6章 世界は光の中にある
【半年前、無人界来訪から4日後】
ハルが初めて無人界に来た時、あまりにも安穏とした微温湯のような世界で拍子抜けしていた。
これまで彼女が見てきた景色は、いつの日だって戦火の嵐に吹き荒ぶ光景ばかり。死、流血、欠損、肉片、断末魔――そんな地獄の日々が世界の在り方だと思っていた。
戦争の海に沈む魔法界とは裏腹に、彼女が降り立った日本はあまりにも平和ボケを尽くしていて、本当に人間の生きる世界なのかと疑ってしまったほどだ。
……しかし、そんな感情もすぐに心中の闇へと溶けていってしまう。
彼女に与えられた使命は、魔法界への帰還を待つことだけだ。……生まれてからずっと誰かの指示によって生きてきた彼女は、別世界に来てからも忠実に従うしかない。
今日も彼女は部屋に籠り、ベッドの上で体育座りをして、祖国のゲートが修復される日を待ち続けていた――。
「もう……限界! 俺の心が!」
まだ生活感の薄いリビングで、クロが弱音を零している。その手に持ったコップが震え、注がれた蕎麦茶に波紋が広がっていく。
当時の彼は今とは少しだけ違って、戦争の残滓を残したような顔をしていた。目つきは鋭く、硝煙の香りを強く漂わせ、ありとあらゆる方向に警戒心を飛ばしている。彼とて生まれてから戦場に君臨し続けてきた男だ、平和な日本に慣れるためには時間を要するのも仕方がないだろう。
「ふーむ、それはさぞや心労が重なる状況でありますね」
クロの対面に座り、少しだけぬるくなったお茶を啜っているのは諜報員だった。彼も今とは雰囲気が異なり、客人に対応する時のような慇懃さを備えている。
彼がここに来たのは無人界の常識を教え、無駄な疑いをかけられないようにする為だったが――いつしかクロの悩みをぶちまけるコーナーへと変貌していた。
彼の悩みの原因として挙げられるのは、もちろんハルのことだった。
無人界に来てから――というより来る前から無表情かつ無感情な様相で、クロとロクな会話すら交わしていない。コミュニケーションが取れないなら打ち解けることもできず、彼ら二人は一週間経った今も余所余所しい関係が続いていた。
彼女は基本的に部屋から出ず、ベッドの上で帰還を待つばかり。食事を用意したら生存に必要な最低限だけを口にし、それ以外はトイレとシャワーの時だけ部屋から出る始末。しかもシャワーは軍隊式の爆速で、総合したら1日20分程度しか外に出ていない。
「なんだよアイツ、挨拶しても無視しやがる! そりゃ敵同士なのは分かるけど、今は緊急事態だぞ……?! 協力して穏便に進める気はねえのかッ。クッソ、杖がありゃあんな女どうにでも……!」
「剣呑なことを仰る。……しかし王子殿の気持ちも慮れるというもの。対外的な雑務も全て王子殿に押し付けているということでありましょう、それは遺憾を示しても仕方なしでしょうな」
「いや、まあ、アイツに日常的な雑務を押し付ける気はねぇけど……何もできなさそうだし……。でもッ、問題は関係性が構築できないことだ。これだけは物理的にも困るし、俺の気が滅入りまくる……」
能面を装着したような女と四六時中同じ屋根の下で過ごし、話し相手にすることすらできない。しかも関係性が皆無ということは、いつ寝首を掻かれてもおかしくないということだ。
仲良くなれなければ――ある夜、休戦協定を無視して包丁で首を切りつけてきてもおかしくはない。普通ならありえない選択だが、何を考えているか分からない奴ならやりかねないと思えた。
そういうこともあり、クロは毎夜のように寝不足に陥っていた。
「ふうむ、そういうことなら可及的速やかに昵懇の仲になる必要性がありますね。仲睦まじければ余計な気苦労を背負い込むことはありますまい」
「それはそうだが……他人と仲良しこよしする方法なんて分からんぞ。俺は化物だ、他者の機微なんて悟れん」
