最終章 君と色付く学園祭
園馬の日記帳を返すために、俺たちは職員室へと向かっていた。
今思えば、読み終わったら返しに来いとまもり先生が言うのも頷ける内容だ。死にゆく者の心情がありありと書かれた日記帳を、誰にでも手に取れる環境に置いておくことなどできないのだから。
今になって思えば、俺たちがあの日記を読んでしまってよかったのだろうか。何の事情も知らない俺たちが読んでいいものではなかったのではないか。
しかし……もしそうならば、まもり先生は嘘をついていたはずだ。日記帳のことなんか知らないと言い張って、あの本の所在を永遠に秘匿すればよかっただけのこと。
あれを俺たちに渡したということは、あの本を読んで何かを汲み取ってほしいと願っていたのだろうか。
「……おじゃましま~す……」
職員室は薄暗く、節電のためか一角しか電気が点灯していない。
暗闇の中、まるでスポットライトのように光を浴びているまもり先生は、机に突っ伏して眠っているようだった。直前まで仕事をしていたのだろうか、彼女の机には部活動関連の書類や明日の授業の資料なんかが積み上がっている。
俺は日記帳を机の上に置いて、ハルに視線を向ける。合図を受けた彼女はふところから魔法の杖を取り出した。
「俺たちに許されるのは変容魔法と幻想魔法。これだけあれば僅かな奇跡を起こすことくらいは……」
「ねえクロ、私に一つ案があるんだけど」
早速取り掛かろうとしたところハルが水を差してくる。
「日記帳の中に描かれた文字だけで、園馬って人を再現するとなると……やっぱり精度は低いよね?」
「まあ……それはそうだな。書き言葉と話し言葉は違うし、口癖とか表情とか色々そぐわない部分も出てくるだろう。それでも、映像とかが残ってない限りは正確に再現することなんて……」
「あるわ、もっとリアルに再現する方法。……ほら、ここに」
意図が読めないことを言いながら、ハルが指さしたのは――まもり先生の頭だった。
「この杖の表面に張り巡らされた魔力の層を使えば一度だけ、制約外の魔法を行使できるわ。これを使って頭の中を読み解けば……もっと鮮明な奇跡が起こせると思わない?」
いつものイタズラっ子のような表情を浮かべ、彼女は俺にそう問いかけて――。
……少しずつ、まもりの意識が戻ってくる。
それはまるで永い眠りから覚めたかのよう。どうして自分が眠っていたのか、ここがどこで今が何時なのか、何もかもが分からないまま意識だけが覚醒していく。
未だ夢うつつな頭の中は胡乱だが、なんだかとても長い夢を見ていた気がしていた。そしてまだ夢の続きを見なければならない気がした。
再びまもりは瞳を閉じる。もう一度眠りの世界に落ちれば、あの夢の続きが再び始まると信じて――。
「先生! せっかくの学園祭なのにいつまで寝てるのさ!」
不意に頭上から降り注ぐ大声に、まもりの体がジャーキングしたかのように震えた。そして寝ぼけ眼を擦りながら顔を上げ、彼女が見たのは――。
「……」
呑気な表情を浮かべる園馬冬也の顔だった。
「他の先生方は見回りとか色々してるっていうのに、まぁーた職員室でサボってさ。そんなんだから最近の若い教師はって教頭とかから言われるんだよ」
「お……おう……」
状況が呑み込めていないまもりは曖昧に頷き、首を鳴らしながら周囲を見回す。
職員室の中には彼ら以外誰もいない。しかし廊下へと続く扉の向こうからは、賑々しいざわめきが聞こえてきていた。
「ほら行こうよ、約束したでしょ? 学園祭、一緒に回ってくれるって」
「おい、落ち着け、引っ張んなよ……」
妙にテンションが高い園馬に引っ張られ、未だに状況が把握できていないまもりは蹈鞴を踏みつつも、彼に続いて職員室を出ていく。
扉一枚を隔てたその向こうは、鮮やかに色付いていた。
壁や廊下に張られたクラスの出し物のポスター、誰かが飾り付けた色とりどりの風船、どこかの教室から聞こえてくる歓声と笑い声。いつもは制服を着ているはずの生徒たちはクラスの出し物に合わせた衣装を着こんで、一年に一度のお祭り気分を味わっていく。
