16章 心を重ねる聖夜歌
「……鳳輔から連絡が来たよ」
アイの握りしめた携帯電話が何度か震えて、鳳輔から届いたメッセージを表示している。そこに綴られた文章を読んで、彼女は嫋やかに微笑んだ。
「……ハルちゃんと色々話したって。……それで、今日はもう帰るようにって伝えたみたい。今から駅に向かえば間に合うかもね」
思わず駅のほうへと視線を向けてしまう。
誰にも話を聞かれないよう、駅から離れた高架下まで来たのがアダとなったか。俺がここから駅まで向かうのと、ハルが駅に辿り着くまでのどちらか早いか分からない。
ハルが先に駅に着いてしまえば、きっと彼女は一人で帰ってしまうだろう。
「クロくんはどうする?」
彼女は俺の体から離れ――とん、と背中を押してくる。
きっともう大丈夫、と言うように。
「……なんて伝えたらいいのか俺には分からないけど……追いかけなきゃいけない気がする」
いや、きっとこの感情は違うもの。
追いかけたい、ただそれだけだ。
「ありがとうな、アイ。このお礼はいつかきっとするから」
そして走り出す。今度はもう躊躇わなかった。
「……ねえ、クロくん! 最後に一つだけ聞かせて!」
「なんだ!?」
振り返らずに、立ち止まらずに最後の言葉を聞く。
「クロくんは、大人にならなくてもいい世界があったら……そこで生きたいって思う!?」
……その質問は、先ほど鳳輔がしていたものと同じものだ。
あの時と同じ問いならば、俺の答えだって同じに決まっている。
「そんな世界なんていらない! そんな世界、俺には必要ないからな!」
よかった、と聞こえた気がした。距離的に聞こえるはずのないアイの言葉を聞き取った気がした。
「……ハルちゃんに本心を伝えられたら、明日、全部話すから! あたしたちのことも、あの日のことも! 黙っていたこと、全部クロくんに伝えるから……!」
「……ああ!」
「だから、お願いだよクロくん……。どうか……あたしの……大好きな幼馴染を、止めて……!」
往来を行く通行人には何の意味か分からない言葉だろう。でも今はそんな些末なことを気にする余裕もない。ただ駆けて駆けて駆けて――ハルの元へ向かう。
高架上の線路を頼りに駅へ向かっていく。心臓が爆発しそうなくらい、足が縺れそうなくらい全身全霊で。
きっと臆せば間に合わなくなる、立ち止まればもう二度と今の衝動は伝えられない。どうか間に合えと祈るように疾駆して、叫びたいその名前を心の中だけで呼ぶ。
いくら心中で叫んでも、それは彼女に届かない。想うだけでは何も伝わらない。
彼女に何かを届けたいならば、ちゃんと会って話す他ない。
……やがて駅前のクロスロードへと辿り着いた。車の行き交う交差点の向こうには見知った背中が一つある。いつもの元気を全て失ったような覇気のない背中が、足取り重く駅へ向かっていた。
立ち止まらせる為に携帯で電話をかけてみるが、無機質なコール音が返ってくるばかりだった。きっと着信にすら気づかないほど、彼女の心は傷ついているのだ。
その背を呼び止めるように名前を呼ぶ。しかし繁華街を往く車の排気音が俺の声を掻き消して、彼女の名前は雑踏の中に溶けて消えていく。
だから、顔を真っ赤に染めた信号機が青ざめるまで息を整えることしかできなくて。
永遠にも思えるような停止信号が青くなった瞬間、俺は再び全力で駆け出していた。ハルはもう駅に立ち入っていて、その姿を捉えることはできない。
俺が駅に入り込むのと同時に振動が伝わってくる。それは電車の到来を告げる無情な揺れ、ハルを連れ去る最後通牒。
ICカードを改札に叩きつけ、人々の間を縫って駅構内を駆け抜けて、プラットホームへの階段を駆け上がる。言葉すら発せられないほど息は上がっているが、それでも言葉を届けたい気持ちは臓腑の底で渦巻いている。
間に合え、そう何度も自分の中で唱えていた。
しかし……。
「…………」
俺がホームへ辿り着いた時……電車の扉は既に閉まり、音を立てながら動き出していた。
ただただ、呆然と去り行く電車を見ることしかできない。電車から降りた人々の波が去って行って、ホーム上にほとんど人がいなくなっても、俺はただ立ち尽くすばかりだった。
間に合わなかった。……伝えることができなかった。
家に帰れば会えるだろう、でもきっと遅いはずだ。自分の中にあるこの衝動がいつまでも続くとは思えない。
ハルに顔向けできないという気持ちを抑え込み、話すのが怖いという感情を力技で捻じ伏せ、今自分は顔を合わせて話し合いたいと思っている。