「生誕より長らく兵器として運用され続けてきたのですから、むべなるかなと言うものでありましょうね。……しかし幸運なことに、相手は同類でございましょう。人の気持ちは悟れずとも、同じ化物の気持ちならある程度汲み取れるのではありませんか?」
「……化物の気持ち……かぁ……」
「逆を言えば、化物の気持ちを慮れるのは化物だけということでしょう。広し世界の内々で、あの王女様の気持ちを一番深く理解してあげられるのは貴方なのです」
立場や境遇が同じであれば心を通い合わせやすくなるように、種族が同一であれば互いの心を悟り知ることができる。化物にしか理解できない化物の心を、クロだけが受け止めてあげられるのだ。
それは、つまり。
クロが理解を拒めば、ハルを理解できる者はこの世に居なくなるのだ。
同時に、クロの心を理解してくれるかもしれない唯一の存在を手放すことに他ならない。
「……」
世界でたった二人の本当の化物たちは、きっと偶然出会ったわけじゃない。
こうして帰還できなくなったのも運命によって指し示された巡り合わせなのだ。互いを理解し、認め合い、胸襟を開くために与えられた最後の機会なのだろう。
「……あいつは……何を考えているんだ……」
この世界に来て初めて、クロは心の底からハルの心情を読み解こうとする。
今まで何度も気持ちを悟ろうとしたことはあったが、それはハルの気持ちを受け入れようとしているわけではなく、『なぜ同居人としての務めを果たさないのか』という考察でしかなかった。彼女を受け入れるのではなく、参考書に綴られた問題を解き明かそうとするような、どこか冷たくて空虚な思案でしかない。
今、彼女に必要なものは何なのか。言われたい言葉は、認めてほしいものは何なのか。
どうしたら彼女と分かち合うことができるのだろうか……。
「……若かりし日の懊悩は、老いさらばえし未来には軌跡となりますな」
湯気が消えつつある粗茶を一杯口に含み、諜報員は老婆心でしかない一言をごちる。
子供の頃は大いに悩みなさい。いつか大人になった時、その悩みこそが思い出になるはずだから。
その道筋を辿ってきた大人として、微笑ましそうな表情でクロのことを見守るのだった……。
【無人界来訪から7日後】
扉は開かない。
室内で塞ぎ込んでいる部屋主が望まない限り、鍵は締め切られたままだ。
薄暗い部屋の中でまんじりともせず天井を見つめているハルは、外界に興味を向けることなどない。刻一刻と迫りくる帰還の時を待って待って待ち続けて、戦場へ戻るその瞬間を望むことばかり。
……しかし、それは欺瞞だ。彼女自身は望んでなんかいない。わざわざ戦場に戻ったところで、彼女が幸せになれるわけもないのだから。
それを望んでいると錯覚しているのは、彼女はそうあるべきだと教育され続けてきたからに他ならない。戦うことが生き甲斐、殺すことが使命、それだけが唯一絶対無二の生きる理由。
彼女の世界は、永久に閉じ切ったままで――。
「……?」
不意に彼女の瞼が揺れる。そして真っ黒な瞳が動き、扉を見つめた。
開かないはずの扉から小さな音がする。シリンダーに鍵が差し込まれる音、捻り開錠する音、ノブが握られる音。誰も受け付けない扉は、たった一本の鍵によって開け放たれてしまった。
家を手配してくれた諜報員から合鍵を受け取ったクロが、締め切られたままのハルの部屋の扉を開き、彼女の姿を見据える。
「……」
「……」
二人の視線が交差して――クロは魔法界での戦火を思い出す。彼女の冷めきった瞳と目が合うのは、いつだって獄炎と燻煙が揺らめく戦場のさなかだったのだから。
ハルの瞳に宿るのは、黒いインクをぶちまけたような無感情な色と、その奥底で鈍く輝く敵愾心。この状況は彼女にとって敵襲も同様なのだ、当然の如く友好的な意など覚えるはずもない。
「……ハルモニア王女、出ろ」
「………………」
敵から出ろと言われて無抵抗に従うことなど在り得ない。……ハルは警戒心を片時も薄めず、要求を無視しながらクロの顔を見つめ続けていた。