いつもは校内にいないはずの小学生や大人たちが、パンフレットを片手に廊下を歩いている。人が行きかう廊下はもはや渋滞を起こしていて、はぐれた生徒たちが大声で互いの存在を呼びかけ合っていた。
平時なら机と椅子が等間隔に並べられているはずの教室内は、お祭りの屋台のように賑々しい雰囲気に満ちていて。あるクラスはお化け屋敷を、別のクラスは演劇を、他のクラスは脱出ゲームを。各クラスが教室を改装し、様々な出し物を来場者たちに提供している。
年に一度、9月頃。この学校は華やかな色彩に包まれる。
今日は学園祭当日。幸せだけが学園を包み込む佳日だ。
「…………………………」
盛大なる学園祭の様子を見て、まもりは言葉を失っていた。
何かを忘れている気がする、何かがおかしい気がする。しかしそんな矛盾を突くような疑問に靄がかかり、明白であるはずの答えに辿り着けない。
だから彼女はただ、その瞳で――奇跡によって齎される、魔法仕掛けの学園祭を見つめていた。
そんな彼女の手を握って、園馬は眩い笑顔を浮かべる。
「さ! 学園祭の雑務を死ぬ気で終わらせたんだし、約束果たしてよね。残りの一時間、きっちりと付き合ってもらうから!」
「…………」
園馬の顔を見ていくうちに、彼女の胸中には『あの頃』の気持ちが蘇ってくる。気持ちは自己を呼び覚まし、あの頃のまもりが口にしていたであろう言葉を紡ぎ出していく。
「……おいバカ、なに先公の手ぇ掴んでんだ。止せお前、淫行条例とかで捕まっちゃうだろ。お手手引かれんでも一人で歩けるからちったぁ落ち着け」
「もー、先生は堅物なんだから」
渋々手を放し、それでも彼は笑って――まもりに手招きをした。
「さ、まずは1年3組に行ってポップコーンでも買おうよ。絶品だって噂なんだよ、なんでも映画館で買ったものを横流ししてるとか」
「それ採算取れてるのか……?」
二人は賑々しき廊下を歩きだす。
果たせなかった約束と、迎えられなかった学園祭。現実では許されなかった一日が、魔法によって蘇る。
この世界は――偽りだ。幻想に囚われたまもりは自覚していないが、ここは本来ありえないはずの世界。
しかし、それでも今、彼女の目の前にいる園馬は本物同然だった。
「…………」
底抜けに殷賑な学園祭の人混みに紛れ、クロが二人の様子を窺っていた。
この虚構を作り出したのはクロだ。彼が幻想魔法を使ってあの日の幻想を顕現させ、セピア色に染まってしまった7年前の学園祭を蘇らせている。
園馬を作り出しているのはハルだ。彼女は自身に変容魔法をかけ、その姿形を園馬冬也そのものに変化させた。
そして――資料編纂室に眠っていた園馬に関する資料や日記帳、果てはまもりの頭の中に眠っていた園馬という人物の情報を統合し、己の意識を園馬に上書きしている。
今の彼女は自分の意識を失い、園馬冬也そのものとなっている。……無論全てが再現できているわけはないだろう。しかし少なくとも、まもりから見た園馬は完全に再現できていた。
だからこれは、幻想でありながらも7年前の学園祭そのもの。
……もしも園馬冬也が生きていたなら、訪れていたはずの……本当の学園祭だった。
「学園祭なのに眠りこけるとかさあ、意識が足らないよ。今日が学園祭だってことお忘れかなー?」
「バカ、お前が1時間空けろっつーからマッハで仕事片付けたんだよ。疲れて寝るだろそんなもん、堕落した大学生活でアタシの体は極めて弱体化してんだ」
肩を並べて歩いていく二人を見て、すれ違った生徒たちが「あ!」みたいな表情を浮かべている。園馬の積極的告白が情熱的過ぎるせいで二人の関係性は既に委員会外まで轟き、『お馴染みの奴ら』というまもりにとっては極めて遺憾な視線を向けられていた。
「つかオメ、委員会の仕事はいいのかよ。職務放棄してんじゃないだろうな、その場合は教育系の行政委員会の耳に届くほど盛大な罰を喰らわせるかんな」
