15章 その煉獄は、罪を贖う君のために
遠雷のように拍手の音が轟いていた。
ついに内部発表が始まり、2番目のグループが公演を終えたのだ。どれだけ卓越した演劇だったのかはこの拍手の音が物語っている。……控え室にいる自分たちにこれだけ色濃く聞こえているのだ、会場では溢れんばかりの賞賛が舞っているに違いない。
本日の第3グループは俺たちだ。この大歓声の後、俺たちは演技をしなくてはならない。
……勝算など、もはや消え失せてしまったというのに。
「…………んだァ、通夜みてぇなツラしてんなぁ」
俺たちの顔を見て綴流が怪訝そうな声を発す。そんな声を上げたくなるのも当然だろう、イカサマに頼ろうとしていた俺、ハル、鳳輔、アイの四人が疫病にでもかかったかの如く青い顔をしているのだから。
もはや手品の種はない。拙い実力を曝け出し、群衆に痴態を晒すことしかできないのだ。その未来が予見できているからこそ、俺たちの顔はより一層悲痛に歪むばかり。
そんな俺たちに傾注を促すかのように、綴流が足をドンと踏み鳴らした。鈍い振動と音が伝わり、俺たちの視線が綴流に注がれる。
「ァー、んな心配しなくていいぜ! 初めての劇だから緊張するのは分かッけどよぉ、舞台に上がっちまえばこっちのモンだ。ドーパミンだよ、いやアドレナリンか? マジで脳汁出てクソ楽しいから、舞台の世界を思う存分楽しめよなァ! ……失敗くらい構わねぇよ、ウチらがカバーしてやっからさ!」
……俺たちが緊張していると思って、励ましの言葉をかけたのだろうか。
いや、それにしてはどこか慰めにも近い色合いが差している。俺たちの持っている秘策が無に帰したことに気づいていて、せめて前向きにさせようという心遣いだろう。
しかし――今の俺たちは、それに笑い返すことすら――。
「シケてんじゃねぇよ雑魚共」
「う゛ッ!」
背後から忍び寄ってきた坂浦にケツを蹴られて、数歩分だけ蹈鞴を踏む。日焼けのようにヒリつく尻を抑えながら振り返ると、ふんぞり返った坂浦と表情変わらぬ葵先輩がいた。
「あのな、ド素人のテメーらを誘ったのは俺ら演劇部だ。助っ人共がいくら失敗しようが計算の内なんだよ、気に病むもんじゃねぇ」
「とっちゃんの言う通りやねぇ。小難しいことは考えんとき。今日はただ、演劇を楽しむことだけを考えればええよ。……演劇は勝つためにやるもんやない、楽しむために存在するもんなんやから」
「坂浦……葵先輩……」
幾度となく舞台に上がり、修羅場を経験してきた二人に背を押されて――俺は、自分の奥底にまだ残っている虚勢を引っ張り上げる。
「……」
無理も無謀も承知の上。どんな結末が待っているかは容易に想像できる。
しかし、もはや不変となった失敗の未来であっても、今から変えられるものが一つだけある。
演劇を楽しんだか、そうでないか。……どれほどの劣勢に陥ろうが、それだけは自分の意思で決めることができるのだ。
「……やるしか、ないか……」
決意を目に秘めて、隣にいるハルと視線を合わせる。彼女の瞳に込められた炎も俺と同じ色、叶わぬと分かっていても可能な限り邁進する気焔。
絶望の死地を楽しむ。それができた兵士だけが、苛烈な戦場を幾つも潜り抜けてきたのだから。
「よーし、集えよ同志ィ」
綴流の号令に合わせて俺たちは円陣を組み、互いの顔を見据えた。スポーツだろうが文化系だろうが関係ない、仲間と何かをやり遂げると言うならば、心を一つにするセレモニーが必要不可欠なのだ。
この舞台に上がる6人で、そしてここまで指導をしてくれた葵先輩も含めて、全てをやり遂げる。結果の如何に関わらず、笑顔で壇上を降りていく。
最初の大舞台。もしかしたら最初で最後の檜舞台。……たった数十分の闘いを、最後までやり遂げることを誓う。
