1-9.
駆け寄った咲紗はその男の正面に回ると、両手を膝前で揃えた深い礼をする。
「ここでは旦那様じゃないよ、咲紗」
伸ばした人差し指を唇に添えて小声で注意したその男。和泉渉。私の父。若く見えるが五十六歳。若作りではないが三十代後半から四十代前半でも通る外見。
「至りませんで申し訳ありません。ご注意を心得ました」
父に信頼と敬愛を寄せ、盲目的に従う。窘められても嬉しそうな表情の咲紗へ、尻尾振る子犬だ、教祖様と信者だ、と言っても、何言っているのですか、その通りですよ、と全肯定される。
その父は私の全身を眺めると苦笑したまま言う。
「輝子と日向の思惑通りになったか」
姉と叔母の所業を指摘された私はお手上げのポーズで頷いた。
「じゃあ、頑張ってね」
式典でのスピーチの為来校していた学校理事でもある父。
来賓駐車場で毛ばたきに余念がない黒塗り高級車に見向きもせず車に乗り込む。失せた艶と数々の傷が経営者としての矜持を示す愛用の社用車。車窓越しのハンドルを手にする我が父の姿をうっとりと見惚れているだろう咲紗は、許されるなら助手席で御一緒したい、など思っているだろう。それが証拠に、見送りつつ自分の爪先へ頭を垂れるほど深いお辞儀をしていた。
四ナンバーのライトバンに。
「明日は教科担任からシラバスの説明を行って貰う。本日は以上だ。下校!」
終業の号令は藤森さんの右隣りの男子が指名されたが、やり直しギリでセーフの、なよっ、とした掛け声。見た目も同様な優男系。
「玲嗣の通学経路って、こうだよね」
つらつらと私の自宅までの経路を淀みなく諳んじて全て正解した藤森さん。
「そんな事まで、良く知っているね」
諜報機関のポンコツエージェントと警戒している咲紗は藤森さんのヒップで弾かれたり、私との間に挟まっては潰されたりしながらも密着阻止に身体を張っていた。だが。
「ギャハハハハハハ! そこ、ダメっ!」
業を煮やしたか、突如咲紗が藤森さんの脇腹に擽り攻撃を仕掛ける。どさくさ紛れに大容量の胸部乳製品も揉む咲紗は、同性同士でもセクハラは成立すると知っている……、筈だ。
「このぉ~、反撃だ、喰らいやがれ!」
体を捩って離れていた藤森さんが咲紗に報復の擽りを始めた。
「?」
神経が敏感な所を総当たり攻撃されても咲紗は何の反応もせずケロっと
している。
「ふん! マッサージにもなりゃしないね」
「あんた、不感症?」
知る筈もないだろうが、足の裏を擽られると咲紗は悶絶する。
「先生! エロ女が発情していま~す!」
「そんなぁ、褒められちゃったぁ」
場が落ち着くと、私は藤森さんの通学経路を聞いた。学校まで約五十分。渋谷で乗換えて一駅で降りる。駅から歩いて近からず遠からずのマンションだよ、と言われた。
多くの路線が乗り入れる渋谷から一駅なら該当は九駅。そこから近からず遠からずの距離。それは教えないよと言われたのと同じ。
「じゃ、また明日~chu!」
「ふんっ!」
咲紗が掌で叩き落とした藤森さんの投げキスが駅のホームを転がって消えた。
「玲嗣さん、屈んで私と視線を合わせて下さい」
駅のホームの物陰で咲紗が言う。
「動かないで下さいね」
私が腰を下げれば小さな両手を広げ、首の両側から両の耳の下へ、両頬へと滑らせる。拘束した私の顔に向け、小振りだが形の良い唇をゆっくりと寄せる。
咲紗がキスを求めてきた。
藤森さんに対抗する為なのか意図が読めないまま、積極的に仕掛けてきた咲紗に応じようと瞼を閉じて顎を上げる。
コツン 額に感触。
互いに額を寄せたまま開いた瞼の先には上目の瞳と寄り気味の眉。
「お家帰ったら、お熱測りましょうね」
キスじゃなかった。
恥ずかしくなるまで藤森さんに身体を密着されたからか、身体が火照る感じはしていた。
顔色から発熱を見逃さなかった咲紗。
帰りの車中で喉から気管支の違和感、咳、頭痛などの症状を問診されたが異状はないと答えると、声も変ではないと言われた。
「三十七度九分。平熱から一度ちょっと高いですね。ストレス熱でしょうか」
帰宅して着替えると居間のソファに咲紗の膝枕で寝かされて検温されている。
「知人は誰もいなくて、今迄と丸っ切り違う環境でしたからね。緊張されましたか?」
「色々巻き込まれたしね。咲紗に睨まれると罪悪感で弱くなる」
「浮付かないでとの牽制だけです。辛く感じましたか? ごめんなさい」
幼少期から傍にいて、家族の誰よりも長い時間、注意を払って私を見てくれて
いる。
咲紗は私の些細な変化も見逃さない。
「でも、藤森玲奈に絡まれて満更でもなさそうにお見受けしましたが」
咲紗は私の些細な変化も見逃さない。