「脅さないでよ、僕も仕事は全部済ませたんだからさ。……と言っても、当日はトラブルさえなければヒマなんだけどね。委員長が一番大変なのは事前の擦り合わせと稟議だし」
「なァ、あっちの教室でなんか揉めてんぞ」
「あああぁ……」
トラブルさえ起こらなければ大丈夫なんて言葉が出る時は、大概想定外のトラブルが発生するものだ。園馬とまもりは小競り合いが起きている2年5組に向かい、仲裁をする羽目になった。
……そうやって色々な出来事を巻き起こしながら、幻想の学園祭は続いていく。
小規模ながら情熱だけは込めた出し物に感服したり、素人ながらもそれなりに美味しい飲食物の出店に舌鼓を打ったり、時には催し物には付き物のトラブルを解決したり。
たった一時間しかない二人の時間は、驚くほどに濃密で。
まだ体感では20分程度しか経っていないのに、気づけば青空は夕焼けに変わっていた。二人が約束した一時間はもうすぐ終わり、それと同時に学園祭も終わる。
学園祭が終われば――このひと時の夢物語も終わる。
「……んで、結局なにがしたかったんだよ。なんかをアタシに教えるって名目で約束取り付けたんだろ?」
夕暮れが二人を照らし、来場者の数が少しずつ疎らになっていく中、まもりが園馬に問いかける。
「うん。……そうだったね」
朱色に照らされた園馬の横顔はいつもより少しだけ大人びていた。窓から外を眺めるその顔は、大学で酸いも甘いも嚙み分けたまもりよりも――ともすれば年上に見えてしまうほど。
「先生はさ……ずっと、自分が教師になるなんて相応しくないと思っていたよね」
「……そうだな」
――この学校に赴任したばかりのまもりは、まるで人生に絶望したかのように昏い顔をしていて……今にも学校を辞めてしまいそうな雰囲気に満ちていた。
教育界隈の闇や風習に揉まれればそういう表情になる教師も出てくるが、彼女はまだ教師になりたての段階からそんな表情を浮かべていたのだ。
「……周りのヤツらと何か違うなって思ってたんだよ。ほら、アタシってこんなんだしさ。他に教師になった奴らはどいつもこいつも真面目そうで、人間が出来ててさ……ガキ臭ぇアタシとは大違いだった」
それはモラトリアムから羽化できなかった人間の持つ、疎外感や孤立感だ。学生生活で大人になりきれなかった彼女は、心が子供のまま大人たちの世界に放り込まれてしまった。
自分は周りより劣っていると思い込み、立派な大人になんかなれないと自分を責め……教師という他人の人生を預かる仕事に向いていないと気づいたのだ。子供の心を持った自分が子供を教育するなんて相応しくないと思い、教師を続けていく気力が失われていた。
「描いていた理想と自分の能力に乖離がありすぎて、どうしようもなかったんだ。やっぱり教師なんて止めて、他人に迷惑を掛けない仕事でも探そうって、あん頃は本気で思ってた。……そしたらオメーが……」
「うん、声をかけちゃったね」
そんな彼女に目をかけて、学園祭実行委員会に誘ったのは園馬だった。
最初こそ嫌がっていたまもりは、彼の情熱的な誘いに根負けし、教師生活最後の想い出として手伝いをすることを承諾する。
……自分しか見えていなかったまもりは……その活動を通じて、初めて自分が育てていくべき生徒と向き合ったのだ。
「嫌がってたくせに、入ったら入ったで一生懸命働いてたよね。もっと適当にサボるかと思ってたのに」
「バカお前、一度引き受けた仕事を半端で片付けられるかよ。アタシはダメな教師だから、一生懸命やらねぇと一人分に足りねぇっての」
「……いや、そんなことなかったよ。誰よりも頑張ってくれたもの」
これを最初で最後の仕事にしようと決めていたまもりは、寝る時間を削り、多忙な教師生活の合間を縫って委員会活動に協力していた。ただ委員会を監視するだけの役割に留まらず、もはや委員会の一員と呼んでも過言ではないほどの働きを見せていた。
だからこそ委員会メンバーに好かれて――この居心地が悪い学園の中で、彼女は居場所を見つけられたのだろう。全てを諦めていた彼女が手にした、初めて一生懸命になれる場所だったのだから。
