7章 セピア色の感情
「電話っていついかなる時も緊張するよな……なんか電話の時だけ聴覚の認知機能が雑魚になるんだけど、これ全人類共通なのかな……」
「クロ、がんば!」
その後、過去の委員会活動について詳しく調べてみようという流れになった俺とハルは、まもり先生からかつての委員会メンバーの連絡先を聞いて、空き教室で電話をかけていた。
まもり先生が事前に俺たちから連絡が行くことを伝えてくれているとはいえ、知らない年上に突如として電話をするのは途轍もない緊張を誘発する。ハルと違って俺は対人能力にたけているわけではない、できれば安定した人間関係でぬくぬくしていたい年頃なのだ。
しかしハルに電話を任せてしまうと無礼を働いてしまう可能性があるし、そもそもアナーキーなハルを電話口に出す行為自体が礼節を欠いているので俺が電話するしかない。
夕焼けによって茜色に染まった空き教室で自分の席に座り、コール音を聞きながら相手が電話に出るのを待つ。ハルが俺の机に座って、がんばれ~と気が抜けるような応援をして下さっているが、目の前に置かれたケツが邪魔なので降りてほしいのが本音だ。
そんな時、突如として電話が繋がった。思わず俺は立ち上がり一礼してしまい、ハルに容赦ない頭突きを食らわせてしまう。
「あっ、お、突然お電話してしまい大変申し訳ございません。私、林ヶ丘高校一年の高坂黒と申します」
『お~、まもり先生から聞いてるよ後輩クン。あたしは真中友美、今はシステム系のフリーランスやってるよ~』
思ったよりフランクな口調で挨拶されて少しだけ緊張が和らぐ。もし厳格な人だったら臆してハルに電話をパスしていたところだ。
「へ~、無所属の槍騎兵かあ」
フリーランスを自由の槍と直訳したハルが感心したように唸っている。説明するのが面倒くさいのでそのままにしておこう。
『なになに、学園祭実行委員会が復活したんだって? いい心がけじゃ~ん、先輩として色々質問に答えてあげるよ~?』
「ありがとうございます。ええと、それじゃあ早速ですが、当時の委員会の体制について……」
事前に委員長と相談して作った質問リストを見ながら、一つ一つ質問していく。今の委員会や学園祭について詳しくないので違いはあまり分からないが、とにかく学園祭が楽しいものであるということだけは色濃く知ることができた。
学園祭まであと2週間。……俺たちはアイという女子から情報を得るために委員会に入ったのだが、話を聞いているうちに段々と学園祭に参加してみたいという気持ちが沸々湧き上がってくる。
しかし、それまでこの世界にいることができるのだろうか。俺たちはいつ帰還することになるか分からない身、先行きが分からないのだからあまり未来の予定を立てるのは推奨されないだろう。
そんな風にして質問を続け、時折脱線し、世間話に花を咲かせて。気づけば夕焼け空は夜闇と混ざり、マーブル状のように溶け合っていた。
『まもり先生経由で話が来てるってことは、あたしたちの代の委員長についても聞いてるんでしょ?』
世間話は終わり、俺たちの話はかつて委員長を勤めた男の話題に移っていた。
「ええ、園馬冬也さんですよね。慕われてた方だったみたいですね、運営日誌を見る限りそう感じました」
『うあ~、マジか、まだあの日誌残ってるのかぁ……。まあそうだね、明るく元気なみんなのリーダーだったよ~。私含めメンバー全員集めて委員会を作ったからねぇ、あの行動力たるや凄まじいものがあったわ』
日誌からも感じ取れていたが、やはり同じ委員会に属していたメンバーからの評価は高いらしい。俺やハルと同じ一年生だとは思えないほどだ。
『あと園馬君と言ったらアレだよね、まもり先生への激烈なアプローチ! 週に1回は告白ってたもん。ある意味あの学校の名物になってたよアレは』
「え!? まもり先生ってコクられてたの!? ……ですか!?」
思わず敬語がすっ飛んで行ったので慌てて取り繕うも、『ギャ!』と携帯電話の向こうから短い悲鳴が聞こえる程度には大声を出してしまった。
『えっ、まもり先生から聞いてないの!? ……や、でもそっか、わざわざ自分から言わんかそんなの……そっか……』
あまりに初耳すぎて寝耳に熱湯をかけられたような気分だが、思い返してみればまもり先生の態度には不自然な点が多かった。どこか情緒的というかしっとりしていたというか、まるで死に別れた旦那の話をする未亡人みたいな艶やかさだったのだ。
