17 胸に残る影
17
「……っん…」
ふと意識が浮かび上がる感覚と共にルーシャはゆっくりと瞼を開いた。
微かに差し込む優しい日差しが心地よく感じられた。
しばらくの間ルーシャは隙間から見える外の景色をぼんやりと眺めていた。
ここはどこだったかしら……。
そんなことを考えているとようやく昨日の襲撃の一連が頭に浮かんだ。
突然の襲撃、賊や騎士達の声、馬の嘶き、剣がぶつかり合う音、そして黒い霧———
「……っ」
胸の奥が僅かにざわついた。だが胸の少しの違和感もルーシャは熱のせいだと思った。
ゆっくりと身体を起こそうとしたが身体は鉛の様に重く感じた。熱は下がった様な気がするが、ずっと眠っていたかの様な倦怠感。
「何かしら」
痛みがあるわけでも苦しいわけでもない。だが何かがひっかかる様な感覚がしてルーシャは胸元へを手を当てる。
「……?」
首を傾げたその時だった。
コンコン
外から誰かが扉を叩く音が響いた。
「お目覚めですか」
聞き慣れた低い声だけが聞こえた。
「入って」
扉が開きセイレンが姿を現す。白銀の髪が差し込む光に照らされていた。
寝台の近くまでやってきたセイレンは変わらぬ声色で
「気分はどうですか?」と尋ねてきた。
「最悪よりは…少しましかしら」
ルーシャはニコリとセイレンに微笑みかけるとセイレンの肩から僅かに力が抜けた様な気がした。だが次の瞬間、セイレンの視線がルーシャの胸元で止まった。
「殿下?」
その声にルーシャは我に返った。胸の違和感から抑えていた手がまだ胸元に置いたままだった。
「どこか痛みますか」
いつも通りの落ち着いた声だが、瞳だけは僅かに鋭かった。
「いいえ」
ルーシャは首を横に振る。
「でも、すこしだけ…ほんの少しだけ変な感じがしただけよ」
「変な感じ?」
「もう大丈夫よ」
そう言ってルーシャは手をヒラヒラと振って見せた。だがセイレンはすぐに視線をずらすことなく何かを確かめる様にルーシャを見ていた。
「セイレン?」
そう呼びかけると彼はハッとしたように視線を瞳に合わせた。
「失礼しました」
相変わらず何を考えているのかわからない人。ルーシャは不思議と首を傾げて考えた。
「熱は下がりました。無理をしなければ問題ありません。」
「そうなのね。」
ルーシャは小さく息を吐いた。昨日の様な苦しさはないがまだ身体は重かった。
「一緒にいた騎士達は…」
突然の襲撃だった…私を守るために戦ってくれた騎士達を案じるルーシャを見たセイレンは即座に答えた。
「皆無事です。」その声が妙に安心させてくれた。
「無傷と言うわけではないですが、死んだものはいません」ルーシャは再び安堵の息を吐いた。
窓の外からは馬の鳴き声や人の声が聞こえてきた。
「もう出発するの?」
「お辛いでしょうが、本日中にここを立ち北部へ向かいます」
胸元に手を当て頭を下げる彼からは妙な距離が感じられた。昨日私を守ってくれた彼のはずなのにどこか違って見えた。
「セイレン」
呼びかけると彼は静かに顔を上げた。
「何かあったの?」
ルーシャ自身なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。ただ妙に気になってしまったのだ。
セイレンはほんの一瞬だけ目を伏せ
「何もありません」 即答だった。
気のせいだったのかもしれない。彼は護衛騎士だ。私の知らない任務や事情もあるのだろう。
「そう」
それ以上は聞けなかった。聞いたところで彼は何も答えてくれないだろう。
「あとどれくらいで到着するのかしら」
話題を変える様にルーシャは尋ねた。
「あと5日ほどです。今回は急な出来事だったためこの宿ですが他日の計画は既にできております。」
相変わらず真面目な回答だった。その口調に思わず小さな笑みがこぼれた。
「あなたは本当に融通が利かないのね」