「だからさ……先生に見せたかったんだ」
流れるような動作で、園馬が窓の外を指さした。まもりの視線が彼の指先を追い、窓の向こうに広がるその光景を目撃する。
本館の窓からは、部活動の部室が並ぶ別館が見えていた。
部活動単位でも出し物があるので別館も賑々しく盛り上がっている。本館に負けじと人波がせめぎ合い、活気が溢れ、笑顔が満ちていた。
それはとても幸せそうな光景だ。入学パンフレットに載せれば来年の入学希望者が増加すると断言できるほどに、誰もが楽しい時間を享受し、その建物は幸福の坩堝と化している。
「……ねえ、先生。すごいと思わない? ……この光景は、僕たちが作ったものなんだよ」
もちろん他のみんなもいたからこそだけど――と彼は付け足したが、きっとそれは些末なこと。
あの日あの時この場所で、まもりが委員会を手伝う決意をしたからこそ、教師を辞めていなかったからこそ、寝る間を惜しんで努力をしたからこそ――。
二人が選んだ選択肢が、今に繋がっている。踏み出した一歩が、この幸せに繋がっている。
「先生が頑張ったからこそ、今、みんなが笑顔でいるんだよ」
「……オメーだって、頑張っただろ……」
「うん。……だからね、僕たちはちゃんと頑張れたんだよ」
教師なんて向いていないと思い、学校という場から逃げ出そうとしていた。逃げたその先に、自分が幸せに生きられる場所があると根拠もなく思っていた。
しかし――この光景を見て、同じことが言えるだろうか。
ここが幸せに生きられる場所だと思わずにいられるだろうか。
「先生は教師なんて無理だと言ってるけど、きっと無理なんかじゃないんだよ。だって他の人たちの為にあれだけ頑張れたんだもの。……今日、こうして生徒たちが楽しそうに笑っているのも先生のおかげなんだよ。だから、教師に向いてないなんて誰も思うはずがないよ」
「…………………………オメーは、これを見せるために……アタシを誘ったのか」
「うん。……その目で見て、考え直してほしかったんだ。本当に学校を辞めてもいいのかなって」
自分がダメな奴だと思い込んで生きていた頃は、世界は闇に満ちていた。しかし少しだけ努力をして前向きに生きていけば、暗がりの世界でも光を見つけられる。
きっと、その仄かな光を辿っていくのが人生なのだ。希望や夢、達成感や喜び。そんな暖かい気持ちを拾いながら、人々はこれからを生きていく。
目の前に広がるその光景は、彼女を導く光の顕在。努力の証であり、達成感を描いた一枚絵なのだ。
「……」
まもりはこの学校に来てから初めて……教師になって良かったと思う。
もし今後再び心が折れて、教師を辞めることになったとしても――今日の光景を思い出して後悔せずに辞めていくだろう。既に彼女は見つけたのだ、教師になったからこそ得られた光を。
「こんなことまでして、オメーは……気ぃ回るヤツだな……ホントに……」
さざ波に揺らめく感情を悟られないように、まもりはフラットな語調になるよう努めながらそう言った。しかしそれでも語尾が少しだけ震えてしまったことを園馬は聞き漏らさない。
……聞き漏らさないが、聞こえなかったふりをして、彼は向日葵のような笑顔を浮かべた。
「そうなんだよね! 僕、配慮の擬人化だから! どう、善き生徒でしょ。惚れてもいいんだよ!」
「バカ、お前……」
感傷的になったまもりを慰めるように無理矢理テンションを上げた園馬に、優しい視線を向けて。いつものような口調を取り戻し、まもりは苦笑する。
「変なこと言ってないで大人しく学生恋愛してろって。……年上狙ってんじゃねえよバカ。そういうのは、もっと大人になってから……」
そういう生意気なことは大人になってから言え。それは彼女が園馬の告白をあしらう時に多用していた流し文句だ。
しかし、途中まで言い放ったところで――彼女の口が止まる。
「…………」