『あ、でも、でもだよ? まもり先生の名誉のために申し上げるとキッパリ拒否ってたからね、教師と生徒の恋愛はありえないって! アレは園馬君の一方的なアピールだったよ、断られてもあんまりめげてなかったけど……』
「……そういう関係だったんですね。園馬さんのことを話すまもり先生の態度がおかしかったんですけど、なんとなくスッキリしました」
その時、隣にいるハルが俺の服を引っ張ってくる。そして小さな声で「ついでにアレ聞いて、アレ!」と催促していた。
アレとかいう非常に抽象的な言葉でも俺には内容が理解できるが、ホントにそれ聞くの?みたいな表情を浮かべてしまう。あんまり人の心の柔らかい部分に触れるような趣味はないのだが。
「えーと……失言ついでに聞きたいのですけど、まもり先生と園馬さんって何か約束してたりしますか?」
約束を守れという、まもり先生が思わず呟いてしまった言葉。その意味合いを汲み取ろうと質問を投げかけてみるも――、
『え、何それ? 約束してたの? それは……聞いたことないかな』
この反応だ。心の底から初耳だという語調だった。
『うーん、もしかしたら日記帳には書いてあるかも。運営日誌とは別のヤツね。学園祭の運営についての個人メモとかも大量に書いてあったから、もしかしたら学校にあるかもしれないね。私も何度か読んだことある……っていうか、当時はもはやみんなの日記が図書館の如くご自由にお読みください状態だったし』
「プライバシーとか駄々洩れですね」
『今の子もそうでしょ、SNSとかバシバシやってるくせに! 委員会内で完結してる分、私たちの年代のほうが幾分マシだよ!』
やってるくせに!と言われても、俺もハルもそういったソーシャルなサービスについては後期高齢者ほどの知識しかないので、曖昧な笑顔を浮かべながら模糊な苦笑をお届けする他ない。もしハルが世界と繋がってしまったら大変だ、顔だけで覇権を取ってしまう。
『……ま、そんな感じで愛多き男だったわけよ、彼は。ていうかそれで気になったんだけど、今の子ってどんな恋とかするの? あたし若い子のあられもない日常模様を聞いて慈愛の目を向けるのが好きでさ~』
「ハル、悪いがパス。現役女子高生の口から由々しき学園事情を詳らかに語ってくれ」
「いいでしょう。まずは鶴ヶ島鳳輔という男がこの世に生まれ落ちてしまった瞬間から語るとするわ」
ハルに替わった瞬間、間違いなく現代高校生の生態系が誤解されるトークを展開しはじめる。あの性的外れ値を基準として説明するのはやめていただきたい。
「……」
俺の電話を握り締めながら熱弁しているハルのトークを聞き流しつつ、窓から空を見上げる。先ほどまで夕暮れと夜の境目を表していた空は、気づけば星が見えるくらいの黒に覆われていた。
園馬委員長が残した日記帳。あまり人の日記を読むのは快いものではないが、元々閲覧自由だった上に学園祭のメモまで残っているとなれば話は別だ。現委員長が俺たちに下した命令は過去の学園祭の情報を集めること、それも大切な資料の一つだろう。
それが学校のどこかにあるのかは分からない。死んだ人の書いていた日記帳なのだ、もしかしたら遺族が引き取っていて徒労に終わるかもしれない。
しかし探してみる必要が出てしまった。……あまり気は進まないが。
「うーん……無いなあ。クロくん、ホントにここにあるのかい?」
「絶対あるって確証はないんですよね……」
翌日の放課後、俺たちは資料編纂室を物色して園馬の日記帳を捜索していた。ちなみにこの場合の『俺たち』とは俺とハルの二人ではなく、アイ、鳳輔、委員長の三人も含まれている。
最初は俺とハルの二人きりだったのだが、暇を持て余したと思われる鳳輔が加わり、鳳輔の様子を見に来たアイが加わり、面白そうな気配を感じた委員長が最後にやって来たという流れだ。そういう流れもあり、狭苦しい部屋に5人もの委員会メンバーが集結して一冊の本を探す羽目になっているのである。
しかし探せども日記帳らしき冊子は出てこず、その代わり仰向けになって死んでいる小虫が見つかるばかり。その度にアイか委員長がちょっとした悲鳴を上げ、ハルが指でつついて転がし、俺に怒られて手を洗っている。
そんな中、鳳輔が古めかしい卒業アルバムを片手に俺を呼ぶ。
「おいクロ、見ろこれ。卒業アルバムの山だ。この中からめぼしい子にアタリを付けて今夜の夢で巡り合おうぜ」
「なんだそのロマンティックな特殊技能は」
