13章 恋する2人は誘いたい
謎のドラマ視聴会の解散後、突如ハルからの電話によって呼びつけられた俺は、校舎別館の屋上に備え付けられているプールへと足を運んでいた。
ただでさえ冬の夜は木枯らしが肌を刺すというのに、水辺なんかに来てしまえばその風は寒風と呼ぶに相応しい状態へと変化する。鳳輔のダウンジャケットを借りて全面防御の構えでここまで着たはいいが、ハルと待ち合わせしていなければ今すぐにでも泣きながら教室に戻る程度には寒々しい夜だった。
プール前に聳える不人気なシャワーをくぐり、危険性が周知されたせいで今はもう使われていない洗眼器の横を通ると、25メートルのプールが長々と続いていた。
防火用水のためかプールには水が張られているが、枯れた木の葉や雨水が入り込んで不衛生な澱みを漂わせていた。時期が時期ならヤゴや赤虫が踊っているであろう水場には月が反射しているが、水面に浮かぶ不純物に纏わりつかれてせっかくの月も台無しだ。
「おそーい! 何らかの罰を下す!」
俺より先に到着していたハルは飛び込み台の上にしゃがんでいたが、俺の姿を見つけるなり指名手配犯を見つけたような表情で指をさしてくる。しかしどこか嬉しそうだ。
「よせ、下すな。場所を指定した側が先に現着するのは当たり前だろ、寛恕してくれ」
俺もハルのほうへ近づいていき、隣の飛び込み台を軽くハンカチで拭いてから腰を下ろす。飛び込み台同士の距離は子供一人が横たわれる程度。ハル以外なら丁度良い距離感だが、こいつに対してだけは何故か遠く感じてしまう。
小さく息を吐きながら空を見上げる。歩いているうちはまだ体が動いて発熱していたが、こうしてまんじりともせず座り込んでしまえば、空っ風のような冷気をマトモに浴びて体が凍えてしまう。正直なことを言えば、俺は寒がりなのだ。
「こんなに寒いなら俺はもうダメだ、越冬できなくて死ぬわ。BYE」
「軟弱な現代男子ねぇ。この私のナリを見てみなさい、厚着という概念を祖国に忘れてきたような猛々しい座り姿を!」
俺とは対照的に、ハルの格好は仲秋を思わせるような冬にそぐわない服装だった。寝間着代わりのジャージに薄手の上着を羽織っただけで、もし俺がこんな服装をしていたなら今すぐにでも代謝を下げて冬眠してしまうだろう。
無駄に体温が高いハルは冬の気候が合うらしく、日頃から心配になるくらい薄手でそこらへんを走り回っているのだ。通年を半ズボンで乗り切る小学生男児を彷彿とさせる。
「で、なんでこんな不毛の地に俺を呼んだんだ。話があるならどっかの教室とかでいいだろ。俺をプールに突き落として凍え死ぬ様を見たいのか。やられる前にやるしかねぇ」
「特に深い意味はないけど、なんかほら、ナイトプールとかいうのにちょっと憧れがあってねぇ。あの絢爛豪華で煌びやかな空間! 一度くらい体験してみたくない?」
今どきの女子みたいなことを宣っているが、俺たちの目の前にあるのはドブ川のように澱みきった時季外れのプールだ。こんなプールに浸かって写真を撮るくらいなら地獄で釜茹でにされるほうが幾分マシだろう。
「諦めて現実を見ろ、お前の夢は下水道に流れていそうなこのプールで消費できるものではない。ここは諦めて校舎に戻って話をしようぜ、見ろこの震えに震えて可哀想な俺の指を」
寒さのせいで滅茶苦茶に震えている手を見せつけるも、ハルは「あら、アル中かしら?」とロクでもないことを言ってくる。アルコールを飲んでいないのに脳がやられているのはお前ではないかと言いたい気持ちを大人の余裕でなんとか堪えた。
「もー、クロはいつだってワガママなんだから。しょうがないわねぇ。刮目して見ておくのよ、私が場を整えてあげるから!」
急に飛び込み台の上に立ち上がったかと思えば、彼女は手首に付けていたバングルを外して仕舞い込み、代わりにふところから一本の杖を取り出した。そして指揮者のように杖を振るい、そのウッディな切っ先をドブプールへと向けてみせる。
「それーっ!」
彼女の勇ましい掛け声とともに魔精反応が舞い散って、天地が逆転したかのようにプールの水が空へと昇っていく。同時に床や壁にこびり付いた汚れやヌメリも引っぺがし、彼女の振るう杖と共に、プールの中身が全て校庭に向かって飛んで行った。