大人になったら。……そんな言葉がとても白々しくて、風邪のように喉が掠れる。
どうしてだろう。
心の中で気づいてしまっている。彼は大人になることができないと。
「………………………」
それはまるで、夢の中でこれが夢であると気づいた時のよう。この世界が現実ではなく虚構であることに気づき、全ての物事を俯瞰的に見ることができる一瞬のようだった。
違和感に気づいてしまった彼女は、少しずつ現実を取り戻していく。
園馬と学園祭に出られるわけがない。彼は死んだのだ。7年前、まもりは一人でこの学園祭を回り――彼の死という事実にまだ向き合えず、彼と共に作り上げたこの光景に気づかなかった。
あれだけ楽し気な雰囲気に包まれていたと言うのに、彼女にとってはまるで地獄のような学園祭だったのだ。
世界から園馬がいなくなってからの7年間の記憶が蘇り、彼女は全てを理解する。
これは夢だ。現実に干渉することのできない、都合のいい作り物だ。
「……そうか。ここは……現実じゃねぇのか」
「………………」
何もかもを思い出したまもりを見て、園馬は寂しそうに笑った。
虚構の世界が揺らぎ、水滴によって滲んだかのように世界がぼやけていく。あれほどまでに色彩豊かだった学園祭はセピア色になり、通りすがる人々も空を流れる雲も、時が止まってしまったかのように動かなくなっていた。
役目を終えた世界はもう、色を取り戻せない。祭りの終わりのような一抹の寂しさだけがあるばかり。
「……うん、そうだよ。ここは夢の世界。……僕たちの約束を叶えるための、うそつきの世界だよ」
もしもこの世界から帰らないという選択肢があったなら、現実と天秤にかけて――彼女は悩み続けただろう。それくらいに価値のある幸せな世界、ここは紛れもなく彼女にとっての理想郷なのだ。
でも永遠の世界ではない。いつか現実に帰らなければならない。
どれだけ言葉を重ねても、どれだけ想いを伝えても、ことごとくが手遅れな世界だ。もう園馬は死んでしまった、結末は誰にも変えられない。
しかし虚構ではあるが――約束を叶えることならできる。
共に学園祭を回る、そんなささやかな約束の為だけにこの世界は在るのだ。
「なんで……」
まもりが天を仰ぎ、小さい声で呟いた。
「なんで死んじまったんだよ、園馬……」
「………………」
園馬は言葉を返さず――ただ、微笑んでいた。
「お前がいたからアタシは教師を続けられたんだ。お前みたいな生徒がいたから……少しでも立派な教師に近づかなきゃって思って、あんだけ努力して……でも……」
まもりの手が園馬の肩を掴む。その体はどこまでも希薄で、存在感が薄くて、こうして掴んだ手が体をすり抜けてしまいそう。
「お前がいなくなっちまったら、何の意味もねぇだろ……ッ!」
俯いた彼女の表情は園馬にだって窺えない。しかしその頬に一筋の涙が伝っていた。
園馬冬也は彼女を教師として留まらせた相手で、弟のように可愛がっていた相手で、教師として努力することを教えてくれた相手で――世界の誰よりも失いたくなかった相手。
この男に出会えたから、彼女の世界はこんなにも明るく染め上がったのだ。
「………………ごめんね、先生」
誰も悪くなんかない、誰も責められない。だからこそ感情をぶつけられる相手が見つからなくて、彼女の感情はいつまでも胸中で渦巻くばかりだった。
あれから7年がたった今、夢という名の奇跡の中で、渦巻く感情は涙となって零れ落ちる。
「……」
まもりが深く息を吸い、一瞬だけ発現した弱さを吐き出していく。
再び会えたのだから、涙を見せたいわけじゃないのだ。大人として見せたいのは、弱き一面なんかではなく――もっと別の強い自分なのだから。
「お前が死んでから……あの日記帳で、お前の本心を知ったよ。教師として立派に勤めて、生徒たちを助けられるような大人になってほしいって……最期に、お前は書いてたよな」
「……うん。それだけが気がかりだった」
「……この7年間……ずっと頑張ってきたんだ。自分なりに精一杯やってきて……頑張ってきたんだ……」