「一発ブチかましてやろうぜ! 審査員を全員ブチ殺す勢いでッ、ウチらの演劇を見せつけてやるんだッ!!」
彼女の檄に呼応するように――全員が声を発した。
……そして、絶望の舞台が開いていく。
司会による高校の紹介が終わり、会場が少しずつ暗転していく。煌々とした照明の光は夢に落ちていくように絞られ、映画館を思わせるほどの暗闇へと沈んでいった。
舞台と客席を隔てる緞帳はまだ降りている。その幕が上がれば全てが始まるだろう。何の始まりか、終わりの始まりか、それはまだ誰にも分からずに。
『3番 林ヶ丘高校演劇部B班 演題は――』
……俺たちの演じる劇に、アイデアの種を齎したのはハルだ。
台本を読んで読んで読み込んで、提出期限ギリギリまで悩んで、彼女が付けたタイトルは――どこか身に覚えのあるもの。
『――「恋する二人は許されない」、です』
それはまるで俺とハルのことを指しているようで、綴流と葵先輩を示しているようで、かつての鳳輔とアイを表現しているようでもある。
俺たちの恋路にはあまりにも障害が多すぎた。……それを思えば、こんな一幕の窮地など些細な問題でしかない。
許されぬ恋よりも高きハードルなど、あるはずがないのだ。
「…………」
静かに、ゆっくりと、朝焼けと共に花開いていくように幕が上がっていく。舞台上に立つ俺と綴流の姿がありありと、観客たちの視界に映り込んでいった。
(……これが、舞台……)
天井から照らし出されるスポットライトの熱、未だかつてないほど全身に浴びる視線の束、己の意思とは関係なく鳴り響く心臓の音。何度唾を呑み込んでも喉は乾き、現実感が希薄になって、まるで夢だと知覚した時の睡眠中のよう。
思考がまとまらない、脳内には次の台詞が朧気に浮かぶだけ。
それが緊張の向こう側。もはや己が緊張していることすら自覚できず、ただただ自分に与えられた役目をこなすだけの機械となり果てる。今の俺は与えられた台詞を喋ること以外の思考が封じられている状態だ。
砂漠の太陽のように容赦なく浴びせかけられる明かりによって、体中が熱中症を起こしたかのような熱に覆われる。それが一段と脳の動きを緩慢にさせ、もう、舞台のこと以外考えられない。
これが演劇。これが舞台。
……練習と本番は全然違う。こんなにも心臓が跳ねるなんて。
「『――例えばそれが、現実には持って帰れない、死後の世界で享受する二度目の恋だとしても。かつて私が渇望した恋慕であることに変わりはない』」
冒頭、始まりの句が綴流の口から語られる。言葉と共に場内の雰囲気が引き締まり、彼女の声だけが空間内に反響していた。
今の綴流は、いつものド派手なギャル的外見ではない。物語の主役として相応しい装いに着替え、化粧をし、その表情や雰囲気までもを主役である『プリオシン』そのものに変えている。練習の時から何度も見てきた姿ではあるが、本番を迎えた彼女は圧巻だった。
まるで本当に綴流が消えて、物語の登場人物が立っているかのよう。……葵先輩には及ばずとも、彼女の演技力とて高校一年生の水準を遥かに超えていた。
語りが終わり――俺の出番がやってくる。場面は死後の世界の中心に聳える鉄道駅、そこで俺とプリオシンは出会うのだ。
一歩、また一歩と歩いていく。いつもの僅かに背を丸めた陰気臭い歩き方ではなく、背筋を伸ばして悠々とした歩き方だ。……しかし胸の中で鼓動が響き渡るたびに、自分の歩き方が本当に正しいものなのかが分からなくなっていく。
傍から見たら変ではないか、本当に背筋は伸びているのか。頭の中で次の台詞を何度も何度もリフレインさせながら、自分の動作が変ではないかと問い続けていた。
「『――初めまして、プリオシン嬢。ようこそ死後の国イーハトーヴへ』」
一瞬台詞が遅れた気がした、声が僅かに上擦った気がした。練習では気にならなかったほんの些細な揺らぎが、今の自分には失敗に思えて仕方ない。
