7章 想定外の再会
翌日、恙なく起床した俺たちは学校への道のりを歩いていた。
昨日は夜遅くまで台本のアイデアをまとめていたせいで若干寝不足だ。隣を歩くハルもファンデーションやコンシーラーでは隠し切れないクマを携えているので、あの後もネタを出していたのだろう。もちろん、一番睡眠時間を削って頑張ったのは綴流だろうから弱音を吐いたりなんかしないが。
「おいハル、昨日はどうだった。演劇部が湧き上がり、綴流が舞い踊るようなネタを出せたのか?」
「そりゃもう死ぬほど出してやったわ」
「死ぬほどは出すなよ、スパムだろそれ」
夜中の睡眠時間がどれだけ削られても、俺たちには古文の授業という絶好の惰眠タイムが存在するので放課後までには回復できるだろう。ちなみに前回の古文のテストは53点という悲惨な結果だった。
「……ん?」
その時、見覚えのある後ろ姿を目撃する。
路地から出てきて俺たちの前を歩いているのは、どう見ても昨日お世話になった葵先輩だ。あのウェーブがかったグラデーション髪も、モデルと見紛うようなくびれと高身長も、大人の決めたルールを全力で無視するような外見の全部が彼の特徴と合致している。
偶然出会って挨拶も無しに通り過ぎるのは薄情なことこの上ないので、俺はハルと一緒に小走りで葵先輩の隣にまで走り寄り、朝っぱらからこってりした笑顔を浮かべる(ハルからは寝覚めが向こう数ヵ月間悪くなると大変好評だ)。
「おはようございます、葵先輩。今日も演劇のご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
「よろしゅうパイセン!」
ハルと共に全身全霊の挨拶をかますと、葵先輩は昨日みたいに柔和な笑顔を――。
「ぇあっ……?!」
――浮かべてはいなかった。
不審者に話しかけられたかのように肩が竦み、驚愕のままに俺たちから数歩分距離を取り、体を守るかのように両手を胸の前で組ませるという弱々しい反応を披露している。
「……え?」
よく見てみれば――何かが変だった。
背後から見た姿は葵先輩そのものだったのだが、こうして真正面からその姿を見てみると、昨日とは大きく異なっている。
昨日の男子っぽいナチュラルな化粧とは異なり、今日の彼はSNSに自撮りを上げていそうなほどバチバチにキマったメイクを重ねていた。表情もおっとり男子ではなく少しだけ臆病な女子みたいな顔で、声もミックスボイスを身に付けているかのように昨日より高い。バカデカい鞄のせいで後ろからはあまり見えなかったが、服装も昨日の改造制服ではなく、なんだか都心の主要駅で夜な夜な活動していそうな軽度ロリータ系ファッションだ。
葵先輩というよりは、葵先輩みたいな何かと呼称してしまうほどに何もかもが違っていた。
「あ、あの……何か御用ですか……?」
彼は――いや彼女かもしれない――とにかくその人物は、怯えたように声を震わせながら、おずおずと要件を訪ねてくる。その表情に親密さはない、まるっきり初対面の人間を相手にする時の対応だ。
「えっ、あ、あの……芝原葵先輩……ですか……?」
「しばはら……?」
その人は初耳とでも言いたげに首を捻り、違いますけどとでも言いたげな表情を浮かべる。
服装や表情が衝撃的過ぎて見過ごしていたが、彼女の手には嫌になるほど餡子が詰まっていそうなデカいアンパンが握られていた。昨日の葵先輩の話によれば甘いものが嫌いとのことだ、もし彼ならばこんな致死量にも値するほどの餡子を摂取したりはしないだろう。
「あの……あたしは前川……と申しますが……その、失礼ですが、人違いじゃありませんか……?」
「……そ、そうみたい……ですね」
別人と呼ぶにはあまりにも酷似しているが、同一人物と呼ぶには様々な部分が異なりすぎている。そんな一卵性双生児の人を見るような気持ちになりながらも、俺は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、あの、すごく似ている人が知人にいまして……間違えて声をかけてしまいまして……」
「えと、その……はい、こちらこそご期待に沿えず申し訳ありませんでした……」
誰がどう見ても俺たちが悪いというのに、彼女もわざわざ頭を下げてくれる。俺は大慌てしながらもう一度頭を下げ、追撃の謝罪を一発ぶちかました。
そして彼女は再び歩き出し――俺たちと同じ道を歩くのが気まずかったのだろう、少しだけ早足でどこかへ去っていく。
「……」
残された俺とハルは快晴の空の下、あまりにも胡散臭すぎる表情を向かい合わせる。
「葵先輩にすげぇ似てたよなぁ……」
「でも仕草も表情も全部も女の子だったわね……」
あんなビジュアルの人が複数いるわけがない。もしいるというならば元ネタがあるということ。すなわち、葵先輩も前川という人も、誰かのファッションを真似ているという説だ。
もしくは――葵先輩が前川の、あるいは前川が葵先輩の見て呉れをコピーしている?
