8章 世界は闇の中にある-1
エアコンのランプが眩く感じられるほど薄暗い部屋、微熱を出した時のように仄かな熱の籠った吐息、運動後を思わせるような頬の朱色。先ほどまではあれだけ希薄だった時計の針は、冷静になった今は時限爆弾であるかのように煩く、自己主張を強めつつあった。
外界と世界を断ち切るかのようにカーテンが閉め切られて、冬だというのに蒸し暑ささえ感じてしまうここは――綴流の部屋。
はだけた衣服を直そうともせず、綴流はベッドに横たわって暗がりの天井を眺めていた。時折降りかかるエアコンの熱風を煩わしく思うも、体を動かすこと自体が億劫でどうしようもない。
そしてベッドの縁に腰かけ、ペットボトルの水を飲んでいるのは葵だった。掻いた汗を取り戻すかのように300mlほどの水を一気に煽り、か細くも染み入るような息を吐いている。
……これは全て演技の練習だ。
いつか『そういう役』をやることになるかもしれない。だから、感受性が豊かな今のうちに練習をしておくのが好ましい。……それが彼らの持つ共通認識、そして彼らが謳う欺瞞だ。
本当は、決して結ばれぬ恋心を『練習』という言い訳で発散させているだけに過ぎない。
彼ら二人が気持ちを通い合わせていることは、周囲にいる誰もが気づいているだろう。幼馴染として長い時を過ごしてきた彼らは、気づけば恋心と呼べる気持ちを手にし、いつか交際してそのまま結婚するものだと思っていた。
……しかし、葵の父親が交際を認めていないのだ。
理由は頑として語らないがその意志は固い。どれだけ説得しようとしても徒労に終わり、仕舞いには親という立場を持ち出して一方的に話を打ち切るばかり。彼らが恋を自覚してからずっと、彼の父親は恋路を徹底的に否定し続けていた。
父親が認めない以上、彼ら二人は恋することが許されない。
だから――彼らが持ち出したのは、練習という自己欺瞞だった。
いつかそういう役どころが来るかもしれない、若いうちに演技の幅を広げなくてはならない。……そんな言い訳の末、彼らは唇を重ね、夜を共にする。
どれだけ肌を重ねたとしても、いつかは別れざるを得ない運命だというのに。
そして――留学というリミットが、もうすぐ彼らを引き裂くというのに。
「なァ葵ー、ウチの水まだあっか?」
「ないなぁ。さっき溺れるほど飲んどったやろ、飲みさしでよければこれ飲んどき」
「別に今更そんなん気にしねーよぉ」
葵の飲みかけのペットボトルを受け取り、綴流がぐびぐびと男らしく飲み干していく。水だろうがジュースだろうが気管に入りかねないほど一気に飲むのが彼女のスタイルだった。
唇の端から流れ落ちた一筋の水を拭い、綴流が葵の膝に頭を乗せる。彼女がこうして甘えられるのは、世界広しと言えどもこの薄暗い部屋の中だけだ。
「なぁー、学園祭ナントカ委員会の面々はさぁ、葵の見立て的にどーよ。ちゃんと演技できそ?」
「こればっかりはまだなんとも言えんなぁ。ハルさんは性格的に押せ押せでイケそうな気もするけど、他のみんなはこれからの努力次第ってとこやね」
「そーよなー。ま、なんか秘策があるっぽいからそれに賭けるかー」
魔法によってイカサマをしようと目論むクロたちは、本当の初心者よりもどこか余裕を持っている。その違いを綴流たちは敏感に感じ取り、密かに彼らへ期待を寄せていた。とはいえその秘策とやらが一体どういう内容なのかは見当が付いていない。
「……」
綴流が葵の膝に頬を摺り寄せると、それを見た葵が小さく笑い、彼女の頭を優しく撫でる。
その姿はとても自然で、何年も何年も繰り返されてきた行動であることを示していた。親による束縛さえなければ、彼らはきっと既に何年もの交際期間を経ていたに違いない。
「……なー、葵ー」
「ん? どしたん」
「……………………」
名前を呼んだくせに、綴流はただ黙って葵の顔を見上げていた。名を呼ばれた葵は頭を撫でながら言葉を待つが、30秒が経過しても、1分が経過しても続く言葉は出てこなかった。
しかし、まるで言葉を咀嚼するように綴流の口がもごもごと動き、言葉が徐々に呑み込まれそうになって――それでも形になる。
「ウチのこと、イギリス行っても忘れんなよ」
「……」
ある種諦観のような言葉を聞いて、葵が寂しそうに笑った。もう留学すること自体は受け入れざるを得ないという、綴流の心を敏感に感じ取ったかのように。