言葉に従う道理など無いと、発言をしたクロ自身が悟り――彼は淀まぬ足取りで部屋に立ち入り、ハルの前に立ちはだかった。
そしてハルの手首を引っ掴み、力任せに無理やり立ち上がらせる。
「……!」
長いこと座り続けていた彼女は、急に立ち上がることなどできなかった。直立できたのは一瞬だけ、すぐに膝が震えてへたり込みそうになり――。
「おっと」
半ば抱き着かれるように、クロに支えられた。
不意の接触だが胸が高鳴るわけもない。むしろ彼女にとっては敵に組み付かれて拘束されたにも等しいのだ。
……しかし、命を知った。
今まで殺し合ってきた化物にも脈動が響き、仄かな体温が灯っていることを言葉なく知った。
「……………………」
数秒支えられ、ようやくハルは一人で立てるようになった。己の身体をクロから引き剥がすと、胡散臭いものを見るような目つきを彼へと向ける。
そんな視線にもクロは怯まず、再び彼女の手首を掴んで歩き出した。行き先は部屋の外、無理矢理にでもこの部屋から外に出そうというのだ。
ハルは力を込めて抵抗しようとしたが、最低限の食事しか取っていなかった彼女にはクロを振りほどくことなどできない。爪を立てて引っ掻くことはできるだろうが、停戦協定上シロガラ国の王子に危害を加えるなと厳命されているので、命令に忠実な彼女には不可能だ。
だから彼女は為されるがままに、この部屋から連れ出されることしかできなかった。
暗い部屋から眩い廊下へと連れ出され、向かう先はリビングではなく玄関だった。
「行くぞ、お前に見せたいものがある」
「……」
抵抗の余地がないハルは頷くこともせずに、クロに引っ張られるがまま外へと繰り出ていった。
バスを乗り継いで向かった先は、とても閑静な公園だった。
どこまでもだだっ広く、駅名に公園の名前が付けられるほどには何もない場所だ。自然豊かなこともあって休日は家族がピクニックシートを広げ、時折出店が並んで骨董市なんかが開かれる。平日は未就学児を遊ばせるための場所として活用されているが、人口が少ないのであまり有意義に使われているとは言い難い、そんな公園だった。
……しかしそれは平時の姿。
今日の公園はどこまでも賑々しく、華々しい電光に包まれていた。
「……話には聞いてたけど、こりゃ凄いもんだな」
ハルの手首を握ったまま、雄大な公園を見てクロが呟く。彼らと共にバスを降りたカップルたちが真っ先に携帯を取り出し、変貌した公園の姿を記念に残していた。
公園に広がる樹々には電飾が巻き付けられ、青白く、あるいは赤茶けた光を放っていた。まるでクリスマスを思わせるようなイルミネーションの連なりが、公園中の木を光の海のように彩っている。
時には花火を思わせるように眩い閃光を放ち、時には光の色彩を使って絵を描いていく。公園の入り口にはアーチ状のイルミネーションが設置され、来場者たちを煌めかせながら歓待していた。誰もが光彩陸離の世界に目を奪われて、無意識的に非日常の坩堝へと落ちていく。
……それは小南公園が毎年6月~7月に開催している夏のイルミネーション。七夕をモチーフとし、星をイメージした飾りがいくつも結い合わされて、たった一ヵ月間だけ地上に天の川を顕現させる。
先日、近所に住む鶴ヶ島鳳輔という男にオススメされたクロは、ハルをここに連れてくるべきだと思ったのだ。
戦場を日常としていたクロとハルにとって無人界での生活は非日常。しかし無人界を生きる人々はそれを日常として生きている。
きっと、そのコントラストがハルには受け入れられない。クロはそう思い、この非日常へ彼女を連れてきた。
――戦場から帰った者が日常に戻った時、周囲の人々とのギャップで気持ちをおかしくしてしまう事例は何件もある。軍はデブリーフィングによって日常への回帰を促すが、これはその手法とは全く逆のもの。
日常に溶け込めないなら、非日常に溶け込んでしまえばいい。無人界の人々と共に非日常を楽しんで、気持ちを同じくすればよいのだ。