でも前川って人は芝原葵という名前に聞き覚えが無いようだった。二人が知り合いという線はあまりにも薄いが、一体これはどういうことなのだろうか?
時代が時代ならドッペルゲンガーとして処理されていたであろう珍しい事例を目撃した俺たちは、頭の中に疑問符を浮かべながら通学路を歩いていく――。
「原稿がぁ、完成しましたわァ! やコレまじでギリッギリ完成したわ、うら若き身分で命を削って頑張りましたわこれぇ。何らかの栄誉賞とか貰うくらいの功績だろこんなのぉ」
放課後、本日も演劇部に向かった俺たちを出迎えたのは、若干グロッキーな顔になりつつもバリ上げのテンションを披露している綴流の姿だった。
今日の彼女は登校した時から集中モードで、授業中はずっと台本書きに勤しみ、午後に至っては体調が悪いという嘘で授業を放棄して執筆していたらしい。そしてその努力が結実し、今彼女の右手には出来立てホヤホヤの台本がホチキス留めにて束ねられていた。
「おう、ついに完成したか! やるなぁ、さすが俺の見込んだ小さい子」
「話には聞いてるよ、完成おめでとー!」
真っ先に彼女を褒めたのは、昨日法事で部活動に出ていなかった鳳輔とアイだった。賞賛の出鼻を挫かれた俺とハルはスタンディングオベーションをし、綴流の努力を行動で讃える。
「今回のホンはよ~、ハルチャンから出たアイデアを元に書かせてもらったんだョ。ちょお良いアイデアありがとな~、シナプスにビビっと来たぜぇ」
「え、ハルが?」
綴流に褒められつつ抱きしめられているハルを見て、マジか意外だという感想を得てしまう。まさかハルが有用なアイデアを出すなんて、同居人として誇らしいような悔しいような綯い交ぜの気持ちだ。
「フフーン、意外にも文学系女子!」
褒められたハルが調子に乗っている。アイデアを出しただけなのに文学系を自称するのは若干烏滸がましい気がしないでもないが、採用されなかった俺が言っても負け犬の絶叫にしかならないので閉口せざるを得ない。
「ハルチャン、いいアイデア出すじゃねーの。……てかアレ実話? なんか心情が生々しかったんだよなぁ」
「えー、あー、実話――じゃないわね。うん、想像。バリックソ想像で書き散らかしたわ。妄想と言っても過言じゃない」
「そっか、ダヨナー。あのハルちゃんがかつて引き籠りだったなんて、んなたまげる過去あるわきゃないもんな~。ビビるわ~」
……あのハルが一から物語を考えるとは思えないので、多分、化物扱いされていた時代のことを引き籠り時代として変換して書いたのだろうか。
それとも……この世界に来たばかりの、あの頃を綴ったのだろうか。
「んでよォ、ハルチャンからアイデア貰って書いたホンだから、タイトルを付けてもらいたいんだよナ。全部読んだら名付けてやってくれョ、もし入賞なんかしたら今後その名前がフェスの歴史に残っちゃうぜ~?」
「『クロの屁は花を枯らす』とかでいいかしら」
「いいぜ~」
「ダメに決まってんだろ」
何故か俺へ流れ弾が飛んできたので叱り飛ばし、真面目に検討するようハルに指示を飛ばす。
「しかし、まさかホントに一日で台本を作り上げるとはな。慣れてるのか?」
「おー、ウチのおパパがドラマの脚本家でなぁー、色々手ほどき受けてたんだよネ。それに演劇自体はガキの頃からやってるしィ、も、杵柄取りまくりんぐ」
「へぇ、一子相伝みたいな感じか」
確かに俺の父親が炎魔法の使い手なので俺も影響を受けているし、ハルも母親と同じ氷魔法を得意としていたはずだ。それと同じように親から影響を受けて育ってきたのだろう。