「…………うん」
「……アタシは……お前の理想の教師になれたかな……?」
「………………」
園馬は言葉で返答しようとしなかった。ただいつものように溢れんばかりの笑顔を浮かべて、まもりの顔をじっと見つめる。
彼を知る者にだけ伝わる肯定の意だ。言葉では表現しきれない感情を、彼は表情に乗せてまもりへと伝えていく。
「……そうか。それは……よかった……」
子供が作り上げた砂の城のように、この学園から砂状の塵が舞い散っていく。教室も人々も廊下も、何もかもが黄金色の粒子となって世界に溶けていく。
役目を終えた夢の世界が虚構へと消えるのだ。セピア色に染まるかつての学園祭と、現実には帰れない園馬と共に。
太陽が少しずつ消滅していくかのように世界が暗くなっていく。それはまるで夢に落ちていくかのよう。
夢から醒める瞬間は、夢に落ちる一瞬と同じだった。
「……ねえ、先生。僕は……先生が誰よりも努力して、この学園祭を成功させようとしていたのを隣でずっと見ていたよ」
「…………」
「そんな先生のことを、気づいたら目で追っていたんだ。一緒にいると楽しかったし、ずっと笑っていてほしいって思ってた」
全てが消えていく、園馬の体だって世界に溶けていく。
しかし最後の言葉だけは明瞭に、夢と現実の狭間に響き渡る。
「……先生のことが、好きでした。…………許されない恋だと分かっていても、世界の誰よりも大好きだったんです」
幾度となく繰り返されてきた愛の言葉は、いつもよりも真剣で――心を穿つ。
しかしまもりは数秒間の間を置いてから、大人として相応しい表情を浮かべて彼の顔を見据えた。
「悪いな、園馬。アタシは大人だ。……お前の告白は受けられない」
大人として教師として相応しく、子供との間に正しい線引きをする。少し寂しいが、園馬はそんな彼女の一面が大好きだった。
情に絆されず、夢の世界だからといって規律を破らない。最後の最後まで、大好きな彼女のままでいてくれたのだ。
「……………………うん。そうだよね。……最後まで先生らしくてよかった」
そんな様子を見て、園馬は安堵して――笑う。
「……それじゃあ仕方ないかな! まあいいさ、僕のいる天国ではもはや両手に花だからね! 異性だってより取り見取り、これから死後の世界で酒池肉林をご賞味いただくから! いつか死後の世界で再会することがあったら凄まじい侍らせように驚くがいい!」
「……」
酸いも甘いも嚙み分けて、この7年間でまもりは随分と大人になった。子供の嘘くらい簡単に気づけるような人生経験を積んできて、それが優しい嘘だと言うことを看過する。
相手を気に病ませないための嘘ならば、それに乗るのも大人の矜持だ。
「おう、もう好きなようにやっちまえ。早死にしたんだから、そのぶん豪勢に楽しんじまえよ」
「うん! 贅沢を覚えた僕はもはや止まらないから」
「いつかアタシもそっちの世界に行くだろうから、そん時は酒とか用意しといてくれよ。……現実じゃできなかったんだ、せめてあの世で飲み交わそう」
「任せて、いい感じの美酒を用意しとくよ」
既に世界は黒ずんで、まもりの視界は塗り潰されている。
全てが見えなくなってしまった世界の中で、彼らは一瞬、言葉を彷徨わせて――。
「……それじゃあ、またな」
「うん。……また、いつか」
現世では叶わなかった、別れを告げる。
7年間も燻り続けた約束は、たった一夜の幻想の中で。
薄れて、消えて、無に返る。
幻想は幻想へ、夢は夢へ。
……そして、想いを胸に――現実へ。
「…………………………」
鳥の夜鳴きと共にまもりは意識を取り戻し、薄暗い職員室を視界に入れた。
自分がいつから眠っていたのか、それすら分からないほどの深い眠りだった。それはたった1時間にも満たない時間だったが、まるで1日中眠り続けていたかのよう。
……長い夢を見ていた。7年前の学園祭を園馬と回るという、絶対にありえなくて現実的ではない夢だ。