あらん限りの非日常を、この燦然たる天の川で。
心を通い合わせるという夢を叶えるために、彼はここに来た。
「ほら、行くぞ。はぐれるなよ」
彼女の手首を握ったまま、クロは光の公園へと歩き出す。一瞬だけ遅れてハルも歩き出し、二人は閃光に包まれていった。
「……………………」
手を引かれるハルは未だ虚無と無感情が混ざり合った瞳をしている。しかしそんな瞳を忙しなく動かして、辺りに瞬く電飾の蔓を視界に入れていた。
まるでそれは今まで見たことのない光景に脅えているかのよう。
でも、その脅えの中には興味の色が混じり込んでいる。
生まれて初めて目にするフォトジェニックな世界に、彼女の心は僅かな機微を見せていた。
「これ何か分かるか、イルミネーションって言うんだよ。よく分かんないけど、無人界の奴らはこういう眩い装飾を好んで沸き立つらしいんだ」
「………………これ、魔法?」
それは初めてのことだった。自分の殻に閉じこもり続けていたハルが、自発的にクロへ質問を投げかけたのだ。
一瞬だけクロは驚愕を表情に表しかけて、すぐさま顔を引き締めて喉を鳴らす。
「魔法じゃないな。えーと……なんだ、アレ、魔法を使わなくても大量の電気を発生させられる装置があるらしくてな。そこから供給して光らせているらしい」
「……」
全てが魔力から生じる魔法界からやって来た彼らには、イルミネーションがどう発光しているかなんて深く理解できるはずもない。ただただ『そういうもの』として受け入れるしかないのだ。
しかし一般人がテレビの構造をロクに知らないままドラマを楽しんでいるように、魔力も無しに物体が光る理由を知らずとも、その明媚な光彩を心行くまま堪能して良いのだろう。
感動を覚えることに、理由や道理なんて要らないのだから。
ここまでの道中よりも歩調を緩やかに遅らせながら、二人は光のアーチを抜けて公園へと立ち入っていく。照明でライトアップされて七色に光る噴水、縁日を思わせるような屋台の群れ、クリスマスシーズンを思わせるような光る木々の艶やかさ。
まるで別世界に来てしまったかのよう。……無人界に来た時よりも、二人はよっぽどそう思う。
「……」
鮮美透涼の光道を歩きながら、ハルは外国に来たばかりの旅行者のように辺りを見回し、黙する迫力を秘めた光景を目に焼き付ける。
感情を表に出すことがない彼女は、当然のことながらはしゃぎ回ったりするはずもない。しかし初めてテーマパークを訪れた子供のように、その胸には仄かな熱が灯る。
言葉では到底表しきれない衝動を、どう発散したら良いものか。今の彼女にはまだ分からないままに。
「……俺もこっちの世界に来るまでは、あんまり分からない感情だったんだけどさ」
そんなハルの様子をこっそりと確かめながら、クロが小さな声で言う。
「こっちの世界では、こういう光を『綺麗』って言うらしいぞ」
「……綺麗……?」
彼らにとって光とは、爆発魔法が周囲を殲滅する時に放つものであり、炎魔法が戦場を残酷に照らすものであり、闇夜の中で戦闘する際に敵を炙り出すためのものであり、来てほしくもない朝の到来を告げるものでしかなかった。
しかし、この世界で瞬く光は酷薄な意味合いなど含んではいなくて……人の心と思い出に焼き付くためだけに、その身を照らし続ける。
「……綺麗……」
再びハルは小さく呟いて、清らかなる光明を見つめた。
何かを綺麗と思うこと、それは心に余裕がある時にしか得られない感情だ。彼らが魔法界にいる限りは決して知ることのなかった気持ちだろう。
……しかし平和で安穏としたこの世界でなら、光の芸術を味わう余地が生まれるのだ。
「ほら来い、お前を待ち受けてるのはイルミネーションだけじゃないんだぞ」
足が止まってしまったハルの手を引いて、クロは連なる屋台へと歩いていく。出店から漂う焼きそばソースや焼き鳥のタレの薫り。ロクな幼少期ではなかった彼らとて、この香りには原始的な童心を呼び起こされる。