その時、部屋の隅っこでパソコンと繋がれた小さなコピー機が無機質な音を鳴らす。コピー機の前には幾枚もの紙が散らばっているようだった。
「おォー、全員分のコピーができたな。とりあえず総員読んでみてょ。ヘンなところがあったらビシビシ指摘してくれよな、今寝不足でメンタルに来てるから泣くぜ」
「指摘しづらいんだけど……」
散らばった原稿をホチキスで留めていき、綴流が全員に配ろうとした瞬間――演劇部の扉が開いた。
「おー……今日も来とるな若者。マジメなようで感心」
姿を現したのは葵先輩だった。一瞬葵先輩なのか前川とかいう女性なのか混乱したが、よく見てみると化粧のノリも昨日と同じだし、喉から発せられる声も男性のものだ。
しかし……その服装は改造制服ではなく、前川と全く同じピンク&ゴシックのフリル山盛り地下系ファッションだった。化粧が薄いのにも関わらず妙に似合って見えるのは、そもそも顔の系統自体が女性寄りであることに関係しているのだろう。
「……葵先輩……あれ、前川さん……あれ、え……?」
「なんかアレね、成虫に変態途中の蛹を見た気分だわ。二人が混ざってる感じ」
慄く俺たちに対し、葵先輩の性別と事情を知らない鳳輔とアイが何を怯えているのかと不思議がっていた。しかし今朝の出来事を話しても到底信じてもらえない気がする。
「おー、今日は早ぇーな葵ぃ。んだぁ? 授業サボったんかぁ?」
そんなとんでもないファッションにも関わらず綴流は全く気にしていないようで、前川葵先輩のお腹にボスボスと猫パンチをくらわせていた。
「ちゅかアレか、んな服装してるってことはお仕事中か。なぁーにカワイイ服着てんだよマジで、ウチより可愛いとか世論が許さネーゾ?」
「しゃーないやん、女装男子のお仕事なんやもん。でも慣れてるからあんまり違和感ないわ」
「オメー、時々イベに出て女装コスしてるもんな~。まァーじでゴツい手ぇさえ隠せば女より可愛い男になりやがるよなぁー犯罪的だろコレ。で、今回はどんな設定よ」
「前川ましろっていう内気な子やね。服飾系のガッコでパタンナーやってるんよ。ホントはデザイナーになりたくて、でもパタンナーの才能が凄まじすぎて周囲からの期待が……みたいな話やったなぁ」
何やら喜色満面に談笑なんかしているが、とにかく彼は葵先輩ということで確定させてしまっても良いのだろう。話の流れからして、前川という女子は何らかの設定として演じていただけのようだ。
……だとしても、麗らかな朝に後輩から挨拶をされた時にまで役に入り込むのは如何なものかと思うが。
「えーと……すいません、葵先輩でいいんですよね? 前川某とかいう女子ではないんですよね……?」
「ん? なん、クロくん前川のこと知っとんの?」
「え、だって朝会ったじゃないですか。めちゃめちゃ女めかしな反応されましたよ」
「へぇ、朝に会うてたんか。そら大層ビビらせてしもたねぇ……」
どこからどう見ても素の反応、誤魔化すような仕草は一切ない。葵先輩は俺たちと出会った事実を知らない、もしくは憶えていないようだ。
すると綴流がため息にも近い感嘆を落とし、同情するように俺の肩に手を添えた。
「アー、クロチャンたちも難儀な時に出会ッちまったもんだナ~。コイツ、一たび演技に入ると役の人物そのものになるンよね。も、人格から記憶までゼーンブ。だから朝に会った時の葵は『前川ましろ』とかいう女子そのものだゼ」
「え、なんですかその特殊体質」
「なぁ~! とんでもねぇ体質だよなァ、もっと文句言ってやってくれよぉ。これのせいでウチが何度素っ気ない反応されたことか! 幼馴染なのに演技中は他人として接されるんだよォ」