流れゆく光景も交わした言葉も全てを憶えている。夢の内容を思い出すと言うよりは、かつて本当にあった出来事を思い出すかのような――それほどまでに鮮明な夢だった。
しかしそれでも夢は夢。現実には何の干渉もできない幻想でしかない。
「……」
けれども、彼女の心を苛み続けていた楔が取れていた。
果たせなかった約束と、伝えられなかった想い。幻想の中とはいえ全てをやり終えた彼女は、長いこと彼女自身を縛り付けていた呪縛から解き放たれて――ようやくあの日の死を受け入れる。
もう、彼女は迷わないだろう。これからの人生を、これまでの軌跡を。
「………………ん」
その時、彼女は自分の机の上に園馬の日記帳が置いてあることに気づく。
何回も何回も見返して、何度も何度も涙を零して、そのたびに自分がどんな教師になるべきかを戒め続けて――いつしかこの本は、彼女の描く教師像を綴ったバイブルのようなものになっていた。
しかし改めて今、彼女は日記帳を開き、あの頃の園馬と対面する。
使命感に駆られることもなく、己を戒めることもなく。彼女は再び、園馬の綴る言葉を最初から読み返していった。
これからも、何度だってその日記帳を見返すだろう。
だけどきっと、もう涙は流さない。
約束を果たすことができたのだ。もうこの本に後悔や無念など残ってはいないのだから。
……ただ過去を懐かしむための思い出として、1ページ、また1ページと捲っていく。
本を開くたびに何度だって思い出す。
どうして自分が教師を続けているのか、どうして教師を続けられているのか。
……これからだって、何度でも。
自分の初心を思い出しながら、彼女は生きていく。
理想の教師として生きるために、何度でも、何度でも。
一夜の奇跡を終えた俺とハルは、月と街灯だけが照らす夜の帰路を歩いていた。
「いやー、久しぶりに魔法使うと疲れるわね。脳の一部を酷使した感じだわ、もう寝たい」
「勉強とはまた違った集中力が求められるもんなあ」
魔法を行使するためには、無人界では決して使うことのない脳の部位を酷使する必要がある。日頃からあまり鍛えない部分の筋トレをした時のような、謎の疲労と妙な疲れが体に残っていた。
しかしそれでも、心には不思議と温かい達成感が満ちている。きっとこの世界に来てから初めて何かをやり遂げたからだろう。
……魔法をあんな風に使うなんて、化物として生きていた頃では考えられない行動だ。俺たちにとって魔法は誰かを傷つけるためのものでしかなかったのだから。
「…………」
月を見上げてふと思う。
初めてこの世界に来た時、俺はハルと誓い合った。俺たちは化物だけどこちらの世界では人間らしく生きていこうと。普通の人のように誰かを案じ、慮り、助けになって。……そんな化物とは程遠い日々を生きていきたいと。
俺たちは、あの時願ったような毎日を生きていけているのだろうか。
ちゃんと人間らしい毎日を過ごしていると、あの頃の俺たちに胸を張って言えるだろうか。
きっとまだ、自信を持って言うことはできないだろう。しかし今日、少しだけその片鱗が見えた気もする。
人間に続く階段を一段だけ上ったような、そんな感覚は確かに胸の中に芽生えていた。
「これで杖が手元に残っていれば万々歳だったんだけどねぇ」
謎の人物から与えられた二本の杖は、魔法を行使し終えた途端に砂となって消え失せてしまった。一度は魔法を取り戻した俺たちだが、また魔法が使えない魔法使いに戻らざるを得なくなってしまったのだ。
だから俺たちは再び、日常に戻っていく。
……しかし最大の疑問は残ったままだ。
あの杖は誰が置いたものなのか。何故俺たちに魔法を使わせようとしたのか。どうしてまもり先生と園馬の約束を果たさせようとしたのか。
今はまだ、答えは明かされない。俺たちはこの世界で何が起こっているのかを知らないのだから。
俺たちが全てを知るのは、まだ先のこと。
この世界で裏側で蠢いている何かを知り――全てを理解していくだろう。
そして、その時こそ、この世界は――。




