08 北へ
「お休みの支度をなさりますよね。侍女をお呼びします。今日はもうお休みください。」
扉のそばにいるセイレンは頭を下げ扉に手をかける。
「私は部屋の前におりますので」
一言付け加えて男は廊下へ出た。
いつもならば孤独感を感じたことのないこの部屋は静寂の中。
これから私はどうなるのだろうか。
解消されない疑問だけが沸々とルーシャの中で膨れるのであった。
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3日というのはあっという間にすぎ、出立当日。
「北部はとても寒い地域ですから」
そう言って乳母たちは羊毛でできた厚手のガウンやマフラーなど、ありとあらゆるものを私に着せる。
「もう十分よ」
あまりに沢山のものを押し付けるものだから、とてもじゃないが動けない。
乳母がせっかく着せてくれたが、必要最低限のものだけを身にまとう。
今日で最後。
母が亡くなってからずっと住んでいたジーナ宮。
またいつか戻れるかしら。
そんな淡い期待を胸にそっとしまいルーシャは部屋を出る。
部屋の前には白銀の男がいつもの様に立っていた。
「おはようございます。皇女殿下」
胸に手を当て挨拶をするその姿は騎士そのもの。
「…」
顔を上げた男はジッとルーシャを見つめる。
「何かしら?」
「いえ…」
それだけを言い残し男は視線を廊下奥へと移した。
ルーシャは自分の姿がおかしいのか?と心配になり、足元まで目線を落とす。
やっぱり変かしら?
そう思うと少し恥ずかしくなり耳元が熱くなるのを感じた。
「ご案内いたします」
3日前の様に広い廊下を歩く男とルーシャ。
その後ろには乳母と侍女。
馬車へ続く長い回廊を歩きながら、ルーシャはちらりと隣の青年を見る。
相変わらずセイレンは無駄な言葉を口にしない。
けれど今日は、3日前とは違った。
廊下の角。
窓際。
吹き抜けへ続く影。
まるで何かを確認するように、青い瞳が静かに周囲を見ている。
「……そんなに警戒しなくても、ここは城の中でしょう?」
ルーシャが小さく呟くと、セイレンは足を止めないまま答えた。
「城の中だからです」
短い返答。
「え?」
「外敵より内部の方が厄介なこともあります」
淡々とした声音に、後ろを歩く乳母が不安そうに顔を曇らせる。
「物騒なことを仰らないでくださいませ……」
乳母の震える声にも、セイレンは表情を変えない。そのまま階段を下り、中庭へ出た瞬間だった。
冷たい風がルーシャの頬を撫でた。そこには、すでに出立の準備を終えた騎士たちが並んでいた。
銀色の鎧。
北部騎士団の紋章。
帝都の騎士とは違う、どこか荒々しい空気。
その中央に停められていた馬車を見た瞬間、ルーシャは思わず目を瞬かせた。
「……これで行くの?」
皇族用とは思えないほど質素な馬車だった。装飾も少なく、紋章すらほとんど目立たない。
「目立たぬ方が安全です」
セイレンが静かに答える。
「安全って……帝国の皇女なのよ、私は」
「だからです」
即答だった。その瞬間、ルーシャは小さく眉を寄せる。
「北部騎士団も一枚岩ではありません」
セイレンの低い声だけが静かに響く。ルーシャは思わず騎士たちを見渡した。同じ銀の鎧を纏っているはずなのに、どこか空気が違う。
こちらを見ない者。
逆に品定めするように見つめてくる者。
感情を隠すように俯く者。
その視線の一つ一つが、ルーシャの胸をざわつかせた。
「……本当に、そんな場所へ行くのね」
小さく零れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
セイレンは答えずただ静かに馬車の扉へ手をかける。
「参りましょう」
その声には迷いがなかった。
ルーシャはゆっくりと振り返る。
ジーナ宮。
母が生きていた場所。乳母と過ごした日々。暖かな香り。穏やかな時間。
その全てが朝靄の向こうに霞んで見えた。
もう戻れないかもしれない。
理由もなく、そんな予感が胸を過る。
「お嬢様……」
後ろにいた乳母の震える声。
振り向けば、乳母は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
「どうか、お身体にはお気をつけくださいませ……」
ルーシャは小さく微笑む。
「えぇ。行ってくるわ」
強く言ったつもりだったけれど最後の声だけ、少し震えた。
セイレンが無言のまま骨ばった大きな手を差し出す。
ルーシャはほんの少し躊躇ったあと、その手へ自分の指先を重ねた。
その手は驚くほど冷たかった。まるで雪に触れたようだった。
馬車へ乗り込む直前。ふと、妙な感覚がした。
……見られている。
ルーシャは反射的に顔を上げる。
高い回廊。
塔の窓。
遠くの渡り廊下。
けれど、そこには誰もいない。
冷たい風だけが石畳を撫でていく。
「殿下」
セイレンの声で我に返る。
「時間です」
その声音はいつも通り静かだったが青い瞳だけは、鋭く周囲を警戒している。ルーシャは何も言わず馬車へ足を踏み入れた。
扉が閉まる。
薄暗い馬車の中で、ルーシャは無意識に母の髪飾りを握り締める。
ゆっくりと馬車が動き出した。小さく揺れる窓の向こうで、ジーナ宮が少しずつ遠ざかっていく。その景色を見つめながらルーシャは思う。
私は今、本当に……
“知らない世界”へ向かっているのだと。