綴流の話曰く――演劇中、演じた役にのめり込む役者は大勢いるが、その中でも葵先輩は群を抜いているらしい。もはやそれは努力でなく才能の世界、天からのギフトでしか成し得ない特殊な領域の才覚のようだ。
役に成りきるだけではなく、演じているシーンが現実で起こっているかのように演じることもできるのだとか。例えば――鮫に襲われているシーンを演じる場合、演技中の彼には襲い来る鮫が『確かに見えている』。さりとてあまりに演技過剰では観客が引いてしまうので、オーバーになりすぎないよう本能が制御して丁度いいリアクションに抑えるとのことだ。
要約すると、とんでもない才能を持った演者ということになるだろう。もはや俺のような素人ではその価値を図りかねてしまうほどに。
「本番までに完成度を上げんとならんから、今日の大半は役に成りきって行動してたんよ。服装から何まで本気でなぁ。どう、女形の俺も変ではないやろ?」
「ええ、まあ……むしろ女装を生業にしている人の如き完成度ですけど……」
公園ではしゃぐ小学生の群れたちに解き放てば、いたいけな青少年の性癖を完膚なきまでに捻じ曲げてしまいそうなほど、今の葵先輩はサマになりすぎていた。さしもの俺とてハルに惚れていなければ若干ヤバかっただろう。
「葵さァー、似合うのはいいケドさー、おツルに新たなる世界の始まりを見せちゃってるから着替えてきな~?」
「俺……男でもいけちゃうかも……!」
「あらまぁ、俺は全然かまへんけどな」
性癖の萌芽を惜しげなくも披露しつつあった鳳輔と、彼を取られないように間に割って入るアイ。そんな彼氏彼女の姿を見て葵先輩は小さく笑い、ド派手なピンクのバッグから折り畳まれた制服を取り出した。
「彼女ちゃんが可愛らしく威嚇しとるし、今日のところは着替えとこか。衣装室借りるわ」
女性よりも女らしい仕草でウィンクを一つ飛ばし、パリコレにでも出れそうなほど美しい所作で葵先輩が隣接している衣装室とやらに向かっていく。そんな去り行く彼の背中に鳳輔が情熱的なキッスを飛ばし、鳳輔の背中にアイがティッシュをぶつけていた。
「いやぁ土居さんも葵先輩もいやらしくキャラが濃くて眼福だ、これだけで演劇部の依頼を受けた価値があるってもんだな。なあクロ」
「この流れで同意を求めないでくれ。……でもまあ、土居さんの見た目と葵先輩の才能には驚いたな。あんな二重人格みたいな才能があったら色んな劇団から引く手数多なんじゃないか?」
「あー……ま、そだなぁ……」
俺の問いかけに対して放たれた綴流の反応は、どこか違和感を秘めていた。冷めているというか気まずそうというか、俺たちには話していない何かを言うべきか迷っているような口調だ。
煮え切らないような唸り声を一つこぼし、彼女は腕を組んで体を揺らしながら悩み、「どうしようかなぁ」ともはや率直に悩みを口に出していた。
「まー、その、なんだぁ。引く手数多過ぎンだよなぁ。葵の父親が界隈の有名人ってこともあってさぁ、アイツの才能が方々に知れ渡ってるわけ」
それは道理だろう。何かしらの演劇コンクールに一たび出れば、彼の話題は業界内に駆け巡るはずだ。そしてその才能を求めて様々な誘いが来ることも想像には難くない。
しかしそれは喜ぶべき話のはずだ。才能が認められて勧誘を受けるなど、演劇を続けている者にとっては冥利に尽きる話のはず。綴流が微妙そうな表情をする理由には繋がらない。
「ん、まあ、才能がありすぎてさ……」
同じ船に乗りかかった俺たちには話しておこうと決意したのだろう。彼女は少しだけ口元をもごつかせながら、有孔ボードの敷き詰められた壁に視線を向けつつ数秒だけ間を空けた。