「……勿論、忘れることなんかないわな」
根拠も何もない言葉は、単なる欺瞞でしかなく――。
「ただいま……」
家の中は薄暗くてひと気もないが、自宅の敷居を跨ぐ時は必ず挨拶をしてしまう。親の躾が良いのだが本人的にはあまり納得しかねる言葉だ。躾という言葉にはあまり良い思い出がない。
放った言葉は暗闇に吸い込まれ、葵は小さくため息をつきながら靴を脱いで廊下を歩いていく。最初から返ってこないと分かりきっている挨拶ほど空虚なものもないとでも言いたげだ。
自宅に足を踏み入れた彼は、リビングへの扉を開けて――固まる。
「……」
無人だと思っていた家には、今一番顔を合わせたくない男が鎮座していた。テーブルの上に置かれたキャンドルランプを唯一の光源として、男はグラスにそよめくワインを見つめ、口内で彷徨っていた一口分のワインを嚥下する。
そして葵の方へと顔を向けて、つまらないものでも見るかのように目を眇め、再び眼前でさざめく酒へと視線を戻した。
彼の名前は芝原衛。葵の父親にして、かつてドラマ界を賑わせたヒール役の大御所だ。
異形犯罪譚というピカレスクドラマでのヒットを皮切りに、彼の名声は留まることを知らずテレビ業界を駆け巡っていた。
……しかしそれはかつての栄光、家庭内暴力の記事を素っ破抜かれた彼は地位を失い、今や俳優としての仕事も失ってしまった。
それでもあの頃に築いたコネクションは強いらしく、様々な業界人とのパイプを使って未だに影響力を保ち続けている。葵が演劇界の天才児として華々しいデビューを果たせたのも、ひとえに彼の人望によるものと言えるだろう。
「……遅かったな」
地獄から響いてくるような重々しい声が、鼓膜だけではなく全身に響き渡る。かつてはこの声色でヒール界を蹂躙した男だ、引退した今でもその実力は衰えない。
「演劇の練習に励んでいたんよ。留学まであと僅かやし、後を濁さんように後輩指導は可能な限りしとかんと」
「くだらん女の部屋にしけ込むのが演劇の練習だと言うのか?」
「……」
咄嗟の誤魔化しも通用せず、葵は強がるように鼻で笑うことしかできなかった。どれだけ演技力の限りを尽くして嘘を重ねたとて、この父親に通用しないことは分かっている。
「幾度となく繰り返して教え込んだことだ。……お前には分かっているだろう?」
「分かっとりますよ。綴流と付き合うのは許さん言うんでしょ」
「本当は接触させることすら許されざることだ。お前に害をなす女など、周囲に存在することすら烏滸がましい。……お前は俺の気持ちなど理解もせず、逢引きを重ねるばかりだがな」
恋する二人が付き合えないのは、父親である衛が恋路を許さないことが原因だ。だからこそ彼ら二人は練習という名の欺瞞に溺れ、一時的にでも互いの愛を形にすることしかできない。
もしもこの父親さえいなければ、彼らは青春の一幕を華々しく迎えていただろう。
……しかし彼らを引き合わせたのは、この父親がいたからこそなのだ。葵の父親と綴流の父親は高校時代からの旧友、彼らが幼馴染足り得たのは父親同士の交流があったからこそなのだから。
「少しは自重しろ、お前には神からのギフトがある。……その才覚を無に帰すわけにはいかない」
「……多少演技が上手いからって、誰かに誇れるもんでもないですがね」
「無意味な卑下をするな、お前の誇りは具現化しているだろう。この勲章がお前の価値を明示しているはずだ」
芝原家のリビングに置かれた棚には、両手では数えきれないほどのトロフィーや盾が並んでいる。いずれも葵の才能を評価し、ありとあらゆるコンクールや大会にて彼の実力が高い評価を受けていることの証左でもある。
どれだけ本人が受け入れられなくとも、既に世間は彼を見つけてしまったのだ。……専門誌にもネットにも彼の名前が書き綴られている、もうただの素人を自称することなどできない。
「しかし……天賦の才など脆いものだ。適切な管理と保護を重ねなければ容易に腐り落ちる。……このワインのように、一たびの油断が天才を凡夫へと堕落させるだろう」
葵が手に持ったグラスの中には、一般人にとっては誕生日でも迎えない限りは気軽に飲むことすらできないワインが揺らいでいる。きっとワインの世界を知らない者は、その値段を聞いただけで驚愕を禁じ得ないだろう。
