3章 恋する少女は許されない
翌日、天から零れる光が茜色に染まる頃、俺たちは再び氷川総合病院を訪れていた。昨日あれほど喜色満面に語り合って、その舌のつけ根も乾かない翌日に、またもや来てしまったわけである。
病室の扉をノックしてから開くと、昨日よりも少しだけメランコリーな表情の星宮がそこにいた。窓から差し込む夕日に照らされたその姿は、なんだか今にでも消えてしまいそうなほど儚く沈んでいる。
「よっ、また来たぞ」
「え、クロさん……?」
「私もいるわよ!」
相手に見えないと分かっていながらもお元気いっぱいなピースをかまし、ハルは大股でベッドの傍まで近づいていく。一方の星宮は、どうして2日連続で病室を訪れたのか理解できないのか、困惑をそのまま顔に投射したような表情になっている。
そして、俺たちと一緒に流川が来ていないということを気配で察したのだろう。彼女が浮かべる疑問符は、もう心の内に秘めていることすらできないほど大きくなっているようだった。
「あの……えっと、瞬兄は一緒じゃないんですか?」
「流川がいると都合が悪いからね、今日はこっそり来たんだよ」
「手ぶらじゃ悪いと思って手土産も持ってきたわ! クロの私服のセンスみたいな名前のドーナツ6ヶ入り!」
恐らくオールドファッションのことを言っているのだと思うが、もしそうならこの場でバーリトゥードにて白黒つけてもいいくらいの業腹だ。
「その、お気持ちは嬉しいのですが最近は規制が厳しくて食べ物の差し入れは原則禁止なんです。ごめんなさい」
「あ、そうなの。じゃあこれは私が一人で全部食べるわね、かたじけないわね、舌鼓を打つわね」
「俺の分は?」
部屋の隅に置かれていた椅子を手繰り寄せ、ベッドの脇へと座る。ハルの分も引き寄せておいたのだが、彼女は椅子に腰を下ろすことなく、不遜にも星宮の横たわるベッドに座り始めた。
ハルの視線は――星宮の目に向かって注がれている。感覚派ではない俺には十数年前の魔精反応を感じ取ることなどできないが、彼女にはきっと色褪せた反応が視えているのだろう。
「え、あの……」
至近距離に座られて、星宮の表情が強張った。ハルの距離の詰め方は目が見えていてもちょっと怖いくらいなので、こんな反応をされてしまうのにも納得できる。
「流川くんがいる時に聞くのは野暮だから、昨日は何も言わなかったけどさ……」
そんな彼女に向かって、ハルが放つ言葉は――。
「……星宮ちゃんって流川くんのこと好きよね?」
恋の言葉だった。
「え……っ、あ……」
突如として真正面から想定外のことを言われた星宮は、思う存分に困惑している。しかし言われた言葉の意味を徐々に咀嚼して、仄かに耳朶と頬が紅潮していた。
「昨日、2人が話しているところを見ていて、多分好き同士なんだろうって気付いたわ。……でも距離感的に、付き合ってはいないとも気付いたの」
「……」
流川がいなくても不思議じゃなくて、ハルが至近距離で声を潜めながら話す話題なんて、これくらいしか思いつかなかった。
糾える恋心に気づいたお節介焼の2人が、各々の事情を聞きだそうとしている。……星宮はそう捉えて、自分を納得させてくれるはず。
勿論、第一目標は彼女の眼窩に宿る魔精反応を探り、イシャクが犯人である証拠を掴むこと。しかし彼女たちの恋路が気にならないと言えば嘘になる。
……なんだか少しだけ、自分たちの境遇に似ている気がしたから。
「私の勘違いならそれでいいわ。……でもね、なんだか互いの気持ちが伝えられないから進展しないんじゃなくて……もっと諦観にも近いような関係性に見えたの」
「……」
「……ねえ、あなた。恋愛することを諦めてない?」
言葉を紡ぎながらも、ハルは目を観察して魔精反応を探り続けている。
しかし、その表情が至って真剣な理由が言葉と探知のどちらにあるかは、傍観している俺には分からなかった。
「………………そう、見えますか」
「見えるわね。明らかに互いの好意が見えているのに、学校で恋愛をしておけなんて自傷みたいなアドバイスをするなんて、自分の気持ちを抑え込んでいるようにしか見えないわ」