「葵ってさ……来年の春に留学するんだよね」
「留学!?」
「留学!?」
「留年!?」
あろうことかハルだけ聞き間違えていたが俺たちは思い思いの驚愕を露わにし、彼が消えていった衣装室のほうへと視線を向けてしまう。
「それは……なんだ、言語留学みたいに外国の演劇学校に通うため……?」
「……いや、ウエストエンドで活動してる本格的な劇団に誘われてンだ。ブロードウェイと並ぶ演劇の本場だぜ、名誉なことだよな」
名誉と言いつつも、綴流の口からは乾いたような笑い声が漏れていた。
ウエストエンドと言えば、確かイギリス――ロンドンの地名だ。劇場地区を持ち、ミュージカルや演劇が連日開演しているポピュラーな街。そこで活動する劇団が、単なる日本の高校生を勧誘するなんて、普通ならば到底在り得ない話でしかないはずだ。
……彼女の言うように、それはとても名誉なこと。しかし彼がロンドンへ行くというならば、当然のことながら綴流とは離れ離れになってしまう。
「あんまり……嬉しそうには見えないな」
「……まーなぁ、五分五分だよ。幼馴染を応援したい気持ちと、ウチを置いてどっか行ってんじゃねぇって気持ち。……いつ帰ってくるかも分かんねぇから、色々思うところもあってな」
果たして本当に五分なのか。彼女の物憂げな表情を見ていると、思わずそう問いかけたくなってしまう。
きっと幼馴染に置いて行かれる哀が色濃いのだろう、彼女の表情からはどんなに演技に慣れていたとしても隠し切れないほどの寂しさが読み取れる。
「ま、葵にとっちゃ日本なんて狭すぎるからな。えれぇ賞を国内で幾つも取ってきたし、そろそろ大海に繰り出る頃合いなんだろうよ。……んな立派なヤツの邪魔はできねぇよなぁ」
……ずっと腑の中で渦巻いていた謎の答えを、なんとなく理解することができた。
どうしてインフルが蔓延したというのにフェスへの参加に拘っていたのか。わざわざ部外者を集めてまで成し遂げたかったのは何故か。ボロボロになりながらも1日で原稿を仕上げた心の原動力は何か。
全ては、日本を去り行く葵先輩に向けた餞の一幕なのだ。
これがきっと、彼らにとって最後の演劇なのだから。
「……悪かったな、変な空気にしちまって。……疲れてるのかもな、ウチ。ちょっとばかしネイティブになってるみたいだ」
ネガティブだろ、なんて野暮なことを俺は言わなかった。雰囲気を変えようとした彼女のジョークに上手い対応も出来ずに、曖昧な表情を浮かべることしかできない。
そんな俺たちに気を遣ってか、より一層小悪魔的な表情を浮かべながら「つーわけで!」と仕切り直すような大声を出し、綴流は俺たちに一部ずつ台本を手渡してくる。
「この劇を葵に見せて、オメーがいなくても平気だぜってところを見せつけてやんだよ! 後腐れなく背中送り出すためになぁ。頼むぜ愛する助っ人たち、ゼッテー劇を成功させてやろうぜェ!」
場の雰囲気を切り替えるために策を弄しているのか、綴流は俺たちに向かって円陣を組むように命じてくる。このままの雰囲気で劇の練習など厳しいところがあるので、俺たちもそれに応じようとして――。
その瞬間、扉が強かにノックされた。
礼儀としてノックしたというよりは、扉に向かって苛立ちをぶつけるような威力と音だ。お隣の部室から苦情でも来たんじゃないかと思うくらいの無遠慮さに、俺たちは思わず扉に視線を向ける。
そして憚られることなく扉が開き、そこにいたのは………………。
「おっ、とっちゃん! いいところに来たな~、決起円陣に加わってくれヨ!」
