16章 またいつか、この場所で
葵を天から燦然と照らすスポットライトが、まるで薄明光線のよう。此の地に降臨した神を赫々と照射し、光の中で舞い上がる埃の数々が霊験灼たかな粒子に見えて、誰もがその光景に言葉を発せない。
突如として現れた葵の姿に、誰もが目を奪われる。一般人の中に芸能人が混じり込んでいるかの如く輝き、明度は同じだというのに舞台上の誰よりも目立って、もはや観客たちは葵のことばかり見つめていた。
「『……そう、これは偶さかなる邂逅ではない! 貴様たちの敬虔な心が手繰り寄せた奇跡なのだッ!』」
静かな登場から一転、葵の喉から発せられた言葉は舞台の最後列までぶち抜くかのような大声量だった。地面さえ揺らがしかねないほどの声に貫かれて、半分睡魔に導かれかけていた者たちも我を取り戻す。
――本来、その台詞は厳かに語られるもののはずだった。台本によれば神の降臨はあくまでも仰々しく、威厳に満ち溢れた重厚なるシーンであったはずだ。
しかし彼は、視覚だけでは奪いきれなかった観客たちの関心を一手に集めるため、あらん限りの声を発した。それによって眠りかけていた者や舞台に集中していなかった者さえも、驚愕の中で彼の姿を視界に捉える。
彼を見てしまえば、もう、逃れられない。
「……」
指先からつま先まで、全てが計算され尽くしたかのような動作。表情から所作、果ては息遣いから発汗まで……彼は全てを操っていく。
ランウェイを歩くモデルのようにしなやかに、美しき作法を体現するかのように洗練された動作で、そしてステージ上のアイドルのように溌溂と。
今の彼は――まるで誰かが描いた幻想であるかのように、誰よりも美しく、誰よりも雅な存在感を放っていた。それは演劇をどこまでも追求した者だけが辿り着く境地。台詞などなくても立ち振る舞いだけで全てを魅了する、蠱惑的な所作の極点だ。
「『さあ刮眼せよ、神の姿を眦に刻め! そして荘厳たる神明を崇め奉れ!』」
彼の視線が客席の――とりわけ、未だ集中を欠いた者たちに向く。目が合った時間はわずか一瞬にも満たないはずだ。しかし視線を向けられた者たちは皆、まるで真正面から見つめられたかのように動けなくなってしまう。
まるでそれは魔法のよう。魔力を行使せずとも、その目を見るだけで他人の心を奪ってみせる。
「………………」
そんな光景を間近で見ていたクロは――不思議な感情に襲われていた。
先ほどまで、彼は魔法という支えを失った所為で不十分な演技を続けていた。心の支柱が失われた彼には、冷静を欠いたキャパシティオーバーな演技しかできなかったのだ。
しかし、今、目の前に葵が現れて……さざめく心が凪を取り戻していく。
緊張は抜けきらない、この背を流れる汗はまだ止まないだろう。しかし先ほどとは違い、緊張と共に浮かび上がる感情がある。
それは余裕。あるいは高揚。適度な緊張と共に渦巻く感情は、舞台を成功に導くには必要不可欠なものだ。
(……なんだ、この気持ち……)
今、観客たちの視線は葵に注がれている。彼が存在感を示す限りそれは変わらないだろう、この舞台上の全てが彼を引き立たせるモブになってしまったのだ。
先ほどまでは観客席の全員が自分を見ていると思い、視線に臆して縮こまった演技をするばかりだった。しかし視線が消えた今、彼の心には『当然の前提』が蘇っていく。
今回の劇において、自分たちは助っ人なのだ。与えられた役割も主役ではなくモブに近い。観客たちが注目するのは自分たちなんかではないのだ。
葵がいる限り……自分たちは、本来の姿を取り戻せる。
「『……貴方は、本当に……神なのですか……?』」
クロの口からは台本通りの台詞が放たれる。……しかし舞台上にいる誰もが、その違いに気づいていた。
先ほどまでのバラバラだった演技が、日頃練習していた時の演技に戻っている。
そう、葵の登場によって余裕を取り戻した彼は、自分の台詞だけではなくてそのタイミングにも思考を割けるようになっていた。小さな所作から立ち振る舞いまで、細かな間をアジャストしていく。
――それは、クロだけに与えられた変化ではなかった。
