6-6.
俺の手は孤独になった。藤森さんは彼女だ宣言したあの日から。
咲紗は必要以上に視線を合わせず、手を繋ぐ事を止めてしまった。
気にする俺が手を繋げば振り解く事はしないが、ふと離れても咲紗から繋いでくる事がなくなった。気まずさからそのまま繋がずにいる俺の手は孤独だ。
「咲紗。目を合わせて一言だけ聞いて欲しい」
自分の手から目を上げると、キッチンで洗い物をする咲紗に告げた。
手を止めた咲紗がこちらを向く。
「藤森さんとの事、嫌な気分にさせたならゴメン」
表情を覆っていた薄氷が融けて、見慣れたいつもの咲紗が現れた。
「男子高校生なら嬉しくて当然の反応です。気にしていませんよ」
咲紗は苦笑しながら俺を見詰める。
眼球が僅かに動いているのは、俺の全身を観察して機微を見抜こうとしている
から。俺が子供の頃から変わっていない。
「咲紗は家族である以上に、俺にはとても大切な人だ。恋人とは次元が違う程大切な人だ。それだけは忘れないで欲しい」
「まるでドン・ジュアンに口説かれた気分です」
軽い口調の皮肉と共にくすっと笑う。
それからは合わせてくれるようになった視線。でもそれは今までと違い、
レントゲンを浴びている様で、表に見えない何かを探っている様な気がする。
藤森さんも変わってしまった。なぜか口をきいてくれなくなった。
藤森玲奈は彼女だ宣言した後から、成績が落ちた分を取り戻そうと、今まで以上の気迫で授業に臨み、休み時間には職員室に押し掛けると教科担任を質問攻めにしている。
成績を上げる為に大切な事だから声も掛けずに唯見守るだけの俺に噂が飛ぶ。
「もう倦怠期?」「夫婦喧嘩?」「離婚?」
噂が好き勝手に飛び交う教室にいるのも不機嫌の一因だったか、図書館脇の自習室に向かう後を付いて行き、声掛けした。
「ねぇ、何かあったの?」
早い足運びが止まって振り返ると、寄った眉を吊り上げたま近付いてきた。
「遅いっ! 彼女が不機嫌そうなら心配して声を掛けるものでしょ?」
廊下に響く声。険しい表情で睨まれ反論出来ない俺は困惑して声が出せない。
「何で不機嫌なのか分かっていないの?」
要らぬ事を言いそうなので首肯した。
「ちょっと顔貸しなよ」
俺達は人気のない体育館裏で対峙した。
「この前のペナルティね。これからは “玲奈” って呼ぶこと」
「え」
「何で私だけさん付け? 彼女でしょ?」
ぐっと顔を寄せられた。
「咲紗は名前で呼ぶじゃない」
「それは……、昔からで」
「はい、“玲奈”」
逃がさない声音だった。
「れ れな」
情けない、か細い声。
「聞こえない。やり直し」
「玲奈」
「はい。私の大切な彼氏 れ・い・じ」
甘くて優しい声。寄っていた眉が下がった。その下の目尻が下がっていた。
ぷっ、と吹くと背を丸めた玲奈が前屈みになり、笑い声を漏らす。
「若い彼氏から呼び捨てにされるのも素敵。“玲奈” だってさ」
「?」
玲奈の言葉を聞いた途端、何だか分からない大きな違和感が引っ掛かった。
今迄と同じ笑顔に戻った玲奈がゆっくり近付くと、神妙な顔つきで言う。
「確かめたかった。私のこと本当に彼女だと思っているのか、ってね」
「う、うん」
「こんな我儘な私を彼女にしてくれて有難う。これからも宜しくお願い致します。大好きだよ、玲嗣」
俺の頬に唇の感覚を残した玲奈が体育館裏から校舎に戻った。
追う事をせず見送っていた自分の中で口に出せない大きな違和感を
見詰めている。
若い彼氏から呼び捨てにされるのも素敵。 学校では玲嗣だけなんだよ。
若い彼氏ではない誰か。学校以外にいる誰か。
考え過ぎかも知れないと自分に言い聞かせた。
俺の耳に届くはずもない独り言を玲奈が引き連れていたとは気づかないまま。
「……ほんと、鈍いのね」
「ドン・ジュアン」
スペイン語の「ドン・ファン(Don Juan)」のフランス語読みが「ドン・ジュアン(Don Juan)」
スペインの伝説上の人物に由来する「好色な男」「女たらし」という意味




