06 夜の気配
3日後には宮を立つこと。
これからは北部地区のミエルタ城で生活すること。
ことの経緯を聞いた乳母は、突然の出来事のあまり目を見開いた。
「この方が護衛騎士様ですか……?お嬢様と年も変わらない青年ではないですか……!」
いつもは穏やかな乳母からの発言とは思えないほど強い声音だった。
乳母は扉を警護するセイレンへ、隠しきれない疑念の眼差しを向ける。
「セイレンは父が直々に拝命なさった騎士よ。いくら乳母でも、それ以上の侮辱は許しません」
皇女として放たれたその言葉には、静かな威厳があった。
「も、申し訳ございません、お嬢様。わたくしはただ、お嬢様が心配で心配で……」
「分かっているわ」
ルーシャは戸惑う乳母の肩へ優しく手を置く。
「今日はもう疲れたの。休ませて」
この場で、今いちばん混乱しているのはルーシャ自身だった。
乳母が深く頭を下げ、静かに部屋を後にする。
扉が閉まる直前、もう一度だけセイレンを警戒するように見たことに、ルーシャは気づいていた。
部屋に沈黙が落ちる。
窓の外では夕暮れの鐘が遠く響き、赤く染まった光が床へ長く伸びていた。
ルーシャはゆっくりと息を吐き、机の上へ視線を向ける。
そこには、幼い頃から大切にしてきた母の形見、銀細工の髪飾りが置かれていた。
ミエルタ。
その名を聞いた瞬間から、胸の奥に冷たいものが残っている。
北部の地。
雪深く、古い城があるだけの閉ざされた土地。
宮では、あまり語られることのない場所だった。
……どうして私が、そこへ?
考えれば考えるほど、不安ばかりが広がっていく。
その時だった。
「殿下」
低く静かな声がして、ルーシャは顔を上げた。
扉のそばに立つセイレンが、こちらを見ている。
先ほどまで無機質に見えた青い瞳が、私を捉えて離さない。
「北部へ行く理由はご存知ですか?」
突然の問いにルーシャは戸惑う。
「皇帝陛下がおっしゃる通り北部の統括のためだと。しばらく北部で過ごせと、それだけよ」
ルーシャがそう答えると、セイレンはほんの僅かに視線を伏せた。
「……では、殿下は詳細までは聞かされていないのですね」
「詳細?」
「城でもお伝えした通り北部は現在、かなり不安定な状況です」
低い声が静かに落ちる。
「領主同士の対立、度重なる凶作、騎士団の衝突、魔物……帝都から派遣された役人が戻らないこともある」
ルーシャは思わず目を見開いた。
「そんな話、宮では……」
「伏せられています」
セイレンは淡々と答える。
「民の不安を避けるためでしょう」
窓の外では夕暮れの赤が薄れ始めていた。
部屋の中にも、ゆっくり夜の気配が満ちていく。
「……どうして私なの」
小さく零れた問いに、セイレンはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向けたまま、しばらく沈黙が続く。
やがて彼は低く口を開いた。
「北部では、皇后派の影響が弱い」
短い言葉だった。
「……え?」
ルーシャが顔を上げると、セイレンは淡々と続ける。
「中央貴族との繋がりも薄い。先皇后陛下を支持していた古い家系も、まだ残っています」
感情の見えない声音。
まるで事実だけを並べているようだった。
「だから私が?」
「皇族を置けば、北部の領主たちも表立っては動きづらくなる」
セイレンの青い瞳が静かにルーシャを捉える。
「殿下は、そのために送られる」
その言葉に、胸の奥が冷たく沈んだ。
守られるためではない。
利用されるため。
そんな感覚だけが残る。
ルーシャは無意識に母の髪飾りへ触れた。
「……私に務まるとは思えないわ」
弱く呟くと、セイレンは静かにルーシャを見る。
その瞳には同情も慰めもなかった。
「務めていただかなければ困ります」
淡々とした返答。
あまりにも冷静で、ルーシャは思わず眉を寄せる。
「随分はっきり言うのね」
「事実です」
即答だった。
部屋に再び沈黙が落ちる。
窓の外では、最後の夕暮れがゆっくり闇へ沈み始めていた。