そいつは綴流と葵先輩にとっちゃんと呼ばれている者、まだ姿を見せていなかった演劇部の最後の一人。
彼のことは知らないが、人伝で少しだけ知っている。どんな顔をしているかは知らなかったが……場の雰囲気だけで全てを理解した。
鳳輔とアイの表情を凍り付かせた、その男の名前は。
「……坂浦……命……」
かつてアイを虐め、鳳輔に暴力を振るわれた男。
朝霞正善と共に死んだ姉を持ち、終いには委員長に頬を殴られた男だ。
「……はぁ……? 鶴ヶ島……と、朝霞……?」
坂浦も鳳輔もアイも、あまりの驚愕具合に考えがまとまっていない。恐らく思考がホワイトアウトして完全に止まってしまったのだろう、彼らは数秒間たっぷりと視線を通い合わせて、惑いながらもなんとか現状が夢ではないことを理解していた。
「………………」
……坂浦が昨日演劇部に来なかった理由は、鳳輔たちと同じく法事だったのだろう。アイの兄と坂浦の姉が死んだのは同じ日だ。
恐らくとっちゃんという渾名はミコトという名前の最後の一文字から取っているのだ。多分本人的には望ましくないのだろうが、鳳輔やアイにこじゃれた渾名を付ける綴流ならそう呼ぶのも不思議ではない。
当事者である三人が混乱すればするほどに、部外者である俺の頭は冷静になっていき、どうでもいい部分まで全て悟ってしまう。しかし脳内が目まぐるしく動けども、この現状に対して何をしたらいいかまでは考えつかなかった。
世界の時が止まってしまったかのような静寂の中、俺たちは誰も言葉を発せずに――。
「手伝いに来てくれたんだから挨拶しろやバカちん」
綴流が持っていた台本で坂浦の後頭部を叩き、パァン!と小気味いい音が壁の吸音材に吸い込まれていく。フリーズ状態に陥っていた室内が温度を取り戻し、ようやく時計の針が進む音が俺たちの耳孔に飛び込んできた。
叩かれた坂浦も我に返り、状況を理解したのだろう。さすがに鳳輔たちが来るとは思っていなかったのだろうが、補充要員として外部からメンバーが来ることくらいは知っていたはずだ。
現状を理解した彼は、できるだけ鳳輔たちを視界に入れないよう、俺たちに視線を向けながら咳払いをする。
「……坂浦命、演劇部所属の一年。初対面だけど敬語は嫌いだからタメな」
「は、はあ……俺は高坂黒、このアヒルよりマヌケそうな奴が若葉春。なんか複雑だけど宜しくな、とっちゃん」
「テメその名で呼んでんじゃねーよ苗字で呼べカスが」
非常に滑らかかつ澱みのない暴言に、さぞやこいつは日頃から口が悪いんだろうなぁと性格を感じ取る。なんだかゼロとかに溶け込めそうな粗暴さだ。
「えー、私も苗字で呼ばなくちゃダメなの? こんなに可愛いのに」
「うっせバカ、あんまチョケんじゃねーよ。……は? テメほんとに可愛いじゃねぇか、ンだよ生まれながらの勝ち組かよ。腹立つな」
見るからに性格の悪そうな目つき、伸び伸びとした暴言を大量生産する語彙の汚さ、それなりに校則への反逆を試みた染髪とアクセサリー。……しかし演劇部の奇天烈な二人のせいか、単に口と目つきと性格の悪い普通の男子にしか見えない。
いや普通の学校に通う普通の生徒なのだから普通であるべきなのだ。どいつもこいつも一癖ある奴らなせいで麻痺しているが、これくらいのささやかな逸脱さが本来あるべき姿だ。
「……」
「……」
そして鳳輔と坂浦の視線が再び合い、格闘技の試合直前のような物々しい緊張感が走る。
鳳輔は愛想笑いにも満たない苦笑いを浮かべ、アイは空気と同化するように無の表情を表し、そして坂浦は手乗りの動物なら吹き飛んでいくような勢いで、凄まじいため息をついた。