大掃除によって磨き上げられたような空のプールを見下ろして、彼女は誇らしそうな表情を浮かべる。確かに水が無くなったおかげで風の冷たさは軽減されたのだが、それだけではこの場に留まる理由にはならない。
かと思えば、次にハルは杖の先からお湯を噴出した。消防車のホースから激流を発射するかの如く水が張られていって、ものの1分もすればプールの中には湯気立ち昇る風呂がさざめいている。
「さ、これで文句ないでしょ! ほら好きに温まりなさいな!」
そう言いながらハルは靴下を脱ぎ、ジャージの裾をたくし上げて、飛び込み台の間に座る。そしてカモシカのような足をお湯につけて足湯のように浸り始めた。
「お前……祖国に知られたら仰天されるような魔力の使い方をするもんだなホント……」
しかしお湯を用意してもらったならば立ち去る理由など無い。俺も靴下を脱ぎ、ハルの隣に座って足をお湯に浸した。
だだっ広いプールに張られたお湯と、天を目指して揺らめく湯気、さざ波の中に揺れている鏡花水月。
隣でハルがバタ足さえしていなければ、この幻想的な光景に浸ることができただろう。
「止せ、足癖が悪い。園児かお前は。ほら見ろ、お前のばちゃばちゃで俺がびちゃびちゃだ。譴責処分を下すぞ」
「よっ、水も滴るいい男! 濡れネズミ!」
賞賛と侮蔑の言葉を同時に放たれると熱平衡のように怒りの度合いが一定になるんだなぁと稀有なる経験に戸惑いつつも、ハルの顔を睨んでやると――彼女とて己の舞い上げたお湯でまみれていた。なんなら髪にまでかかっている。
「お前、自分のダメージすら顧みないのな。なぜ濡れそぼりながらそんなに快活な顔ができるんだ、そんな風に育てた親の顔が見たく――ないなぁ……」
メース家の女王の顔と共に戦時中を思い出してしまう悲しきサガを発動させつつも、ポケットからハンカチを取り出して彼女の顔を拭こうとして――そういえば先ほどこのハンカチで飛び込み台を拭いたことを思い出す。
さすがに薄汚れた床を拭いた布で顔を磨き上げるのは手袋を顔面に叩きつけるのと同じほどの挑発行為になりそうなので、指でそっとハルの顔を拭ってやった。
「ん」
と言いながらされるがまま、彼女は顔を突き出して綺麗に拭くよう要求してくる。傲岸不遜な女王というよりは親に面倒を見られている子供のようだが、瞳を閉じて顔を突き出しているその行動は、恋する男子にとっては単なるキス顔にしか見えない。
静かなる欲求を堪えつつもハルの顔を拭いてやり、トドメとばかりに額へ優しいデコピンをくらわせた。
そのままひと時、無言の時間。水面に映った月を眺めて、午睡の間際みたいな静けさが場を包んでいく。
もうすぐ日付の変わる頃合い。世間はそろそろと寝静まり、民家もちらほらと消灯し始める。学校の屋上という高層階にいるせいか、いつも家にいる時よりも世界は閑静で。
無言のひと時が、恋心を鮮明に自覚させ色付けていく。言葉を発さずとも気まずくない関係性がより浮き彫りになって、この時間が永遠に続けばいいのにと子供みたいなことさえ願ってしまう。
「……そういえば……さっきね、女子部屋でつづるんと葵先輩の話を聞いたの」
風の音だけが世界を満たす中、ハルの小さな言葉が空へ溶けていく。あまりにも静かすぎる世界の中では、ほんの小さな呟きさえも耳を越えて心に沁みていた。
「あの二人も……中々大変な関係性みたいね」
「ああ、こっちの部屋でも聞いたよ。……せっかく両想いなのに、付き合えないなんて勿体ないよな」
類稀なる才能を持って産まれてしまったせいで親に管理され、自由な恋ができなくなってしまった二人の物語。それは演劇よりもよっぽど作り物のようで、しかし、それでいて現実なのだ。
「ねえ。もしクロが葵先輩の立場ならどうしてた?」
中々に難しい問いかけをされて、俺は流れゆく雲を目で追いながら考え込む。
才能を取るか、恋を取るか。……化物という忌むべき才能を持って産まれた俺には、前者を選ぶ未来が想像できそうにない。俺も、きっとハルも、普通の人間になりたいのだから。
でも――葵先輩なら、才能を捨てきれないはずだ。
俺たちに演劇を教える時、彼はとても楽しそうに指導をしてくれた。徐々に出来上がっていく劇を見て、あんなにも満足そうな表情を浮かべていたのだ。きっとそれは、彼が演劇のことを好きだと言う証左だろう。