だが時が経てばその気持ちも薄まり――顔向けできなくて――話すのが怖くて――そんな情けない感情ばかりが残るだろう。
だからこの街にいる時だけが、唯一全てを話せるタイミング。
機を逃した今……もう二度と、ハルとは心を通わせられない気がする。上辺だけの関係になって、今までの毎日をなぞるような、演じ続けるような毎日が続いていくはずだ。
それが俺たちに与えられた末路、関係性の終着点――。
「……クロ」
突然名前を呼ばれて死ぬほど驚き、傍から見ても丸分かりな程に飛び上がる。
ハルが、自販機の陰から俺のほうを窺っていた。彼女もまた俺と同じように、居づらそうに視線を逸らしている。
「さっきの……さっきの電車に乗って帰ったんじゃなかったのかよ……」
「……乗り損ねたの」
それは嘘だ。タイミング的に乗り損ねるはずもない。
……彼女は何を思って電車を見送ったのだろう、何を願って乗車を諦めたのだろう。
誰が来るのを願って、ここにいたのだろう。
静けさを取り戻した駅のホームで、言葉も無く対峙する。お互いに息を整えながら、ただ黙って相手と見つめ合う。
俺もハルも言葉が出てこなかった。だから、ただただ時が流れる。まるで世界が静止したかのように、音の無い時間が俺たちを包み込んで。
でもやがて意を決し……一歩前へ踏み出しながら、ハルへ告げる。
「……ごめんな」
恐れを抱きながらも意思を言葉にする。言わなければ何も伝わらない、意思を疎通するために言葉があるのだから。
「ハルの考えてたこと、何も分かってなかった。……ずっと一緒にいたのに、何一つ気づけないままで……あんなことを言っちまった」
「そんな、そんなの……違うわ。……何も力になれなかった私が……」
「……そんなこと、ない」
お前はずっと、頑張ってきたんだ。少しでも聡い奴なら気づけたであろう気持ちを発し続けて、それでも気づけなかったのが鈍い俺だったんだ。
……いや、鈍いというより、最初から頭になかったのだ。
自分が幸せになれるかもしれないなんて希望も、誰かが俺の幸せを願ってくれているなんて夢みたいな現実も。
「でも、ごめんな。……やっぱり俺には、自分が幸せになれる未来が想像できない」
その言葉を聞いて、再び――ハルの瞳に悲しみの色が宿る。
俺は大きな一歩を踏み出して、彼女のすぐ近くにまで近寄った。家族のように頭を撫でてやることも、手を握ることも、化物のように首を絞めることも、身体を殴りつけることもできる距離だ。
何だってできる距離感で、俺は彼女の肩を掴んだ。
「だから、ハルが俺を幸せにしてくれ」
「……え……?」
生まれた時から化物として生きてきて、親元ではなく軍の施設で寝食を重ね、戦場に赴き、敵を殺す。そんな日々によって刻まれた自己肯定感の低さは、きっとたかが数ヵ月の人間生活では癒しきれない傷なのだろう。
でも、願うことを教えてもらった。自分では御しきれない大きなトラウマも、誰かの力で乗り越えられると夢見ることを知った。
だからこそ俺は、今までは絶対に望むことすらできなかったであろう言葉を口にする。
「俺一人じゃダメなんだ、幸せになる方法が分からないんだ。……でも、お前は……俺を幸せにしてくれるんだよな」
「で、でも、私……頑張ったけど、クロを幸せにすることなんか……」
「ずっと、楽しかったんだ」
視線をさまよわせながら弱音を吐く彼女へ、その言葉を塗り潰すように告げる。
「この世界に来てから、ずっと……お前と一緒にいて、楽しかったんだよ。……自分が幸せなのかどうかは、俺には分からない。でも……楽しかったって気持ちだけは、嘘じゃない」
他愛のない毎日も、取るに足らない学生生活も、化物の俺にとっては全てが宝物だ。
隣にお前がいたから、流れゆく毎日が楽しく思えていたんだよ、ハル。
「……お前が俺の幸せを願ってくれるなら、俺がお前を幸せにするから。化物上がりの俺にできるか分からないけど、お前が少しでも幸せになるように頑張るから……」
自分の幸せなんて分からない。でも、他人の幸せなら、きっと分かる。
ハルが楽しそうに笑っているのを見て、ずっとこのままでいてほしいと思っていたから。
そんな毎日を過ごすことが、彼女にとっての幸せだって分かっているから。
「二人で幸せになろう、ハル」
なんだかプロポーズにも似たようなセリフを口走り、よく考えればずっとそれに近いことを言っていたと思い出し、柄にもなく耳朶まで真っ赤になってしまう。
そんな俺を見て、ようやくハルが笑った。