「『……死後の国……?』」
「『そう、貴方は現世にて命を落とし、この禊の世界へと堕ちたのだ。罪を背負って死した人間が往く、天国と地獄の境目にある煉獄なのだよ』」
動作、表情、台詞、間。……演技を構成する要素が少しずつズレていて、なんだか全てがバラバラだ。何か重大な間違いがあるわけではない、しかし微細なかけ違いはやがて大きな違和感へと繋がるだろう。
しかし今の俺にとっては、台本通りに台詞を喋ることで精一杯。僅かなズレを矯正することすら困難なのだ。
「『そう! 私たちはあの日、命を落としたの! あの雨の日、全てが濁流に呑まれた日に!』」
スポットライトの当たらない影から姿を現したのはハルだった。
彼女もまた、練習の時とはどこか違う――ぎこちない表情を浮かべている。演技の中に素が混じっているような、仄かな照れが入ってしまったような、役に入り込めていない面持ちだ。
それは俺も同じだろう。役ではなく、『演技をしている高坂黒』でしかない。
まるで――学芸会のお遊戯のよう。もしくは学園祭でどこかのクラスが披露したド素人だらけの劇といったところか。登場人物たちが台詞を発するための発射台になってしまった演劇と呼ぶにも相応しくない何か。
ワンシーン遅れて出てきたアイも同じようなものだ。結局、綴流以外の全員が演技に入り込めていない。
緊張、恐れ、焦り。……演劇にとって毒となる概念が、俺たちの体を包み込む。
……いや、俺たちだけではない。その動揺は観客にまで伝わっているだろう。
まだ劇も冒頭だというのに、この場にいる全ての人間たちに毒が回っていく。
少しずつ――観客たちの心が離れていく。興味、関心、そんな概念が霧散していき、観客席だけではなく舞台上までもが寒気に包まれたかのよう。
どれだけスポットライトが俺たちに熱を与えようとも、臓腑は氷のように冷たくなるばかり。
――誰もが、この劇の失敗を予見していた。
「……アカンなぁ」
舞台の横、上手側の舞台裏。真横から劇を見ていた葵が小さく呟いた。
その表情は極めて重々しい。……一度観客たちの心を離してしまえば取り戻すのは難しい、それを彼は熟知しているからだ。映画やドラマでも同様に、一度つまらないというレッテルを張られてしまえば挽回するのは困難を極めるのだ。
ここから取れる手は、一発逆転の妙手――アドリブか。それとも敗戦を受け入れて最後まで演じるか。いずれにしろ、評価をひっくり返すことは夢のまた夢。
「…………綴流…………」
舞台脇から絶望の演劇を眺める葵は、ただただ口惜しそうに表情を歪めるばかり。
これが最後の演劇。……今日が終われば、もう演劇部を去らなくてはならない。綴流との日々も終わる、日本での日々が終わる。
最後の最後、末路は――順当な敗北だけだ。
クロたちに演劇を教えた師として、彼は深く恥じ入るばかり。自分にもう少し他人を鍛える力があれば結果は変わっていたかもしれない、自分の不出来が招いた結末なのだと。
……これで、綴流との物語も幕引きなのか、と……。
「………………………………」
そんな葵の顔を、坂浦が珍しいものでも見たかのように眺めていた。
彼らの交流はたった一年もない。春頃に入部してから8ヵ月程度だろう。……それでも彼は、葵がここまで感情を露わにするとは思っていなかった。いつものように敗北を涼やかに受け入れるとばかり思っていた。
飄々とした態度ではあるが、葵とて演劇部の一員なのだ。舞台が失敗に終わるなら悔しがるし、ましてやこれは最後の舞台。坂浦は想像もしていなかったが、彼だって忸怩たる気持ちを持っている。
「……くそっ……」
その時、鳳輔が小さく悪態をついた。全力で握りこぶしを握り、それを己の額に当てて歯噛みしている。