演劇が好きならば、本場ロンドンで演劇を学べるという機会は垂涎モノだ。彼とてそこに異議はないはず。
しかし、父親が全ての決定権を握っている限り、演劇と恋は両立できない。彼はどちらかを選ぶしかないのだ。
「……俺には分からないよ。何を捨てても……絶対に後悔すると思うからな」
等しく大切なものを天秤にかけるほど無意味なものはない。釣り合いが取れているが故に、手放す痛みは心を抉るのだ。
「ハルは? ……お前ならどうするんだ?」
「決まってるじゃないの!」
彼女は水飛沫を上げながら立ちあがり、さざめくプールを瞳に移しながら憂いのない口調で断言する。
「私ならつづるんを取るわね! 学生には行き過ぎた大恋愛を父親にまざまざと見せつけてやるわ! なんなら大学時代にデキ婚するような最大風速を見せたる!」
「……本場での指導を無為にしてでもか?」
「あったりまえよ!」
自信満々すぎる顔でそう言ってのける彼女は、もしかしたらロンドンで演劇が学べることの重要さを理解していないのかもしれないと思ったが――そうでもないらしい。今更説明されるまでもないとでも言わんばかりに、本場行きのプラチナチケットを鼻で笑って見せる。
「ロンドンで演劇を学ぶなんてね、いつか自分の努力で叶えられるかもしれない夢でしょ? もし叶わないなら、それはそもそも自分には大きすぎた夢でしかなかったってだけの話。……でもつづるんは……一度手放しちゃったら、もう二度と一緒にいられないと思うから」
「……徹底的な管理をしてくる父親に妨害されるだろうからな」
「だからどう考えても恋愛を選ぶべきなのよ。……って私は思うけど、こればっかりは当事者じゃなきゃ決めあぐねる話ね。私たち、本場行きの事情を知らないし」
「そうだな。……もし本場行きの話が完全にコネとかの世界なら、自分の努力ではどうしようもなかったりするしな」
こんなことを話しても無駄なのはお互い分かっている。それでも知りたかったのは、相手の恋愛観だ。恋をどれくらい重要視しているのか。恋のためにどれほどのものを捨てられるのか。……それが知りたかっただけ。
そう思うと、俺の回答はあまりにも無責任すぎだ。選ぶことを放棄しただけの臆病者でしかないのだから。
「……うん、そうだな。ハルの言葉を聞いてたら、俺も恋愛を選びたくなってきたな」
「でしょう!」
どうだ!と言わんばかりに胸を張り、ハルは謎に勝ち誇ってみせる。一体何に対して勝ち誇っているのかはよく分からないが、彼女が楽しそうなので別にいいと思った。
「……葵先輩がどちらを選ぶにしても、今の彼には足りないものがあるわね」
「え、あるか? 眉目秀麗で才華爛発な先輩に不足が?」
「あるわよ。自由が足りないわ」
自由。……それは今のハルに最も合う言葉であり、かつての俺たちには縁のない言葉。
この世界に来るまで、俺たちは自由という概念の価値を知らなかった。誰かに命じられて行動することが人生、そんな檻の中に閉ざされた動物のような人生を歩んできた。
「何を選ぶにしても、自分の意志で悔いなく選ばなきゃダメだわ。そう言う意味では今の葵先輩は全然自由じゃない。消去法とか周りの意向とか、そういう消極的な未来を理由で選ぼうとしているように見えるもの」
「……そうだな。もし彼が自由なら、もっと演劇部で演劇をしていただろうし、恋愛も好きなだけしていただろうしな」
幼き頃から親に人生を決められていたからこそ、今の彼には自分自身の意思で未来を決める方法が分からないのだろう。だから自分一人の力で人生を歩んでいく方法が分からない、親の管理から逃れられない。綴流と今も交流をしていることが唯一、彼にとっての小さな抵抗なのだろう。しかしそれも自分で未来を決めているわけではなく、現在の自分を慰めるための儚い反発に過ぎない。
世界はこんなにも広いというのに、彼は指し示された道しか歩めないのだ。そこには自由も何もない。
そしてそれは、幼き頃から化物として扱われ、普通の人間として生きる方法を知らなかった俺たちと同じだ。化物と蔑まれ、子供なのに戦場へと君臨し、日夜命の取り合いをしていた――あの異常な暮らしをしていた俺たちそのものなのだ。
「そ! 私たちは自由じゃなきゃいけないの。……選択肢が多いってことが『豊か』ってことでしょ? ほんとは、私たちは何をしてもいいのにね」