「ねえクロくん、それよりこれを見てくれないか。老朽化による建替えが行われる前の校舎の写真だよ、大学デビューした子の垢抜け前みたいで興奮冷めやらないね……!」
「アイ、悪いんだが委員長がちょっと興奮してるから引き取ってくれないか」
「またバグっちゃったかぁ」
捜索開始から1時間も経てば、総員の心に諦めの心が芽生えだす。段々と与太話と無駄話が増え、そこかしこから雑談の声が聞こえてきていた。
一応有用そうな資料が何点か発見されたので、無駄な取り組みだったという結論にはならないだろう。元々遺族が引き取ったという可能性もあったので見つからないのは覚悟していたが、目当てのものが見つからないままでは奥歯に物が挟まったような居心地の悪さがぬぐえない。
「……んぁ? なァーにやってんだオメーら、あんまりホコリ舞い上がらせんなよ」
――そんな中、不審そうな顔をしながら現れたのはまもり先生だった。学園祭実行委員会への資料を持ってきたのだろうか、小脇に不透明なクリアファイルを抱えている。
「あ、丁度いいところに」
膝や手に付着していたホコリを払いつつ、ハルがまもり先生へと近づいていく。
「あ~? 先に言っとっけど、アタシぁ手伝わねぇからな。このあと副顧問として部活に顔出さなきゃならんの」
「そうじゃないわ、先生に聞きたいことがあるの。園馬って委員長の話を昨日したじゃない? その人が日記帳を書き残してるらしいから探してるんだけど、先生知ってる?」
いきなり所在を確認してもなんでそんなもん探してんだみたいな顔をされそうなので、俺が隣から『日記帳に学園祭の運営メモがあるって真中さんから聞いたので』と補足する。
問いかけられたまもり先生は思考を巡らせるように斜め上を見て、「ンー……」と小さく唸った。
「職員室にあっけどよぉ……なに、そんなモン見たいのか? 役立つんかアレ」
「過去の委員会業務について知ることで現在をより良くできると思いますので」
「あァー……まァ、うーん……そういう理由なら仕方ねぇけどよ……。んー……ちょっと待ってろ」
億劫そうに腰を叩きながらまもり先生が部屋を出て、3分ほどの間が空き、一冊の薄いノートを手に持って戻ってきた。
ノートの表紙には隆々な筆跡で『園馬冬也』という名前が書かれている。園馬が愛用していたのか、表紙から中身まで全てがくたびれているようだった。
「コレ、アイツの日記帳。読み終わったらアタシのとこに持って来いよ、さすがにソレをこんなとこに置くわけにはいかねぇから。あと生徒会から委員長宛ての確認書類もあっからこれも渡しとくわ」
要件を端的に済ませて、まもり先生はさっさと部屋を出て行ってしまった。その足取りは若干急いている、部活動に間に合うかギリギリなのだろう。
資料編纂室に残された俺たちは、日記帳を円卓の真ん中に置き、5人で取り囲んで見下ろす。学園の過去を知ることができるためか、委員長が少々興奮しているようにも見えた。
「ねえねえ、さっそく中身を見てみようよ。有用なアイデアがあったらどしどし取り入れちゃうからね、各々よさげな案を見つけたら積極的に口に出していくこと!」
「なにっ、口に出していくだと……!?」
「たまげるなバカすけ」
委員長と鳳輔とアイの3人は、この日記帳の中に秘められしものについて知らない。彼らが知っているのはこの本に学園祭運営についてのメモが書かれているということだけで、まもり先生と園馬が交わした約束について書かれているかもしれないと言うことを知らないのだ。
だからきっと、俺とハルの心持ちは他の3人とは違うだろう。委員会活動として純粋に取り組むことができず、僅かな罪悪感と好奇心に駆られている。
「じゃあ、読んでいきますよ」
発起人として俺が代表となり、日記帳を捲っていく。
確かに真中さんの言う通り、その日記帳には園馬が委員長として培ってきた知識と経験が文章化されている。手書きのメモだけではなく当時の写真まで貼り付けられ、冒頭数ページだけでも既に委員会活動としては有用な資料だ。
そんなメモの中に時折、彼の個人的なことが綴られている。注意深く見なければ文章の流れに紛れて見失ってしまいかねないほどのささやかな文字で、彼の心情が鮮やかに描き出されていた。
その断片を紡ぎ合わせたその先に見えてくるのは。
彼とまもり先生が出会い、恋に落ちて、この世界から消えていくまでの物語。
『初めて先生のことを知ったあの日のことを、きっとあの人自身は記憶していないはずだ』
『廊下ですれ違った先生は、誰よりもつまらなさそうで、この学校に何の希望も持っていないような顔をしていた』