演劇の素人である彼にだって、もはや此度の失敗は想像できていた。ここから続いていく演劇はもはや観客を楽しませるためのものではない、観客の視線によって晒し物にされる拷問でしかないのだ。
――だが、それにしても、今の鳳輔の悔しがり方は異常だった。
「……テメーがそんなに悔しがるとは意外だな」
つい坂浦がそう問いかけてしまう程度には、彼は無念を露わにしていたのだ。
「それはそうだろ……! あんなに練習して、あんなに頑張って……こんな結末なんだぞ……」
「……失敗くらいどこの劇団にもあらァ。さっき言ったろ、お前ら素人に助けを求めたのは俺ら演劇部だって。俺らが悔しがる理由はあれど、お前らが気に病む必要なんざねぇんだよバカ」
「でも……」
小さく息を吐き、鳳輔が言葉を途切れさせる。
彼の視線は舞台上に立つ綴流の姿を、そしてクロとハルの姿を捉えていた。
「今回の舞台だけは、絶対に成功させたかったんだ……」
「……気負い過ぎだ、ド素人」
「だって、土居さんと葵先輩が一緒にいられる最後の劇なんだぞ……! 失敗に終わっていいわけがないだろッ、最後の劇が成功しないなんて、自分が許せねぇんだよ……!」
「……」
「それに……クロとハルちゃんは来週告白を控えているんだ。……劇でこんなに失敗しちまって、心置きなく告白ができると思うか?」
大きな失敗の後で、すぐに切り替えられるような性格ならどれほど良かったことか。
ハルならまだ切り替えられるかもしれない。しかしクロはそういう失敗を気に病むタイプだ。デートに誘うことや手を繋ぐことだけであれだけ逡巡してしまう男なら、この失敗は告白に対してのブレーキとなるだろう。
「華々しく劇を成功させて、何の憂いもなく……告白に臨んでほしかったんだ。人生で一度っきりの大事な瞬間だぜ、そこに憂いなんてあっていいわけがない……!」
「…………………………」
この土壇場であっても彼は他人のことを考えていた。これから自分が舞台に上がった時のことなんて何も考えていない。普通の人間ならあれだけ冷めた舞台に上がること自体に拒否反応を示してもおかしくないというのに。
どこまでいってもお人好しで、どこまでも友情に厚くて、どこまでも――。
「………………テメーは、他人のことばっか考えてやがんなァ………………」
そう呟きながら、坂浦が天井を仰ぎ見る。舞台裏の空はライト用の器具や暗幕のせいで雑然、晴れ晴れしい快晴など見えるわけがない。
しかし彼は数十秒間、天を見上げて――何かを思う。
脳裏に過るは過去の記憶。中学から高校まで続いた因縁の日々。そして委員長に全ての真実を教えられ、自分の姉が起こした悪事を知った日のこと。
無論、諜報員の記憶操作によって魔法が発端であることは書き換えられている。しかしそれでも、代替の記憶であっても、彼は全ての原因が姉にあることを理解していた。
「……劇の舞台は煉獄、罪を償って天に召される場所の話だったかなァ……」
そう小さく呟いて、坂浦は――鳳輔の肩を掴んだ。
その手に込められた力はいつもよりも弱く、どこか不安定だ。自己への義憤に駆られていた鳳輔が思わず振り返る程度には、彼らしくもない力の込め方で。
「なあ鶴ヶ島。憶えてッか、あのワケわかんねぇ宝塚女に真実をブチ撒けられた時ンことを」
「は……? 委員長のことか……?」
それはかつて、委員長が二人の争いを止めた時のこと。あの三年前に起こった全ての真実を語り、彼らの因縁を解きほぐした日だ。
「あん時よぉ、まァ……思い知ったわな。俺の信じてた姉が全ての原因でよ、テメーらへの嫌がらせは全部謂れのない罪だと教えられて……正直、しんどかったぜぇ」
今まで復讐だと思っていた全てが単なる攻撃でしかなく――その瞬間から、彼は自覚のなかった罪に身を削られた。
