たり前になっていたのだから。俺たちは隣に互いがいる世界が……この数ヵ月間で当然のものになっていたのだから。
だから家族のようにも思えた、普通の男女として意識し合うことなんてできなかった。
失って、ようやく気付くその気持ちを。
……俺が死んでも、忘れないでいてくれたら……きっと、報われる……。
「……………………クロ?」
ハルが名前を呼んだ。
黙して動かぬ男の名を呼んだ。
「ねえ、クロ……」
抱きしめていた男の顔を見て、彼女は静かに息を呑む。
安らかな死に顔を見て、彼女は音もなく涙を流し続けた。
「起きてよ……ねえ……クロ……」
言葉が届くのは相手が同じ人間だからだろう。
肉塊に還った存在に、言葉など届くはずもない。
「……ねえッ、クロ! やだよ……一人にしないでよ……! 私一人じゃ生きていけないって……クロがいたから生きていられたって、知ってるでしょ……?」
シロガラ・G・クロスエッジの体には、もう無色透明のバリアは張られていなかった。それを張るための杖は手から零れ落ち、辺りに漂っている。だからこの宇宙空間で言葉が届くはずもない、だが届いても意味などない。
黙する死体に届くものなどありはしない。
彼は、死んだ。
もう二度と、ハルの名を呼ぶことなど、ない……。