『まるでここが地獄の底であるかのように塞ぎ込んでいたこの人に、笑顔を取り戻してもらいたいって思ったんだ』
学校に居場所を見つけられなかった彼女を必死に口説き倒し、学園祭実行委員会へと誘って――顧問のような立ち位置で運営に関与してもらうことにした。
そこまで詳しいことが書かれているわけではないが、きっと難航したのだろう。誘い始めてから承諾を得るまで、実に4日分のページを経ていた。
『最初こそあまり乗り気じゃなかった先生だけど、委員会のみんなと仲良くなっていくごとに少しずつ心を開いていってくれて』
『いつしか笑顔を見せてくれるようになったんだ』
『……そして気づけば、その笑顔を目で追っている自分がいることに気づいた』
どうしてまもり先生は塞ぎ込んでいたのか、それは明示されていない。
しかし彼らは少しずつ少しずつ日常を積み上げていって、その果てに小さな想いに気づく。
『口では面倒だなんだと言っても、遅くまで職員室に残って委員会のための調べ物をしてくれて』
『一年生なのに実行委員会メンバーとして活動している僕たちのことを心配してくれて』
『ある日、僕は彼女に想いを伝えたんだ』
教師と生徒の恋など許されるはずがない。当然まもり先生は彼の告白を断ったが、彼はめげなかった。
二度目の告白、三度目、四度目。気づけば挨拶のように愛を伝え、まもり先生にはまたかと流されていく。
『別にそれでもいいって思ったんだ』
『恋が叶わないことよりも、想いが伝えられない方が辛いって知っているから』
時は流れ――木の葉舞い散る秋が来る。
切望の学園祭まではあと少し、カレンダーを捲るごとに学園祭実行委員会は忙しくなっていく。
『もうすぐ学園祭、僕たちの努力が実る日だ』
『……一つ、僕は先生と約束をした。終了直前の1時間だけ、学園祭を一緒に回ってくれる約束だ』
『先生が自分のことを立派な教師になれないと思っているのは知っている。だけど、それでも先生でいてほしいんだ』
『生徒と距離感が近くて、同じ目線で悩みを聞いてあげられると思うから』
『そして、教師として立派に勤めて、生徒たちを助けられるような大人になってほしい』
『僕たちはもう、まもり先生が立派な教師であることを知っている。それをこの学園祭で伝えるんだ』
たった一つの小さな約束は、もうすぐ成就しようとしていた。
……しかし、そこで日記は途切れる。
学園祭本番の数日前、そこで彼の人生は狂ってしまった。
誰かを助けるために大怪我を負った彼は、もう学校に戻ってくることなんかできなくて。
学園祭に参加することも、約束を果たすこともできなくなった。
………………それでも、この日記帳には続きがあった。
病院にいる彼に、誰がこの日記帳を渡したのだろうか。
再び日常生活に戻ってこれるよう、今までの習慣を続けさせようとしたのか。
彼自身がこの日記帳を持ってくるように頼んだのか。
それとも……この日記帳を、彼の遺言として遺そうとのか。
それは誰にも分からないが、ここに彼の気持ちが綴られている。
鉛筆を持つことすら困難そうに、字は縒れて歪んで。
最初は病院内の小さな出来事や、体の経過などを書き記して。
幼稚園児の字よりもぐしゃぐしゃになってしまった文字は、やがて慟哭のように心情だけを書き記していって。
『約束、まだ叶えてない』
『先生に伝えられていない』
『僕たちの』
『学園祭にいきたい』
『もう一度会いたい』
『死にたくない』
それが最後の言葉だった。
最後の1ページは、雨垂れが滴り落ちたかのように滲んでいた。
まるで誰かが涙を堪えきれなかったかのよう。
……それは誰の涙なのだろうか。
この文章を書いていた誰かのものか、それとも……この日記帳を持っていた、誰かのものか。
俺たちには決して分からないが、明白なことが一つだけある。
これからもずっと、彼らの約束は果たされないままなのだ。
だから――いつまでも、忘れられない。
暮れなずむ街並みと消えゆく太陽。世界は鮮やかなオレンジによって染め上げられ、人々の活気も時の流れと共に少しずつ沈みゆく。
日記帳を読み終えた俺たちは帰宅するために、置き忘れていたカバンを取りに教室へと向かって歩いていた。
「おかしいわねぇ、確かに委員会に行くときに持っていったはずなんだけど……」
忘れた張本人のハルは腕を組みながら首を捻り、記憶にございませんとでも言いたげな渋い顔で唸るばかり。しかし日頃の行いがあんまりなので他責しようとしているようにしか見えない。