中学の頃から高校まで、虐められる理由のない鳳輔とアイに攻撃をし続けてきたのだ。そしてそれを正義だと思い込んでいた。いくら性格が悪い彼だって、その事実にダメージを受けざるを得ない。
「……つか、まあ、アレだよ。あのさァ、俺もよォ、多少はさァ……」
どこまでも歯切れ悪く、言葉が切れ切れとなる。語ろうとすれども言葉が逃げ、再び発そうとしても霧散し、そのたびに勇気を振り絞る。
まるでそれは告白のように。
「後悔してるっつーか……まァ、有り体に言うとよォ……あー……」
鳳輔の肩を掴んでいた手が離れていく。そして人間一人分の距離を取り、坂浦はどこまでも気まずそうな、気恥ずかしそうな、むず痒そうな、そんな表情を浮かべて――。
「悪かった」
……深く、頭を下げた。
それは彼にとってはもはやいつ以来になるかも分からない謝罪の言葉。性格が極めて悪く、謝った側が負けという底意地の悪い主義を持っている彼からすると、本来ありえないはずの懺悔だ。
でも、それは彼にとっては必要な詫言。心の内で渦巻く靄を消し去らなければ、いつまでも前には進めない。
「お、おお……いや、それは……俺も思いっきりブン殴っちまったし、お互い様の部分もあるけどよ……でも……」
続く言葉は陽炎のように消えていく。でも何故、今この時に?という単純明快かつ当然の疑問が喉から出かけて、しかし呑み込んでいった。
坂浦の顔を見て、言葉に続きがあることを悟ったから。
「……あんなァ、俺も結構、演劇部が好きでよ」
「おう……」
「テメーが本気で案じるっつーならよォ、面白いモンを見せてやるよ」
そう言い――彼は踵を返して、舞台裏の端っこに置かれているバケツを手に取った。それは掃除を担う誰かが忘れていったものだろう、バケツの側面には収納場所を示すマークが描かれている。
中身の入っていないバケツを小脇に抱えて、再び坂浦は――鳳輔と視線を合わせる。その只ならぬ様子に葵までもが彼を見つめていた。
そして坂浦は地面にバケツを置き、その前にしゃがみ込む。何も入っていないバケツの底を数秒眺めて、そして――。
「――――――――!」
自分の指を喉の奥に突っ込んで、吐瀉をした。
音もなく、えずくこともなく、観客や舞台上には聞こえないほどの静かな嘔吐だ。しかし確実にバケツの中へ胃の内容物が零れ落ち、坂浦の息を荒くさせる。
「おッ、お前、何を……!」
その異様な行動に鳳輔と葵は言葉を失うばかり。どこまでも続く絶句の中で、坂浦が小さく笑った。
「体調不良者が出ちまったなァ~~~……こりゃ舞台に上がれねぇわ」
本来、体調不良でもない限り嘔吐なんかするはずが無い。彼が抱えるバケツの中にその証拠がある。……それを見せつければ、大会運営側は体調不良を認めざるを得ないだろう。ましてやこの演劇部は体調不良者が続出して代役を立てているのだ、再び患者が現れたことは不思議でも何でもない。
クククと小気味よく、尚且つ粗暴に笑い、坂浦があの規則を諳んじる。
「『演劇フェスティバル 大会規則25』。……『体調不良などによる参加不能者が出た場合、参加グループは可能な限り代役を立てて演劇に臨まなくてはならない』」
「……!」
そう、坂浦命は体調不良者となった。演劇に必要な人数が一名減ったのだ。
彼らは至急、代役を立てなくてはならない。しかし他の演劇部のメンバーは自分たちの演劇の準備で手一杯、駆け付けることなどできやしない。
残る手段は――。
「出ろよオッサン、テメーの晴れ舞台だ。……規則上、拒否は許されねぇぜ」
再び立ち上がった坂浦は、葵に向かって指を突き付ける。
指名された葵は――ただ、面食らったような顔をするばかり。
「親の言いつけをいつまでも守ってるだけで満足かァ? テメー、これがあの糞ピンクとの……土居綴流との最後の演劇ってこと分かってんだろ」
「……俺に……あの親の前で、演劇しろ言うんか」