「……オメー、サッカー部じゃねーのかよ」
「あー……本籍は学園祭実行委員会で、サッカー部に出向してる感じ……」
「ンだよ、ダリーなマジで……」
洗濯物が若干乾きそうなほどの盛大なため息を再びついて、禍根の残る二人を坂浦が見据えた。
「過去のいざこざは置いといてだ、手伝いに派遣されたんだから真面目にやれよ。気まずいからってマジ練習サボんじゃねーぞ」
「なに偉そうなこと言ってんだド素人がァ」
上から目線で忠告をした坂浦のケツを蹴り上げ、綴流は呆れ半分の口調でそう言った。
「悪ィな学園祭ナントカの諸君よォ、こいつマジで性格と口が悪いんよ。も、同級生からうっすら嫌われてるほどな。生意気言ってたらケツ蹴っていいから、ご自由にお蹴り上げください」
「はァ? テメ、人様のケツを安売りしてんじゃねえよ。しばくぞ糞ピンク」
こんなことを自分で言うのもなんだが、俺たちの演劇でマトモな奴が俺とアイくらいしかいないのは大問題なのではないか。ハルはバカだし鳳輔は変態だし、綴流は見た目が強すぎるし坂浦は性格がドブだ。本当にこんなメンバーで華々しい演劇が完成させられるのだろうか。
若干先行きが不安になっていると、ようやく着替え終えた葵先輩が衣装室から出てきた。服装が普通に――いや改造制服はどう考えても普通ではないが――ドピンク衣装よりは落ち着いた衣服に変わったせいか、昨日までの葵先輩が戻ってきたような気持ちだ。
「おー、とっちゃん来てたん。もう用事はええんか?」
「オッサンいたのかよ。用事なんざ一日で済んだわ、フェスまで時間ねぇしあんま休んでられねぇだろ」
後ほど聞いた話だが、坂浦が初めて葵先輩と出会った時、彼は役作りとして50代半ばの中年男性役に成りきっていたらしい。そのせいでオッサンとかいう不名誉極まりない呼び名になってしまったらしいが、葵先輩側は全く以て気にしていないようだ。
「よーし、これで全員揃ったなァ! このメンバーでイッパシの演劇ヤってみせッぜ!」
全員集合にテンションを上げた綴流が、抱えていた台本を一人一人に手配りしていく。
そこそこ分厚い台本の表紙には、出演者の名前と高校名、第〇回演フェス用台本という注意書きが記されている。未だタイトルが定められていないせいか、表表紙のド真ん中には『 』というタイトル用の空欄が確保されていた。
表紙を一枚めくれば、登場人物一覧と物語のあらすじが記載されている。
生まれて初めて目にする演劇用の台本に少しだけ高揚感を得ながら、あらすじを読んでいった。
物語は天国と地獄の間にある『煉獄』という世界が舞台となる。
現世で死亡した者が行き着く先で、死した者が地獄に落ちるほどの罪を抱えているわけでもない場合、その煉獄という場所で罪を償ってから天国へ行くという設定のようだ。
主人公は一人の少女、現世での記憶を失った状態で煉獄へ来てしまい、禊ぐべき己の罪が分からぬまま死後の世界を彷徨う者。
そんな彼女を取り巻く様々な登場人物。少しずつ明かされていく現世での罪。現世で失ったものの大きさに、心の闇へと落ちていく主人公。
そんな彼女に手を差し伸べ、闇の世界から救い出そうとする一人の少年がいた。彼は生前から主人公のことを知っていて、その同情されるべき境遇を理解しており、彼女の力になりたいと願っていた。
登場人物それぞれが抱える現世での罪と、償い、そして後悔。それらが一つに結び合い、物語は光の中で幕を閉じる。
世界がどんな闇に包まれていたって、大切な人が光の道標となる。誰かが生きる意味を肯定してくれる。この闇の中を共に生きてくれる。