ハルの言葉には一切の遠慮がない。元から駆け引きや腹の探り合いをするタイプではないが故に、その口から出てくる言葉は直球のものばかりだ。
だからこそ本心を抉り、だからこそ偽りを感じさせない。……多分、それは星宮だって分かっているはず。
分かっているからこそ惑うのだ。もしくだらない駆け引きを仕掛けられていたならば、彼女だって誤魔化すか怒るか笑い飛ばすか、如何なる手段を使ってでも本心を隠していただろう。
しかし相手が本心から訪ねているのだから、その真摯さを感じ取った彼女が誤魔化せなくなるのも道理と言えるはず。
「……………………私みたいな女、瞬兄とは恋愛する権利がありませんから」
自嘲するような苦笑を零しながら、彼女はそう言い落とした。
「そんなことはないだろ」
思わず否定的な声を出してしまい、咳払いで語調を誤魔化した。再び開いた口からは、なるべく優しい口調になるように心掛けながら声を発していく。
「目が見えなくても、体が弱くても、幸せに生きている人が大勢いるだろ。恋愛をして、結婚や出産までしてる人だっている。……それを理由にすると、同じ境遇の人を否定することにもなってしまうんじゃないか?」
「……それは分かっています」
恐らく何度も考え抜いて、自分の中で結論を出し終えた話なのだろう。否定する彼女の口調からは逡巡すら感じない。
「どんな境遇でも幸せになっている人がいるし、幸せになる権利はある。それは理解していて、実際そうなんだろうなって思います。……でも、そういう話ではないんです」
「そういう話じゃない……?」
「ええ、私の生き方の話じゃなくて、瞬兄の生き方の話なんです。……瞬兄には普通の人生を生きてほしいんですよ。普通の学生として過ごして、普通の人と結婚して、普通に幸せに生きて……何の気苦労も無い人生を歩んでほしいんです」
「………………」
「私は体が弱いので長時間勉強することができませんし、運動ができないので体も不健康です。勉強もできなくて運動もできなくて、普通の人よりもよっぽど劣っています。……同年代より何週も遅れてしまった私を、私自身が認められないんです」
「それは……」
否定するような二の句が喉から出かけて、迷い、悩み、音もなく嚥下する。
……もしも彼女が自分の境遇をハンデとして及び腰になっているなら、いくらでも説得のしようがあった。どんな人間にも恋をする権利がある、それを否定することは例え自分相手であっても許されないと、自身の経験を元に呼びかけることもできるだろう。
しかし、相手の人生が普通であって欲しいと願うならば、何も言えやしない。流川はそんなことを望んでいないかもしれない――なんて語ったところで、関係性の薄い俺たちの言葉にはどんな説得力も宿らないのだから。
「……私、我が儘ですよね」
言葉を失った俺たちに向かって、星宮は眉を下げながらそう言った。彼女の困ったような苦笑が、とても寒々しく部屋に反響している。
「でも、瞬兄がどう思っていたとしても……好きな人だからこそ、私が彼の隣に立つことだけは許せないんです。世界のみんなが肯定してくれたとしても、絶対に……」
「……少しだけなら分かるよ。流川の気持ちも、星宮の気持ちも」
好きな人を支えたくて様々なことをしてきた流川。
そんな優しい人だからこそ普通の幸せを掴んでほしいと願う星宮。
互いの愛情は確かに指し示し合っているというのに、愛を形にすればするほど、その成就は遠のいてしまう。
「でも、流川は納得しないだろうな。……星宮が元気になるように流れ星へ願っていたくらいだし」
「……そんなことまでしてたんだ」
星宮は困ったような、寂しいような、それでいてどこか嬉しそうな表情で笑った。
愛情の籠った星空への祈念も、普通の人と幸せになるべきという自論を補強する薪としてくべられてしまう。ささやかな親切と恋情は全て、彼女たちの架け橋とは成り得ない。
部外者ではどうしようもない自縄自縛のしがらみは、もはや恋路を往くだけでは解きほぐせるものでもなく――。
「あなたの言う『普通の人』って、何?」
突如としてハルが言い放った言葉は、どこか氷のような冷たさを纏っていた。