「たりめーだバカ、いつまで言いなりなんだ。さっきッから物欲しそうに舞台眺めやがってよォ、テメーも本当は出たいんだろオッサン。腹ン中グツグツ煮立ってるくせに澄ましてんじゃねぇ」
「……」
バケツを隅に追いやり、坂浦は大股で葵の眼前にまで歩み寄る。真正面から目を見据え、その手が唾と吐瀉で塗れていなければ胸倉を掴んでいるくらいの剣幕で詰め寄った。
「テメーの意思を見せてみろ。……やりたいのかやりたくないのか言え。やりたくねぇんならあのゲロをテメーのってことにして俺が出ちまうぞ」
「……………………」
葵は――舞台袖から観客席を窺い、ある人物の姿を探す。それは自分の父親である芝原衛だ。
彼はこの演劇を見ているだろう。そしてこんなものかと見下し、もはや演劇を無視してロンドンへ行った後のプランでも練っているかもしれない。
そんな彼の前に自分が姿を現したら今後どうなるか、想像すらできない。
だが。
このまま何もしなければ綴流がどうなるか、それだけは容易に想像できた。
誤魔化すような作り笑い、虚勢、掠れた笑い。……無理矢理明るくなろうと努めて、心の中では泣くのだろう。そしてこの最後の劇によって、いつまでも心の傷を負い続ける。
……それはきっと、綴流だけではなくてクロやハル、アイ、鳳輔……そして坂浦も同じだ。この劇に関わった誰もが消えない傷を刻み込まれる。
自分だけが。……こうして劇にも出ず、舞台裏で立っているだけの自分が、何の傷も負わずに終わるのだ。そんな調子でロンドンまで行って何になると言うのか。
まるでそれは、逃げるようじゃないか。
「……坂浦」
あだ名ではなく本名で、彼は後輩の名を呼ぶ。そしてその手を差し出した。
「衣装を貸してもらえるか」
「あァ、すぐ脱いでやらァ」
管理されてきてから初めて――彼は自分の意思で演劇に挑む。
愛する人を、仲間たちを、この窮地から救うために。
出番はもうすぐ、化粧をしている余裕もない。もう一度台本を読み返すこともできないし、他の出演者たちに説明する余裕すらない。
それでも彼は、坂浦から受け取った衣装を身に纏い――舞台袖から光差すステージを見据えた。
出番までもう10秒もない。次の台詞が終われば彼の出番だ。
そんな彼の背を見据え、坂浦は愉快そうに笑う。
「行けよ、オッサン。……アクビしてやがる観客共に見せてやれ。高校演劇界最強、芝原葵の実力を」
そして――葵が一歩を踏み出し、スポットライトの光を一手に浴びる。
場面は中盤、死後の世界に神が降臨するシーン。この灼たかなる顕現により、人間たちは神の威光を思い知り――。
「『……随分と自由闊達に、人間共が蠢いているようだ……』」
「……!」
誰もが。……客席の誰もが、舞台上の誰もが、彼の姿に視線を奪われる。
突如として現れた彼は、他の登場人物とは一線を画していた。立ち振る舞い、視線の動き、声色、全てが全て別次元。
そう、彼の特性は『役に成りきること』。神の役を背負った彼は、もはや神そのものなのだ。
彼の視線が客席の端から端までを捉えていく。その圧倒的なまでの眼光に射抜かれて、誰もが音もなく息を呑んだ。……実の父親である芝原衛以外は。
雰囲気が違う。どこまでも異質、何もかもが異彩。彼の登場によって、凍り付いていた舞台が――再び、動き出す。
「……………………」
「……………………」
そして、一瞬――綴流と葵の視線が交差した。
突如として葵が登場したことに、綴流は表情にこそ出さないが、驚愕を禁じ得ない。そんな綴流の内心を悟ったかのように葵は小さく笑った。
……少女が願った小さな夢。
それは愛する人ともう一度舞台に上がりたいという、とてもとてもささやかな夢だ。
決して叶うことが無いと思われていた夢は、今、この場所で――。
(俺らの夢を叶えよう。……綴流)