彼女の顔だって、何故だろう、赤く染まっている。
「……ホースケから、クロの思ってることを聞いたの」
紡ぐ言葉は幼児のようにぎこちなく、それでも気持ちを伝えたいという意思を含んでいた。
「私に……幸せになってほしいって。普通の女の子みたいな幸せを感じてほしいって。……それが、クロにとっても、幸せなんだって……」
「……俺も、アイから聞いたよ。……今までハルが何を思って生きてきたか。……それと必死に頑張ろうとしてくれたことを……」
だから――と言葉を切って、もう一度ごめんと言おうとして。
でも、口から出た言葉は、自分の意思に存在しないもので。
「……ありがとう、ハル」
ハルが驚いていたが、俺も驚いていた。自分の意に存在しない言葉、思ってなかった言葉が口から出たのだから。
でもそれは咄嗟の誤魔化し染みたものじゃない。
今度の今度こそ、俺自身すら気づいていなかった、本心だった。
「……クロも……今まで、ありがとう」
再び、無言。俺たちは目線を逸らしてただ黙り込む。
居心地の悪い無言ではなく、全てを語り終えて一息を終えたような、気まずさのない清閑だった。
その時、一陣の風が吹いた。
風を巻き起こしていたのは、無粋にもホームに入ってきた一本の電車。恐らくアナウンスを聞き逃していたのだろう。
今しがた到着した電車は、一時間に数本しか走っていない各駅電車だった。主要都市目当てなら見逃して急行に乗ったほうが早く目的地に着けるような、そんな使用者の少ない電車だ。
俺たちは合図も無く同時に歩き出し、その電車に乗り込んだ。
車両の中には誰もいない、二人だけの貸し切り状態。無駄な言葉は交わさず、俺たちは二人横並びになって席に腰を下ろす。
そして電車が走り出す。断続的な音と振動を与えながら、目的地までの時を刻んでいく。
向かいの車窓からは、今まで自分たちがいた街が見えている。暗闇の中、何色もの光が瞬いて、蠱惑的に揺れ動いていた。
「……」
暫しの時が過ぎた頃、ハルがバッグの中から音楽機器を取り出した。
それは以前ハルのおねだりを受けて買ってあげたものだ。資金難なせいで旧型のものしか買えなかったが、それでもハルは子供のように喜んでいた。
ハルは音楽機器を操作し、そして、イヤホンを片耳に突っ込んで――、
「……ん」
もう片方のイヤホンを、俺のほうに向けてくる。
「……」
一瞬面食らったが逆らうことなく受け取り、彼女に倣って片耳に入れる。
すると透明な鈴の音が鳴り響き、そして有名アーティストの切なげな声で表現されたクリスマスソングが響き、世界の音の半分を満たす。
言葉を交わすことも無く、俺たちは共に歌を聞いていた。
それは他の誰にも聞こえない、二人だけの聖夜歌。
窓から見える繁華街は華やいで、宝石が地上で煌めいているようにさえ思える。一枚のガラスを隔てて、鮮やかな光の海が満遍無く瞬いていた。
きっとあの場所には、今まで見たこともないほど綺麗なものがたくさんあるのだろう。
そう、手を伸ばしても届かない場所に、素敵なものはたくさん転がっている。楽園だと思えるような素晴らしき世界が広がっている。
そして手の届く場所には、一人の女の子がいる。
理想なんてあの窓の向こうにしかなくて、見ているだけでカタチにすることができなくて。喧嘩をして言い争いをして、そんなような現実は、すぐ触れることができるほど傍にいる。
喧嘩もせずに諍いも起こさずに――そんなような存在は、ここにはない。窓の向こうにしかない。その手を握ることもできないし、頭を撫でてやることもできない。きっと風が吹けば倒れてしまうような虚像だ。
バカをして、互いの悪いところを見せ合って、時々ぶつかり合って、また笑って。そんなハルならこちらの世界にいて、こうして一つの音楽を分け合って、気づけば肩が触れ合っている。
世界の誰よりも距離の近い、そんな彼女はここにいる。
「……」
ハルは目を瞑り、俺の肩にそっと頭を預けた。
「……私、寝るから」
そう言い残し、ハルは動かなくなる。あと十五分もないぞという俺の言葉にも反応せず、ただ瞳を閉じ続けた。
肩に確かな温もりを感じつつ、俺は再び窓の外を見やる。窓の向こうではやはり小夜の宝石たちが嫌味なくらいに光っている。
でも先ほどよりその光が鈍くなっている気がした。それより眩しい何者かに目を奪われ、今の俺には宝石が石くれのように見えている。
次の歌に進むまで、あと三分。
駅に着くまで、あと十四分。
その間一度も、ハルの寝息を聞くことはなかった。