そう言いながら、ハルは飛び込み台の上に立った。風が彼女の髪を揺らし、稲穂のようにたなびかせる。髪に纏われて彼女の表情を見ることはできない。
けど――なんだか、いつものように――イタズラをする時の笑顔を浮かべている気がした。
「クロは自由に生きてる?」
「魔法界にいた時よりは自由だけど、実際どうなんだろうな。一般常識の中でしか自由に動けてない気はするな」
手づかみで食事をしてみるとか、雨の中で傘を差さずに歩いてみるとか。そういう常識の埒外にある自由はまだ体感したことがないだろう。する必要があるのかと問われれば閉口してしまうが、それでも、常識外の自由に魅力を感じないと言えば嘘になる。
例えば一人暮らしをし始めた者が家では全裸で過ごしていたりとか、体調に気を遣わず暴飲暴食の限りを尽くすとか、人生が傾くほどの大金を競馬に突っ込んでみたいとか、そういう無頼な自由に仄かな憧れを抱く心情は確かにある。常識という鎖に拘束され、いざ動き出そうとすることができないだけなのだ。
「クロはまだ不自由ねぇ。そんな新幹線の指定席みたいな人生じゃダメよ」
「え、お前指定席のことを不自由席みたいな解釈してんの?」
「私がお手本見せてあげる」
そう言って、彼女は蹲るようにしてしゃがみ――え、待ってやめてという俺の懇願にも近い静止を振り切って――目の前に広がる温泉に身を投じた。
威勢のいい音と共に水柱が立ち上がり、飛び込んだ彼女を中心として波紋が広がっていく。飛び込んだ際に舞い上がった飛沫が俺の顔にかかり、乱視になってしまったかのように視界をぼやけさせた。
全てが不鮮明になった世界の中で、一度は沈んだ彼女が勢いよく浮上して、再び水を巻き上げながら姿を現した。月明りを浴びたその姿は、水彩画のように輪郭が曖昧になっている。
俺が目元を拭って視界を鮮明にすると――彼女は誰よりも自由で、誰よりも楽しそうに笑っていた。
「一度、服を着たままお風呂に入ってみたかったのよねー! 分かる? この気持ち」
「分かるっちゃ分かるけど、お前傍から見てると土左衛門そのものだぞ。元気な水死体にしか見えねえ」
果たしてハルは今日の寝間着をどうするのだろうか、替えの下着は持ってきているのだろうか。……そんな現実的な懸念を過らせてしまうことが、そもそも自由ではないのかもしれない。
頭に過らせる想いは、楽しそうか楽しそうではないか、ただそれだけでいい。
自由とは己のやりたいように生きること。メリットもデメリットも自分で受け入れて、その上で未来を決めること。それが自由な生き方で、ハルの生き様だ。
「全く、お前というやつは……」
そう言いながら、俺は鳳輔から借りたダウンジャケットを脱いで折り畳む。飛び込み台の上に立ってプールを見下ろして、気持ちはまるで初夏のよう。
……そして憚られることなく、波打つプールの中に身を投じた。
初めの一瞬は――風呂に入った時と同じ感覚。しかしその深さは浴槽とは異なり、足を伸ばしてようやく首から上が出る程度。濡れた服は重りとなって体に張り付き、想像以上に動きが鈍くなっていた。
不快かそうでないかで言えば、着衣水泳なんて不快でしかないだろう。
……しかし楽しいか楽しくないかで言えば、なんだか妙にワクワクしてしまうから不思議だ。
「おー! いい飛び込みっぷり! 平日夜の刑事ドラマみたい!」
「え、それ投身のシーンじゃん」
飛沫舞い散る中、濡れた前髪を額に張り付けさせながらハルが笑う。月明りで煌めく水面から出でしその姿は、まるで神話によって語り継がれる神々のようで。なんだか目を見つめ返すことが出来なくてあらぬ方向を向いてしまう。
「こーんなでっかいお風呂っていいわねぇ。うちの家にもこれくらいの浴場があるらしいけど、一度も見たことが無いから初めてだわ」
「そうだな。シロガラ国の王宮にもあるらしいが、俺だって宿舎のシャワーしか浴びたことが無いからな……」
二人揃って水面に浮き、月を仰ぎ見ながら適当な会話を交わす。風呂によって血行が良くなったせいか、少しだけ上せたような声だった。
着衣状態で水に入れば、衣服が濡れて沈んでいくと思っていた。しかし浮力のせいか何なのか、俺たちの体はBCDを纏ったかの如く、必要以上にぷかぷかと水面を漂っている。