クロは手当たり次第に出店の食べ物を買っていき、手が足りなくなればハルに持たせたりもした。その頃にはもう彼女の手を掴んではいなかったが、拘束を解かれてもハルは逃げようとはしていない。
その中でもとりわけ強い香りを漂わせていたじゃがバターを、彼はハルの口元へと運んでいく。そして小さな口の中に箸で突っ込んだ。
「……」
口の中に広がるバターの味と男爵薯のホクホクとした舌ざわり。蒸らしが足りないのかジャガイモの皮が少しだけ固く、バターも安物なのかどこかジャンクな味わいだ。栄養補給以外で食事を必要としていなかった彼女にとって、栄養の欠片もなさそうな安っぽい食べ物など無意味なものでしかない。
……それでも、ハルにとっては不思議なことだった。
どうしてだろうか。いつも食べている食事よりも、どこか美味しく感じていて――。
「………………?」
美味しい。……そんな感情を覚えるのは初めてだった。
「お前さぁ、いつもメシ喰わなさすぎ。あんなの点滴でギリギリ体動かしてるのと同じだぞ。せっかく舌付いてんだからさ、もう少し味とか風味とかに関心寄せてみろよ」
「……」
「安っぽい屋台の食べ物だけど、なんか雰囲気も相まって美味しいだろ?」
「…………」
ハルは首肯せず、もう一口だけ食べ物を頬張った。返事はないがそれだけで十分に意思は表明しているのだろう。
二人は近くのベンチに座り、ちょっと買い過ぎてしまった食べ物を片付けはじめる。どれもこれも栄養バランスや味の奥行きを無視したかのような味わいだ。色は着色料で染め上げられ、安物の食材を業務用として大量に買い占めて作ったようなものばかり。
……それでも何故か美味しくて、目の前に瞬く光の波を見ながら食べるとより一層味わい深くて。
気づけば――初めてハルは満腹という状態に至っていた。
もう焼きそばやたこ焼きなんかは一口も入らなくて、それでも綿菓子やリンゴ飴だけは何故か食べることができて。満腹の向こう側にある別腹を彼女は初めて知る。
ここに来てから、彼女は数多の初めてを体感していた。
初めてのイルミネーション、初めての屋台、初めての買い食い。
……そして、化物が人のように生きている光景も、初めて見るものだ。
気づけばハルの興味はイルミネーションからクロのほうへと向いていた。彼は片手に持っているかき氷のシロップが膝に垂れていることにも気づかず、ちょっとだけマヌケな表情で装飾された樹々を見上げ、戦場では浮かべていなかった素の表情を浮かべている。
自分と同じ化物が、まるで己のことを人間だと勘違いしているかのよう。
……それは勘違いなのだろうか。それともこの世界に来て、本当に人間になってしまったのか。
彼はどうしてこんな表情を浮かべられるのだろう。数多の地獄を潜り抜けてきたというのに、いつか死地に戻るというのに。何を思ってこの世界を生きているのだろう。
考えれば考えるほど、彼女の頭は混乱するばかりだった。
「次はあっち見に行こうぜ。早咲きのラベンダー畑が広がってるんだとよ。知ってるかラベンダー、アレだよ、ブルーベリーみたいな味がしそうな花」
クロがベンチから立ち上がると、やや遅まきながらハルも次いで立ち上がる。
もう手首は掴んでいない。しかしクロが歩けば彼女も追随し、半歩だけ遅れて彼についていく。そんな彼女がまるで親を追いかける子供のように見えて、クロはこっそりと笑う。
道行く人々とすれ違い、瞬き合うイルミネーションを横切って、彼らは公園の中を歩いていく。真っ黒だったハルの目には電飾の光が差し込んで、仄かに光り輝いているように見えた。
仏頂面さえしていなければ可愛いツラしているのに、とクロは心の中で思う。
「……なあ、ハルモニア。俺たちは確かに化物だ、それは認めざるを得ない」
通行人に聞こえないよう小さな声で、しかし届けたい本人には確かに届くよう、声量を調節しながらクロは呟いた。