ハルも、アイも、そして少し遅れて登場した鳳輔も。……誰もが練習の時の演技を取り戻している。
舞台上にいる彼らだけではない。観客席にいる誰もが、彼らの演技が変わったことに気づいている。先ほどまでの無様な様子はもはや掻き消え、今壇上にいるのはある程度の実力を裏打ちされた演劇者にしか見えない。
ようやく、全ての歯車が嚙み合って――。
「…………………………」
演技が壊れない範疇で、綴流が小さく笑う。……ようやく訪れた演劇部本来の姿。それを取り戻せたならば、利用しない手はないのだ。
「『……確かに、貴方が神であるって信じざるを得ないわ』」
「……!?」
綴流が言い放ったその台詞は――台本にはない言葉だった。突如としてレールを外れて進みだした物語に、クロたち初心者組は僅かな動揺を隠しきれない。
しかし神となった葵だけは全てを理解し、綴流の作戦に同調するように薄く笑うばかりだ。
「『さっきまで、私たちは死という事実に動揺を隠せなかったわ。言葉は震えて考えがまとまらない無様な様子だった。……当然よね、死を経験したら誰だってショックを受けるもの』」
誰も知らない、誰も聞いたことがない言葉の潮流は澱みなく。
「『でも……貴方が降臨して、私たちの動揺は消え去ったわ。……さすが神と言わざるを得ないわね。ただそこにいるだけで私たち人間を変えられるんだもの』」
「……!」
その一言を聞いて――クロもハルも、その舞台上にいる誰もが気づく。彼女は今までの無様な演技を、物語の演出として利用する気なのだ。
物語の舞台は死後の世界、死んだばかりの人間が動揺しないはずもない。……しかし神の降臨によって人々は平静を取り戻し、元の自分を取り戻していく。
クロたちにトラブルが起こって演技がガタガタになっていたことを知らない観客たちは、それが後付けの設定だと気づくことができない。舞台上で急に演技が変わっていったのだ、そんな台詞を聞いてしまえば演出だと思わざるを得ないだろう。
今までの全てを『動揺を表現した演技』にして、印象を逆転させる荒業だ。
「『それで……貴方は、どうして今さら――私たちの前に姿を現したの?』」
そこで綴流の台詞は台本に合流し、元の流れを取り戻す。たった数行だけのエチュードで物語の全てが変わってしまった。
……葵の演技力、我を取り戻したクロたち、そして綴流による台本操作。
観客たちを突き放していた絶望の舞台が、一瞬にして彼らを呼び戻し、その心を奪っていく。
「『そうだ! 貴方が神だと言うならば! どうして我々を現世で幸せにしてくれなかったのか! なぜ死後の世界に呼び寄せる必要があったのかッ!』」
台詞を言いながら、クロの胸中には仄かな灯のようなものが浮かんでいた。
場の空気によって凍り付いていた体を温め、気持ちを高揚させる小さな熱だ。クロはその気持ちの正体を理解できなかったが、言葉を重ねれば重ねるほど、演技を続けていくごとに知っていく。
これは、楽しいという気持ちなのだ。
緊張という氷の中で揺らぐ、原初の喜び。
舞台に立ち、演技をすることが……まさか、こんなにも楽しいものだなんて。
……そして、物語は恙なく進んでいく。もはや誰にも止められない演劇は、観客たちの心を鷲掴みにしたまま、終局まで至ろうとしていた。
「『……』」
「『……』」
素人組が掃け、舞台上に立っているのは綴流と葵の二人だけ。この物語の終焉は彼らの別れによって訪れる。誰もがやがて至る終劇を肌で感じとり、固唾を呑んで彼らの紡ぐ言葉を聞くばかりだ。
物語の執着地点は、プリオシンという少女と神の別れ。
かつて現実世界では恋人同士だった彼ら。しかし片割れが神となってしまったことで、二度目の恋も永遠には続かなくなってしまう。ただの死者であるプリオシンは天国へ、神となってしまったアルビレオという少年は永遠に煉獄を護らねばならない。
一度目の恋は死によって引き裂かれ、二度目の恋は逃れられぬ運命によって分かたれる。
「『……いいんだよ。それが運命だっていうなら』」
「『元々我らの恋路は許されぬものだったのだからな』」