どれほど高価なワインであっても劣化は一瞬だ。僅かな油断がワインをビネガーのような液体へと変えるだろう。……天才もそれと同じなのだ。
「お前は私が管理する、腐り落ちることなど無いようにな。……異論はあるまい、この私が手ずからお前を最高の役者に仕立て上げてやろうと言うのだ。文句など言われる筋合いはない」
「……」
親が子を正しき道へと導くのは善き行いだ。しかしそれは道徳的、あるいは倫理的に間違った方面へ進んでいた時の話。葵は右も左も分からぬ稚児ではない、彼は己の人生を自分で決める権利があるはず。
……しかし、そんな一般論は衛には通じないだろう。
家庭内暴力によって妻と離婚してから、彼は葵への教育ばかりに傾倒してきた。人生の先達である自分が選んだ道を歩めば、息子の将来は安泰だと信じて。
それが息子を想う気持ちに起因しているのか、それとも自分が失った栄光を息子によって取り戻そうとしているのか、それは誰にも分からない。
「……でも、綴流と関わることくらいは許してもらえんかな。父さんの言い分も分かるけど、それ以上にあいつは大事な幼馴染なんよ」
「ある程度は寛恕しているはずだ。あの女と共演しない限りはな」
……芝原衛の人生が壊れてしまったのには、異形犯罪譚というドラマが深く関わっている。彼自身は詳しく語らないが、タイトルを聞くだけで限度を超えるほど顔を顰めるのだから、その怨みは骨髄にまで染み渡っているのだろう。
そして異形犯罪譚の脚本を書いたのは、綴流の父親である土居隆書だ。本人に悪気があったのかは分からないが、衛の人生を壊した張本人とも言える。
娘である綴流は、元々父親の脚本に憧れて物書きを志した。そしていつか、死んだシリーズである異形犯罪譚を復活させることが夢なのである。演劇の台本を書いているのは、葵と一緒にいるためだけではなく、いつかドラマの脚本家になるための練習でもあるのだ。
……衛という天才を壊した人物の娘が、あの許されざる作品に憧れて台本を書いている。それは衛にとっては到底看過できない許されざることだった。
「……お前は私の敷いたレールを歩み続ければいい。留学後の面倒も全て見てやる。だから……無駄な懸念を背負い込むな」
「……………………」
返事を沈黙で埋め、葵は踵を返してリビングを出ていく。
部屋を出た瞬間、芳醇なワインの香りが消え失せて――ようやく葵は深く息を吸い込むことができた。
「…………自分のエゴの為に、俺を育ててるくせに…………」
もしも全てが父親としての愛に起因していたならば、彼らの関係がここまで歪むことは無かっただろう。
やりすぎとも言える管理も、葵のことを心から考えていたならば、単なるすれ違いとして解釈できるはず。綴流を近寄らせまいとする理由も、彼自身の過去を鑑みてみれば分からなくもない。
しかしある日、彼は気づいてしまった。
葵という漢字はもう一つの読みを持つ。それは『まもる』という、父親と同じ文字列だ。
芝原葵という名前は、芝原衛という名前そのもの。
……そう、自分は最初から父親の代用品として作られたのだと。
あの忌まわしき異形犯罪譚によって失敗してしまった自分の人生をやり直すための存在が芝原葵。彼が生きているのは彼自身の人生ではない、『芝原衛』の二度目の人生なのだ。
葵が壊れてしまわないよう管理しているのも全て自分のため。幼き頃から演技力を磨かせていたのも自分のため。様々な賞やコンクールに出させていたのも自分のため。彼の全ての実績は父親の傷を癒すためのものでしかない。
その束縛から逃れるすべはない。何故なら既に葵は演劇を好きになってしまっていたのだから。幼き頃からそれだけをアイデンティティとしていた少年は、今さら何者でもない人生を歩むことなどできなくて。
影響力の強い父を拒めば、きっと演劇界を歩めないように根回しされる。父の行動を告発すれば、己の人生諸共全てが壊れてしまう。
……それに気づいた時、彼は自分を捨てた。
自分の本心を覆い隠し、空虚な日々を生きていく。自分の人生を歩めず、好きになった女性とは付き合えず、望んでもいない留学によって世界に名を馳せていくだろう。
糸を知覚してしまった操り人形は、自分の意思を捨てることでしか痛みから逃れられなくて。
……今日も彼は、本当の自分を誰にも見せずにいた。