「……?そうでしょうか」
本人にはやはり自覚はないらしい。真顔で返されてしまいルーシャは肩を震わせた。
「少なくとも私の周りには今までいなかったわ」
「それは光栄です」
「別に褒めてはいないのだけど」
ほんの少しだけ場が和む気がした。
「準備が終わり次第出発いたします」
セイレンの返答と共に扉の外から足音が聞こえてきた。
コンコン———扉が叩かれる音がした。
「失礼いたします」
聞き覚えのある声だった。ルーシャはそんなことはないと目を瞬かせる。
「入って」
扉が開きその姿を見たルーシャは目を見開いた。
「……乳母?」
そこに立っていたのは幼い頃から面倒を見てくれた乳母だった。もう会えないと思っていたのに早い再会だった。
「お嬢様…!」
乳母は一目散に寝台へ駆け寄る。泣いていたのだろう、その目は赤く充血していた。
「本当に…本当にご無事で…」
ルーシャは驚いたまま瞬きを繰り返す。
本来なら今頃皇宮にいるはず。乳母頭として多くの侍女達を教育していく立場になるはず。なのにどうして?
「襲撃の知らせを受けました」
乳母はそう言いながらルーシャの手を包み込んだ。
「いてもたってもいられませんでした」
「でも…皇宮は、」
「そんなことはどうでも良いのです」
珍しく強く大きな声だった。
「お嬢様より大事なものはありません」
ルーシャは思わず言葉を失った。幼い頃から変わらない。ずっと私のことを心配して大切にしてくれる存在。少しだけ過保護な私の大事な人。
気づけば自然と笑みがこぼれていた。
「心配をかけてしまったわね」
「本当にです」
そのあまりにも早い返答に思わず吹き出しそうになる。乳母もようやく落ち着いてきたのか少しだけ表情を和らげた。
「まったく…お嬢様は子供の頃から心配を…」
「そんな昔の話…。今回は私のせいではないでしょう」
「そう言う問題ではありません」
呆れた様な返答だった。だがその声には安堵が滲んでいた。
乳母の顔を見るだけで、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んでいく気がする。皇宮を離れてから初めてだった。心から安心できる相手に会えたのは。
「それよりお嬢様」
乳母はすっと表情を引き締めた。
「出発の準備を進めなければなりません」
「本当に今日出るのね」
「えぇ」
今度は乳母ではなく扉の近くにいたセイレンが答えた。
「ここに長居はできません」
その声に迷いはなかった。
正直なところ、もう少し休みたい気持ちはあった。だが昨日の襲撃を思い出せば無理も言えなかった。
「分かったわ」
そう答えると乳母は満足そうに頷く。
「では侍女達を呼びます」
合図と共に数名の侍女が部屋へ入ってきた。それぞれの手には衣服や旅支度が抱えられている。
「さぁ、お着替えを」
ルーシャは頷き、ゆっくりと寝台から足を下ろした。だが立ち上がった瞬間、ふらりと身体が揺れる。
「お嬢様!」
乳母の慌てた声よりも先に大きな手がルーシャの前に伸び、ルーシャの身体を倒れない様に支えた。
「…ありがとう」
そう言いながらも足元は頼りない。熱は下がったとはいえ、一日寝込んでいた身体だ。すぐに元通りとはいかなかった。その様子を見ていたセイレンが静かに口を開く。
「無理はなさらないでください」
「分かっているわ」
ルーシャは苦笑した。
するとセイレンは僅かに視線を逸らす。
「着替えが終わりましたらお呼びください」
ルーシャを支える手を離した彼は一礼して扉へ向かった。閉まる扉を見つめながら、ルーシャは不思議な気持ちになる。
相変わらず何を考えているのか分からない。
けれど———
少なくとも、自分を守ろうとしてくれていることだけは伝わっていた。
窓の外では出発の準備が進んでいる。
北部への旅が、再び始まろうとしていた。