現実世界での彼らは血の繋がった兄妹同士、その恋路は許されない。
煉獄での彼らは神と人間、当然許される恋ではない。
そして、舞台外での彼らは普通の幼馴染同士、けれども親に恋することを止められている。
……どの世界に至っても、恋する彼らは許されないのだ。
しかしそれでも思いが通じ合った。恋を自覚し、想いを伝え、ほんのひと時だけでも愛を重ねることができたのだ。
許されない恋であっても、互いの愛を理解した。……それだけでいいのだ。
「『……今こそ、永劫の別れを』」
「『うん』」
演技を続けながらも――綴流は、自分の心が抑えられなくなっていた。
こうして葵と一緒に舞台へ上がり、心のゆくまま演技をすることがずっとずっと夢だった。永遠に続けと願ってしまうほどにこの時間は甘美で、嬉しくて、かけがえが無くて――。
「……」
思い返すは合宿の夜の出来事。あの時、葵に伝えた本当の気持ち。
小さな夢、子供の頃からの願い。
今この瞬間が、彼女にとって人生で一番幸せな時間なのだ。
(……楽しかったよ、葵)
今日、ここで全てが終わったとしても。……審査に落ちて本戦に進めず仕舞いだったとしても、彼女はきっと悔いを残さないだろう。
それほどまでに楽しくて、夢のようで――。
……もう、隠しておくことなんかできなくて。
「『ねえ、アルビレオ』」
――最後の最後、劇の終わり。彼女は寂しさを纏いながら煉獄を去っていく手筈だ。
この演劇の最後の言葉を舞台上に残して、スポットライトの外へ消えていって――葵一人を舞台上に残し、劇は完結する。葵だってその流れを作り出すために、綴流の最後の言葉を待っていた。
クロたちも、観客たちも、劇の進行を見守るスタッフたちも、物語にピリオドを打つ言葉を待ちわびている。
最後の言葉は、『さよなら』というたった一言。この上なくシンプルで、誰にでも言えるような一言で――しかしそれでも、永遠の別れを刻み込む言葉だ。
……でも、本当はさよならなんてしたくなくて。
もっともっと劇を続けていたくて。
――綴流の心が慟哭する。
「……」
だってこの日を待ちわびていたんだもの。
貴方と舞台に上がって、こうして手を握り合って――自分の書いた台本を共に完成させていくのを、夢にまで見ていた。
終わらせたくなんかない。本当はロンドンになんか行ってほしくない。こうしてずっと一緒に劇をしていてほしい。
……さよならなんて、誰が認めてやるもんか!
「……アルビレオ……」
そのたった一言が演技ではないことに、葵だけは気づいていた。
「本当に……ありがとう。……またいつか、この場所で!」
プリオシンではなく綴流が叫ぶ、世界で一番楽しそうに。
この舞台を去る前に、餞の一言を。
終局を綴りながら、千々に乱れる様子もなく。
「笑顔で会おう!」
そして彼女は――台本に綴られた終わりとは異なり、笑顔のまま舞台を去っていく。その姿が消える最後の最後まで観客たちは目で追っていたが――やがて彼女の体が舞台脇に消え、残されたのは葵ただ一人。
本来はここで幕が落ちていくはずだ。……けれども時が止まったかのように、緞帳は天高く上がったまま。舞台上に残された葵が昇降幕を制御しているスタッフに視線を送って、電動装置を止めさせているのだ。
一人、最後の舞台に残された葵は、壇上に漂う余韻と共に――。
「……ああ。またいつか、絶対に」
この上なく晴れやかな笑顔を浮かべながら、アルビレオとしてではなく芝原葵として――そう言い落とした。
その瞬間、幕が閉じていく。これで本当に全ての物語が終わったのだ。
割れんばかりの拍手が会場に響き渡り、舞台裏にいるクロたちが驚くほどに耳を劈いた。今まで演技を披露してきたグループたちとは比較にならないほどの音がいつまでも続き、永遠を思わせるほどに拍手は鳴りやまず――。
「……」
緞帳が全て降りきった中、葵は舞台脇にいる綴流に視線を送って――笑った。
またいつか、この場所で。
……もしも本戦へ進むことができたなら、もう一度。
葵は――再び訪れるかもしれない共演の機会を願って、瞳を閉じた。