「でもなぁ、だからっていつまでも化物として生きてどうするんだよ。誰も俺たちを化物扱いしない世界に来たんだ、機会に恵まれたんだから人間らしく生きても怒られやしないだろ」
「……化物なのに、普通の人間みたいに生きようっていうの……?」
「悪いことだと思うか?」
「…………」
魔法界では人間と化物は明確に区別されてきた。人間と化物は別種、そもそも化物が人間を志すこと自体が理外の発想でしかない。
でも……それが罪だと思ったことがあっただろうか。
人間になりたいと、そんなささやかな夢を見ることくらいなら許されるのではないか。
「あの世界が俺たちを化物だと蔑んでも、ここはその世界とは別物だ。誰も俺たちを責めたりなんかしない。……だったら、少しくらい調子に乗ったっていいだろ」
「……いつか魔法界に帰った時、後悔するのに」
「俺たち、今まで生きてきて後悔なんてしたことあったか? 行動は全部上官命令に準拠して、立案された作戦通りに動くだけ。誰がどう見たって操り人形風情だ、後悔なんてしたことなかっただろ」
「…………」
「わがままなんか言わないから、後悔くらいさせてほしいよ。……自分で何かを選ばなくちゃ、後悔すらできないんだから」
自分で何かを選ぶことは、選択の責任を持つということ。責任なき日々に後悔などありはしない。せいぜい人生の果てに『責任を負わなかったこと』に後悔する程度だろう。
彼はこの世界に来て、ようやく自分で何かを選ぶことができたのだ。
「……これは両親にも諜報員にも言えない、同じ境遇のお前にしか言えないけど……俺はこの世界で人間として生きてみたいんだ。本当の意味で人間になるわけじゃなくて、単なる真似事になるだろう。でも……人間として生きることがどんなものなのか、それを死ぬ前に一度でいいから経験してみたいんだ」
いつしか彼らは広大なラベンダー畑へと辿り着いていた。満開とはいかないがそれでも悠々と咲き誇る花々の間に、蒼色の光を放つ電飾が張り巡らされている。
それは……光に沈む、花の海。
現世に現れた桃源郷が、彼らの目の前で神々しく光を放つ。全ての倫理観を捨ててもいいなら今すぐにでもその海に飛び込んでしまいたいほど蠱惑的で、しかし、沈んでいけば二度と戻ってこられないような神聖ささえ感じさせて。
話の途中だというのに、二人は圧倒的な光景を目にして、言葉を切らして息を呑んだ。
なんだか、今まで生きてきたのはこの光景を見るためであったかのよう。
そんな壮大なことを思ってしまうくらいに、世界は美しく染め上げられていた。
「……なあ、ハルモニア」
「………………」
「お前はどうしたい?」
答えのない問いかけに、ハルは言葉を失う他ない。
今まで自発的に何かをしてきたことなんてなかった。やりたいことも、欲しいものも、夢も希望も望みも、何も自分で抱いたことなどなかった。
誰かに命令され続けて生きてきた彼女に、希望を語ることなどできるはずもない。だから、問いかけられて思考を巡らせようにも、ただどこまでも続く純黒の深淵が脳裏に広がるばかりで。
……そんな彼女の手を掴み、己の存在を示したのはクロだった。
「もし、お前が許してくれるなら……俺と同じ夢を見てくれないか」
「……夢……?」
「そうだ」
手を握ったまま向かい合って。
互いの視線を合わせて、蒼白のイルミネーションに照らされたその顔を見据えて。
「俺と一緒に、人間として生きてほしいんだ」
乞いの言葉を紡ぎだす。
ハルは否定とも肯定とも取れないような表情で固まるばかりだ。
「俺一人じゃ限界があるんだ、一人の力じゃ人間に近づけない。だからお前と二人で人間を目指したいんだ。二人の方が、きっと効率的で、間違いに気づきやすくて……多分、楽しいと思うから」
楽しい。……その言葉を聞いて、ハルの胸中でひときわ大きい鼓動が鳴った。
何かを楽しむという感情を彼女は知らなかった。しかしイルミネーションを見た時に感じた気持ちは、それと似たような色合いなのだろう。