空には月が昇っているが――都会の宿命か、星はほとんど見えない。神成島ではあれだけ豪勢に見えていた星空も、光害によって薄められて単なる漆黒だ。
そんなつまらない都会の空も、ハルと会話をしながら眺めれば無窮無尽の星月夜。砂金を空に散らしたかのような星空が、今の俺には確かに見えていた。
「どうせならホースケたちも呼べばよかったわね! 多分呼んだら勇んでやってくるわよ!」
「テンションが上がりすぎて全裸水泳を始めそうだから危険だな、公序良俗に反する。それにバカだと思われてる俺たちがびしょ濡れになるのは分かるが、集団水浸しになればまもり先輩もさすがにたまげるだろ」
風と共に雲が往く。月光を浴びた水飛沫が月長石のように淡く光る。彼女が笑うたびに波紋が広がり、俺の体が静かに揺れていた。
まるで全てが作り物であるかのよう。瞳を閉じれば全てが夢に変わってしまいそうなほどに非現実的で、幻想的な夜だった。
「……なあ」
「んー?」
「ハルはさ、この世界に来て……楽しかったか?」
「……そんなのわざわざ聞くまでもないでしょ?」
質問に質問で返しながら、彼女は漂流者のように浮かんでいた体を起こして立ち上がる。そして相変わらず浮かんでいる俺に近づいて、月を背に俺の顔を見下ろした。
「今まで生きてきた中で一番楽しかったわ。……多分、これからの人生の中でもね」
「……そうだな。俺も同じ気持ちだ」
あの日、あのイルミネーションの中で、俺たちは誓った。この世界にいる限りは人間らしく生きようと。
人間らしく生きて、世界を知って、楽しく生きていこう。
普通の人間にとってささやかな念願は、俺たちにとって出過ぎた願いだ。しかしあれから半年もの時が経ち……その願いは成就していた。
「それなら……もう一度、あの場所に行かないか」
それはとてもファジーな申し出だ。主語が曖昧な状態では誰だって確証を持つことなどできないだろう。
しかしハルは全てを理解しているかのように笑って、そよ風に吹かれたかの如く緩やかに頷いた。
「この半年間で俺たちがどれだけ変われたか、今一度確かめに行こう。丁度あの頃みたいにイルミネーションで着飾られているらしいからな。条件は同じだ」
「夏だけじゃなくて冬も装飾するのね。……楽しいことが大好きな無人界らしいわ」
俺の脳裏に、そしてきっとハルの脳裏に浮かんでいるのは、かつて彼女を連れ出したあの公園だ。あの場所で俺たちは世界の美しさを知って、人として生きることを互いに誓い合った。
あれから半年が経ち、俺たちは変われた。友が出来て、学校に通って、かつて同じ化物と呼ばれた存在に出会い、人に戻るための術式を知って……そして、恋を知った。
全てを清算する時が来たのだ。
「クリスマスイブ。……演フェスの後、一緒に行こう」
そこで想いを伝えて、これまでの全てを終わらせる。
化物として扱われていた自分に、これまでハルと過ごしてきた家族としての日々に。
……そう。
もうすぐ俺たちの関係性は――どんな結果になるとしても、変わるのだ。
「……ん。行く」
月光を背に浴びて、耳朶の赤さを隠すことさえせずに。彼女も何かの終わりを悟ったかのように、いつもより大人びた顔で頷いた。
もうすぐ終わる。全てが終わる。
かつて化物と呼ばれた者が抱いた恋物語は、ようやく来たるべき時に至る。
「……あぁ、一応念のため言っておくけど……」
水面に体を預けていた俺は、下半身に勢いをつけて立ち上がる。そして真正面からハルの顔を見据えた。
思い返すはかつての言葉――。
『でも相手に許可を取らないデートってどうかと思うの。ほら、片方がデートと思っていても、もう片方がただのお出かけだと思っていたらそれはデートじゃないわ』
かつて彼女がデートに誘うことを強要してきた時にそう言っていた。あの時は真剣半分、羞恥プレイ半分みたいな感じで受け取っていたが――告白を控えた今なら分かる。
胸中に抱いた想いを、言葉にすることの大切さが。
「これ、デートだからな。クリスマスデートだ。覚悟しておくんだぞ」
一体何を覚悟しろと釘刺ししているのか自分でもわからない。マジメなことを言おうとすると若干照れてこういう余計な一言を付け加えてしまうのが俺の悪い癖だ。
しかしそんな悪癖さえ受容するようにハルは鈴を転がすように笑って――。
「うん、覚悟しておくね」
……何かを、覚悟していた。