「普通って言っても、みんな当たり前のように追加条件を付けるからね。やれ恋人を最優先にしなくちゃ嫌だとか、やれ安定した企業に勤めろとか。……誰もが自分のことを普通だと思い込んでいるこの世界で、そんな概念を必須条件に入れられてもね」
「……そこまで我が儘は言いません。ただ……普通の水準で生きている人であればそれでいいんです。勉学も運動も人付き合いも、劣ってさえいなければ……」
「普通の水準ねぇ……」
彼女の纏う魔精反応を探りながら、意味深な口調でハルは呟く。彼女が話の落としどころをどこに持っていきたいのか、何となくわかる気がしていた。
「じゃあもしも、貴女の体が治ったら……ちゃんと努力するのよね?」
「え……?」
不意に齎されたありえないはずの仮定に、星宮は戸惑いの声を隠せない。
今の医療技術では視神経を再接続させることができず、拒絶反応が起こる可能性も非常に高いのだ。……正確に言えば外国で成功した症例があるにはあるのだが、彼女がその恩恵を受けられるまでには気が遠くなるほどの時間を要するだろう。
だから、そんな仮定をしたところで無為以外の何物でもない。宝籤が当たる可能性を夢想するよりもよっぽど夢物語なのだ。
「治るわけ……ない、ですよ……そんな話をしたって……」
「治るか治らないかはどうでもいいの、今は治ったらちゃんと本気で向き合えるかを聞いているのよ。あなたは体の都合のせいで、周りの人よりもだいぶ遅れてしまっているわ。……それでも、努力できるだけの環境が揃ったなら『普通の人』になれるように努力するのよね?」
いくら境遇が改善したところで、本人に気力がなければ徒花だ。言い訳を幾重も積み上げて、成すべきことに挑戦しないまま逃げ続けるだろう。恋も人生もそれは変わらない。
もしも逃げ腰な心持ちならば、このままでいたほうがいい。逃げる言い訳を失うことになるのだから。
「……そんなの……いくらでも努力するに決まってるじゃないですか……」
喉の奥から絞り出すかのように、掠れた声が小さく零れる。
「今まで努力することすらできなかったんですよ? ……普通の人になれるなら、どれだけ苦しくても努力するに決まってます。……いや、これだと抽象的ですよね」
中学三年生にしてはあまりにも大人びた表情を浮かべて、背筋を伸ばし、彼女は見えないはずの俺たちの顔をしっかりと見据えて告げる。
「私の体が治ったなら、本気で瞬兄に相応しい人になります。……本当は……誰にも、渡したくありませんから」
「……」
安堵したようにハルが漏らした息は、俺にはほとんど聞き取れない。しかし聴覚への役割比重が高い星宮には、きっとはっきりと聞こえたはずだ。
「貴女がそう断言できるなら、私たちにもやれることがあるわね」
そしてハルは立ち上がり、扉の方を見やってから俺へ目配せをした。聞くべきこともやるべきことも全て終えたということなのだろう。
「今日はありがとうね、数日以内にまた来るわ。……今度は重い話じゃなくて、もっと明るい話をしましょう。クロのあられもない痴態ならいくらでもレパートリーがあるわ」
「胸に秘めといてくれ」
最後に俺も星宮へ別れの挨拶と、不躾な訪問をしたことへの謝意を述べてから病室を出る。気づけば茜色だった空は黒ずんで、窓から見える景色は黒く染まり切っていた。
少しずつ見慣れてきた廊下を並んで歩き、出口へと向かう。
「魔精反応の解析は済んだから、私は諜報員さんに連絡するわ。クロは誰か融通を利かせてくれそうな人に連絡して魔法医の斡旋をお願いしてくれない?」
「ああ、分かった」
病院から出て携帯電話を取り出すなり、諜報員から俺たち2人に対してメッセージが送信されてくる。受信したメッセージの冒頭は、『イシャクの現在地を捕捉しました』という一文。
俺とハルは顔を見合わせ、強く頷いた。
「無辜なる赤ん坊に地獄を見せた下衆に、相応の報いを与えてあげないとね」
「そもそも亡命も魔法の濫用も法令違反だからな」
きっと、24時間以内に決着が着くだろう。
長く続いた苦しみも、本心を押し殺す悲しみも、縒り合い切れなかった恋心も。
決して忘れてはならないのが、そこが全ての終わりではない。
これから長く続いていく、本当の人生の始まりでしかないのだ。