こんな日々が続くなら。
こんな日常が始まるなら。
もう少しだけ、世界は明るくなるのではないか。
「……私に……そんなことが、できると思う?」
「ああ、勿論だ」
有無を言わせぬ強さで肯定して、クロは握った手に力をこめる。
「見てみろ、俺にだってできているんだ。お前にだってできるよ。俺たちは同じ存在なんだから」
「………………」
クロがこの手を引いて、あの薄暗い部屋から連れ出してくれた。
そしてこれからも、どこまでも手を引いてくれるだろう。
もっと綺麗な光景を、素晴らしい毎日を、楽しいひと時を。
手を取り合いながら、人間として感じていくのだ。
……そんな世界を生きてみたい。その気持ちだけは、嘘なんかじゃなかった。
「私に……できるなら……。…………………………人間として、生きてみたい」
ようやく彼女は、自分で選択をする。これからの人生の生き方を、立ち振る舞いを、誰かに命令されるのではなく己の意思で。
初めて漕ぎ出した自由という名の世界は、彼女にとっては広大過ぎて目まぐるしいだろう。しかしクロがこの手を引いてくれる限り、惑い続けることはないのだ。
彼がセントエルモの火となって、ハルのことを見守ってくれている。火が絶やされぬ限り、彼女は道を違えない。
そう願ってしまえば――少女はもう、化物なんかじゃないのだ。
「お前は今日から、化物のハルモニアなんかじゃない。人間として精一杯生きる『ハル』だ。向こうの世界で生きてきた自分なんて胸の内にしまっておけ。……今日、そう、今日だ。お前は今日生まれたと思って生きていけばいい」
「……じゃあ……貴方は、クロ?」
「……そうだな、そう呼んでくれ。魔法界での出来事なんて胡蝶の夢だ、今の俺たちにとってはここが現実なんだよ」
今日、この場所でクロとハルは生まれた。
かつて化物と呼ばれた存在は消え失せて、ここにいるのはただの人間。だからどれだけイルミネーションに感動してもいいし、お腹いっぱい食べ物を食べたっていい。
人間なのだから、幸せになるために生きてもいいのだ。
「それに先立って――」
クロがハルの手を離し、ゆっくりと手を上げて――両手で、ハルの両頬を挟み込むようにして掴む。
いきなり何をされているのか分からず若干混乱しているハルを気にせず、頬を持ち上げるようにして両手を少しだけ上げる。飽きるほど見てきた仏頂面が少しだけ笑っているように見えた。
「お前はもうちょい笑っとけ。そんな悲劇的なツラじゃ人生なんて楽しめねえ。笑って――色々なものを楽しんで、思うが儘にテンションを上げればいい」
「……笑うって……どうやるの?」
「ほら、あれ見てみろ」
クロが視線を向けたのは、目の前に広がる雄大なラベンダー畑だった。両頬を包み込む両手を動かして、ハルにもその光景を目撃させる。
何度見たって、どれだけ堪能したって、この感動は薄らぐことなどない。
「気づいてないだろ? ……お前、少しだけ頬が緩んでるぞ」
「…………」
ハル自身は自覚できなかった。ただ少しだけ頬に走る違和感。これが微笑むということなのだろうか。
「そうやって……少しずつ、笑えるようになればいい。そのために俺たちはこの世界に来たんだから」
「……………………うん」
クロが予想していなかった小さな誤算。
それはハルが思ったよりも素直な子で、すぐに楽しむコツを掴んで、たくさん笑うようになったこと。
たくさんお喋りをして、たくさんの発見をして――世界を楽しむ才能があったこと。
クロが予想していなかった大きな誤算。
それは彼女が心の底からクロのことを案じていて、幸せになってほしいと願っていたこと。
そして、そんな彼女を愛してしまったこと。
その日、闇の世界でクロと出会い。
闇の世界が光に包まれて、ハルは生きる理由を知った。
もしもいつか、誰かに人生を語るなら。
きっと、この日のことを語るだろう。
だってこれは、私がこの世界に生まれた瞬間なのだから。