「も、どっちでもいいからさっさと回収して帰るぞ。それよりカバンに貴重品とか入れてないだろうな、お小遣いが盗難されたとしても我が家の財政的に補填予算はないぞ」
「ないはず~。教科書とノートくらいしか入ってないから、むしろ盗まれた方が宿題をやらない言い訳になって好都合だわ。無くなっちゃったことにしちゃおうかしら」
「しちゃおうかしらじゃねえよ、ただちに猛省してくれ」
そして、茜色の廊下を歩いていた俺たちは教室へと辿り着き、ハルの机の脇にカバンが掛けられているのを目撃する。ほらみろと視線で訴えかけてみるも目潰しをされそうになり、ハルはどこか不満げな足取りで机に向かって歩いていく。
しかしハルがここまで自分の記憶に拘るのは珍しい。いつもは「え、そうだったかしら」と自分の記憶すら信用していない彼女なのだが、今回ばかりは自信があるのだろうか。
まあいくら自信があったところで、教室でカバンが見つかった以上は言い逃れなどできるはずも――。
「………………え?」
ハルの低い声が響く。
いつもの能天気極まりない声とは比べ物にならないほどの素の声は、俺に違和感を覚えさせるには十分だった。机を見下ろしたまま動かないハルに近づき、彼女の肩越しに覗き込んで同じ視界を共有する。
いつもハルが使っている机には、教師の逆鱗に触れそうなほど低品質な落書きが幾つも書き綴られている。机の脇にはくだんのカバン、椅子にはどこから拝借したのか分からないペラッペラの座布団。
……そして机の中には、杖が2本。
「………………………………」
二人揃って言葉を失い、無意識的に固唾を呑む。張りつめた空間に時計の針が響いて――俺たちの耳孔を満たし、断続的な音が時の流れを失調させる。静かなる混乱は冷や汗と成りて俺の背中を冷たく染めた。
ハルがゆっくりと手を伸ばし、机の中から杖を取り出す。
……魔法界で作られた杖特有の、表面に張り巡らされた薄い魔力の層。表面に刻まれた丸い紋章。ゼロのようにもオーのようにも見えるその形状は魔法界のどのメーカーとも適合しないが、しかし、それでも……これは魔力を行使することができる杖なのだ。
無人界では決して手に入らない魔法の杖が、今、俺たちの目の前にある……。
「………………クロ、これ持ってみて」
杖の表裏を確認したハルが、俺の方へ杖の先端を向けてくる。少しだけ臆しながらも杖を受け取ると、その瞬間、握った手のひらを介して杖の情報が流れ込んできた。
これは確かに魔法界で作られた杖だ。魔法を行使することもできるだろう。
しかし非常に高度な制限が掛けられている。杖の中に残存している魔力しか行使できず、それが失われれば消え去る制約付きだ。
制限の複雑さはまるで違うが、これは魔法界の学校で使用する杖と同じようなものだ。初めて魔法を使う子供たちに好き勝手につかわせるわけにはいかないので、使用可能な魔法を制限する。この杖はその最上級系、最初から特定の魔法しか使えないように作られた特別な一品なのだろう。
その杖に秘められし魔法の名は――。
「変容魔法と幻想魔法……」
物体の姿形を変える変容魔法と、幻覚のような景色を作り出す幻想魔法だ。どちらも諜報や戦闘には使えないので、この世界にいる魔法使いの正体を探りたい俺たちにとっては不要な魔法でしかない。
……しかし、『今の俺たち』にとっては……。
「……これ、まさか……俺たちがあの日に目撃した魔法使いが用意したのか……?」
「そうとしか思えないわね。でも、そうなると……」
今の俺たちがこれを必要としているのを把握できるのは3人。アイ、鳳輔、委員長だ。
そうなると、アイが語ろうとしていた魔法使いの正体は3人の中の誰かということになる。……俺たちのことを常に監視している野良の魔法使いがいなければ、という前提だが。
でもその憶測が当たっているなら不自然だ。こんな怪しいサプライズ、3人の誰かが魔法使いですよと語るに等しい。当人にとっては不利益でしかないはず。
そのリスクを負ってでも、俺たちにあの夢を叶えさせようと言うのだろうか。
「……誰が用意したのかは分からないけど、ここまでお膳立てされて目を逸らすわけにもいかないわね」
「それは……そうだな」
叶わなかったはずの夢を叶えるためには、無人界には存在しないファンタジーに頼るしかない。
誰の陰謀なのかは分からないが、彼女の夢を叶えられるのは……きっと、俺たちなのだ。