これは、きっとそういう物語。
「おー、とりあえず今日は流れだけ掴んでおいて、意見があったら後々ケータイで送ってくれよなァ。こっちで配役とか演出とかキメとくから、とっちゃんはクロチャンとハルチャンに指導して、葵はおツルとマナっちに指導してやってくれぇ」
綴流が部長らしく指示を飛ばすと、葵は特に異議なく頷き、坂浦は顔の左右を著しく歪めながら不満そうな声を上げた。
「俺がァ? ンで俺が教育係になんだよ、そういう指導的なのは全部オッサンに任せときゃいいだろ、暇そうだし」
「クロチャンたちは2日目、おツルたちは1日目、指導の内容が全然ちげえだろがァ。全員一緒くたに指導すんのムジーだろ? 文句言うと配役逆にすんぞ、さっき気まずそうにしてたおツルとマナっちを担当すっかー?」
「……チッ」
俺たちにもはっきりと聞こえるほど明瞭な舌打ちを一つ飛ばし、坂浦は面倒くさそうに後頭部をガシガシと掻いた。
「んじゃ、なんでもいいから一本だけ台本寄越してくれや。昨日基礎やったんだろうし、読み合い中心に進めっから」
「なんでもいーぜぇー、好きに持ってきなァ」
その辺に置いてあった台本を手に取り、坂浦が俺たちを部室の隅っこまで誘導してくる。同時に葵先輩も鳳輔たちを手招きし、俺たちとは逆サイドの片隅にまで移動していった。
俺たち二人の指導員となった坂浦は、一瞬考えるような仕草をしてから手に持った台本で己の顔を仰ぐ。
「なあ、基本的な内容とか昨日済んだろ? あのオッサンから指導されたんなら、別に俺が補足するこたねぇよな」
「平気! も、基礎なら達人級よ!」
果たして基礎レベルなのか達人レベルなのか分かりにくいことを言いつつハルが胸を張ると、坂浦が俺たちに一冊の台本を渡してきた。
「んじゃテキトーに声出しして喉目覚めさせろ。それが済んだら台本の読み合いすっから。……最初は演技じゃなくて台詞を読み合うだけな、慣れてきたら多少は感情入れてけ」
「読み合いか……まあ読むだけならなんとか」
そう言いつつ台本の表紙を見ると、妙に牧歌的で平和なタイトルと共に『土居綴流』という見慣れた名前が書き込まれていた。恐らく彼女が書いた台本の一つなのだろう、過去の劇で使用したのか練習用に書いたのかは分からない。
しかし、なんだか先ほど読んだフェス用の台本とはどこか異なっているように思えた。
言葉では表しにくいのだが、どこか語彙に乏しいというか表現の幅が狭いというか、台詞回しなどがどこか稚拙なのだ。
もしかしたら台本を書き始めたばかりの作品なのかもしれない。彼女とて人間だ、かつては不慣れた時代だってあっただろう。
そんなことを思いながら、ハルと揃って声出しをし始めた。
――台本に演出を書き加えながら、綴流が横目でクロたちの様子を見ていた。
今、クロが持っている台本は彼女が中学一年生の時に書いた懐かしの一品だ。小学生の頃から執筆をしていたのである程度の体裁は保っているが、今綴りし文章と比較すれば天地もの差があるだろう。
そんな一作を演じられることに、多少の恥ずかしさがないと言えば嘘になる。かつて未熟だった時代の作品を蒸し返されることは、創作者にとってどこか気恥ずかしいことなのだから。
……しかし同時に、懐かしさと切なさを覚えるのもまた事実だ。
何故なら、その作品は――芝原葵と共に演じる為に書いたものなのだから。
しかしその作品はもう、誰にも届かない。
今はもう、幼馴染と一緒に演劇をすることなどできないのだから。
全ては人生という名のエチュード。望まない未来だとしても、流れに沿って演じることしかできないのだ――。




